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仮面の聖女 〜完璧な社交辞令と内心は一致しない〜  作者: tky@複数作品を同時連載中
第1章:微笑みの真相

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第9話:計算外の信者と、悪魔の契約書

次回から0時更新にします。

ベアトリクスとカトリーヌが、屈辱と敗北感にまみれて逃げるように退場した後。


王宮の庭園に設けられた茶会の席は、水を打ったような静寂に包まれていた。


残された高位貴族の令嬢たちは、皆一様に顔をこわばらせ、扇を持つ手を微かに震わせている。


家格も財力も圧倒的に上であるはずの侯爵令嬢が、言葉一つで完膚なきまでに社会的に「屠られた」のだ。


しかも、相手は「慈愛」と「領民への愛」という絶対的な正義の盾を構え、一切の非難を浴びