第8話:聖女の鉄槌と、王太子の微笑
「さて、聖女殿。アシュレイ領の治水問題についてだが……王室からのインフラ支援に関する検討書は、すでに目を通しただろうか?」
王太子ジークヴァルト・フォン・ベルンシュタインの低く響く声が、秋薔薇が咲き誇る王宮庭園の空気を一変させた。
それまで、令嬢たちが必死に紡ぎ出していた優雅で無難な社交辞令や、最新のドレスの流行、観劇の感想といった甘やかな会話の数々が、冷水でも浴びせられたかのようにピタリと止む。
ジークヴァルトの金の瞳は、真っ直ぐに隣の席に座るエルリアに向けられていた。
その瞳の奥底で、肉食獣のような獰猛な光が「さあ、どう切り返す?」と挑発的に揺らめいているのを、エルリアは見逃さなかった。
(……この伏魔殿のど真ん中で、いきなり実務の話? 本当に性格が悪いわね、この腹黒王太子)
エルリアは内心で舌打ちをしながらも、完璧な「聖女の微笑み」を崩すことなく、伏し目がちにジークヴァルトを見つめ返した。
「ええ、殿下。ありがたく拝見いたしましたわ」
エルリアは、膝の上に置かれた革の鞄の感触をそっと確かめた。
その中には、アシュレイ領の治水工事の裏に隠された、愛する弟ルカの「教育支援金」を含む、恐るべき金額の『追加予算案』が眠っている。
「領民を思う殿下の海より深い御慈悲に、わたくしは涙が止まりませんでした。……ですが、わたくしからも、殿下に一つご提案……いえ、『お願い』がございますの」
エルリアが言葉を紡ごうとした、まさにその時だった。
「殿下! そのような泥臭いお話は、後ほど執務室でなさるべきですわ!」
パチンッ! と、扇を閉じる鋭い音が響き渡り、エルリアの言葉を遮った。
声の主は、ジークヴァルトの正面に座っていた令嬢。
現筆頭侯爵家の令嬢であり、王太子妃の座を射止める最有力候補と目されている、ベアトリクス・フォン・ロシュフォールだった。
燃えるような真紅のドレスに身を包んだ彼女は、これ見よがしにため息をつき、扇で口元を隠しながらエルリアを冷ややかに見据えた。
「このような麗らかなお茶会の席で、下々の水路の話など……。皆様の耳が汚れてしまいますわ。それに、アシュレイ嬢も困惑なさっているでしょう?」
ベアトリクスの言葉に、周囲の令嬢たちが同調するように小さく頷き、クスクスと笑い声を漏らす。
「そうよ、殿下。それよりも、先日我が家が東方の国から輸入した『幻の香油』のお話を聞いていただけます? その香りは、まるで天上の花園を彷彿とさせるほどでして……」
ベアトリクスは、エルリアを完全に「いないもの」として扱い、身を乗り出してジークヴァルトにすり寄る。
(<幻の香油? くだらない。そんな揮発性の高い液体に、どうせ一オンス金貨五枚は下らない金額を注ぎ込んだんでしょう? その香りを嗅ぐためだけの無駄な金で、うちの領地の子供たちの冬靴が何足買えると思ってるの? この歩く負債が……っ!>)
エルリアの脳内で、無慈悲な算盤がパチパチと弾かれる。
しかし、彼女の表情は少しも曇ることなく、むしろ「無知な子羊を哀れむ」ような、底知れぬ慈悲をたたえていた。
ジークヴァルトは、ベアトリクスの言葉には一切答えず、ただつまらなそうに手元のティーカップを傾けた。
その態度は、ベアトリクスのプライドをさらに逆撫でした。
「……まあ。アシュレイ嬢は、お茶がお気に召さないのかしら? 先ほどから、一口も召し上がっていないようだけれど」
ジークヴァルトの関心を引けない苛立ちの矛先を、ベアトリクスは再びエルリアに向けた。
彼女は自身の前に置かれた最高級のマイセンのティーカップを優雅に持ち上げ、エルリアの前に置かれたカップを指差して嘲笑った。
「貴女には、このお茶の『価値』がお分かりにならない? 王宮が厳選した、一等級のダージリンですのよ。子爵家の薄いお茶に慣れたお口には、少し刺激が強すぎるのではないかしら」
「ベアトリクス様、お言葉が過ぎますわ」
隣に座っていた取り巻きの令嬢が、わざとらしく口元を押さえる。
「……ああ、失礼。そもそも『本物』を召し上がったことがないのだったわね。アシュレイ領では、普段は雑草でも煮出して飲んでいらっしゃるのかしら?」
令嬢たちの忍び笑いが、庭園に広がる。
明白な、そして低劣な家格と財力によるマウントだった。
ジークヴァルトが、ふっと目を細め、隣のエルリアがどう出るかを見極めようとするのがわかった。
彼には止める気など毛頭ない。この状況を楽しんでいるのだ。
「……皆様、お気遣い痛み入りますわ」
エルリアは、悲しげに目を伏せ、静かに首を振った。
「ですが、わたくしはただ……この一杯のお茶に込められた『重み』に、胸がいっぱいになっていたのです」
「重み、ですって?」
ベアトリクスが鼻で笑う。
「何をおっしゃるの。紅茶は楽しむものですわ。貴女のように、いちいち貧乏くさいことを考えていては、せっかくの香りが台無しです。……そうね、少し『アレンジ』をして差し上げましょう」
ベアトリクスは、自身のテーブルに用意されていた、香りの強い安価なハーブ(本来は手指を清めるためのフィンガーボウルに浮かべるためのもの)を無造作に掴み取った。
そして、あろうことか、それをエルリアのカップの中へとボトリと落としたのだ。
「これで、少しは飲みやすくなったのではないかしら? 田舎の『雑草』の香りに近くなりましたでしょう?」
周囲の令嬢たちが、一斉に息を呑んだ。
いくら身分が下とはいえ、王家主催の茶会で、他人のカップに異物を混入させるなど、明確な侮辱でありマナー違反である。
(……やったわね)
エルリアの瞳の奥で、カチリと何かが噛み合う音がした。
相手が、自ら「聖女の反撃のスイッチ」を押してくれたのだ。
「ベアトリクス様」
エルリアは、少しも動揺せず、ゆっくりと立ち上がった。
そして、ハーブが浮き、台無しになった紅茶を見つめながら、ポロリと一筋の涙をこぼした。
「……なんと、もったいないことを」
「は? もったいない? ただの紅茶でしょう?」
「『ただの紅茶』……?」
エルリアは、信じられないものを見るような目で、ベアトリクスを見つめ返した。
その瞳には、深い悲しみと、無知な者に対する嘆きが満ちていた。
「ベアトリクス様は、ご存知ないのですね。この一等級のダージリンが、どのような過程を経て、この王宮のテーブルに届くのかを」
エルリアの声は、静かだが、庭園の隅々にまでよく響いた。
「この茶葉を栽培するために、遥か東方の高地で、どれほどの農民が急斜面で汗を流していることか。それを船に乗せ、海賊や嵐の危険を乗り越えて何ヶ月もかけて運ぶ船乗りたちの命がけの航海。そして、王宮に納入されるまでの莫大な輸送費と、関税の数々……」
エルリアは、あえて「聖女の博愛」の知識として、スラスラと、そして完璧な数字の羅列を交えて語り出した。
「このカップ一杯の紅茶の原価は、おおよそ銀貨三枚。そして、貴女が今投げ入れたハーブの原価は、わずか銅貨一枚にも満たないでしょう。……しかし、その『銀貨三枚』の裏には、数え切れないほどの人々の労働と、国の宝とも言える莫大な予算が投じられているのです」
エルリアは、胸の前で両手を組み、痛切な表情で天を仰いだ。
「この一滴に、どれほどの職人の汗と、命が詰まっているか。それを……それを、このように『遊び』で汚されるなんて……。わたくし、悲しくて、農民たちの無念を思うと、涙が止まりませんわ」
完璧な、そして残酷なレッテル貼りだった。
「食べ物を粗末にする高慢な女。領民の血税である国の予算を『遊び』で無駄にする傲慢な貴族」
周囲の令嬢たちの間に、動揺が走った。
いくらベアトリクスが侯爵令嬢であろうと、エルリアのこの圧倒的な「正論」と「慈愛」の前にあっては、彼女の行動はただの「無知で下劣な嫌がらせ」にしか見えないのだ。
「な……っ、何を馬鹿な! たかが紅茶一杯で、大袈裟な……っ!」
ベアトリクスの顔が、羞恥と怒りで真っ赤に染まる。
「『たかが』、と言いましたか?」
「ベアトリクス様、もうおやめになって」
先ほどまで同調していた取り巻きの令嬢の一人、伯爵令嬢のカトリーヌが、焦ったようにベアトリクスの袖を引いた。
「皆様が見ておられますわ。アシュレイ嬢の言う通り、少し度が過ぎました」
カトリーヌは、ベアトリクスを庇おうとした。
これ以上エルリアを刺激すれば、侯爵家だけでなく、同席している自分たちにも「浪費家」の非難が飛び火すると本能的に悟ったのだ。
「アシュレイ嬢、ベアトリクス様も悪気はなかったのです。ただ、貴女のお口に合うようにと……」
「ええ、わかっておりますわ、カトリーヌ様」
エルリアは、天使のような微笑みでカトリーヌの言葉を遮った。
「悪気なく、一瞬の遊びで『銀貨三枚』をドブに捨てる。それが、侯爵家や伯爵家の皆様にとっての『日常』なのだと、わたくしは痛感いたしました。……わたくしのような、領民のパン一つに命を懸ける者とは、住む世界が違いすぎるのだと」
「っ……!」
カトリーヌは言葉に詰まり、顔を青ざめさせた。
庇おうとした言葉が、見事に逆手に取られ、彼女自身も「同罪」として引きずり込まれたのだ。
庭園の空気は、完全にエルリアの「聖女としての清廉さ」に支配されていた。
誰もが、ベアトリクスたちを非難がましく、そしてエルリアを同情の眼差しで見つめている。
その時だった。
「……素晴らしい見解だ、アシュレイ嬢」
それまで沈黙を守っていたジークヴァルトが、パン、パン、とゆっくりと拍手をしながら立ち上がった。
その表情には、氷のように冷ややかな笑みが浮かんでいる。
「ロシュフォール令嬢。君は、王室が巨額の予算を投じて用意したこの茶会を、『遊び』だと断じたわけだ」
ジークヴァルトの低く鋭い声に、ベアトリクスの肩がビクリと跳ねた。
「で、殿下……! そ、そのようなつもりでは……!」
「言い訳は不要だ。……アシュレイ嬢の方が、よほどこの国の『価値』を、そして領民の労苦を理解しているようだ」
ジークヴァルトは、完全に青ざめたベアトリクスを見下ろし、冷酷な宣告を下した。
「君の無知が招いた浪費だ。後ほど、この茶会一回分のコストを正確に算出した明細を、君の父上に送らせよう」
「な……っ!?」
「……もちろん、アシュレイ領の『治水支援金』への寄付という名目なら、王家に対する不敬罪は問わないでおくが?」
ジークヴァルトのその言葉に、エルリアの内心でファンファーレが鳴り響いた。
(ナイス! ナイスアシストよ腹黒殿下! さすが私をオモチャにしようとするだけあって、嫌がらせのスケールが違うわ! 侯爵家からの『寄付』なら、ルカの予備の教科書代どころか、王都の別荘の頭金まで上乗せして請求できるじゃないの!!)
エルリアは、歓喜で震えそうになる体を必死に押さえ込み、再び悲しげに目を伏せた。
「殿下……。わたくしのために、そこまで……。ですが、ベアトリクス様もきっと深く反省しておいでです。どうか、寛大なご処置を」
(もちろん、寄付金は一デナリの端数までキッチリ毟り取るけどね!)
「殿下、わたくしは……っ、わたくしは……!」
ベアトリクスは、屈辱と敗北感で唇を噛み締め、涙目になってその場に崩れ落ちそうになった。
「失礼……いたします……っ!」
彼女はついに耐えきれず、ドレスの裾を翻して庭園から走り去っていった。
カトリーヌもまた、青ざめた顔でそそくさとその後を追う。
嫌がらせをした側が、物理的ではなく「経済的・社会的」に完全なる敗北を喫した瞬間だった。
庭園には、気まずい沈黙が流れた。
残された令嬢たちは、もはやエルリアに対して不用意な発言をすれば、どのような「経済的報復」が待っているかを見せつけられ、恐怖で口を閉ざしていた。
「……さあ、茶会を続けよう」
ジークヴァルトが、何事もなかったかのように席につく。
周囲の令嬢たちが、遠巻きに二人を眺める中。
ジークヴァルトは、隣に座るエルリアに向かって、周囲には聞こえないほどの小さな声で囁いた。
「……満足か、守銭奴」
その声には、呆れと、そして確かな「称賛」が混じっていた。
エルリアは、一切表情を崩さず、小首を傾げて微笑み返した。
「何のことでしょう。わたくしはただ、殿下の財政感覚の素晴らしさに感動しただけでございます。……さて」
エルリアは、ついに膝の上の革の鞄を開き、中から分厚い書類の束を取り出した。
「先ほどの『インフラ支援金』の件ですが。わたくし、より効率的な『追加予算案』を、偶然にも鞄の中に持っておりますの」
バサッ、と。
エルリアが、優雅な所作で、しかし確かな重量感のあるその要求書をテーブルに置いた。
そこには、アシュレイ領の治水工事だけでなく、「ルカの教育支援金(将来の特待生枠確約付き)」という、強欲の極みのような条件がぎっしりと書き込まれている。
ジークヴァルトは、その書類を一瞥し、そしてエルリアの決して引かない、獲物を狙うような瞳を見つめ返した。
「……面白い」
ジークヴァルトの金の瞳が、獰猛な喜悦に光る。
「受けて立とう。君のその強欲が、どこまで私を楽しませてくれるか、見せてもらおうか」
王宮の庭園、華やかな茶会の片隅で。
「聖女の仮面を被った守銭奴」と「完璧な王太子の仮面を被った冷徹な観察者」による、互いの利益と知略を懸けた、本格的な化かし合いの戦端が、今、静かに切って落とされた。




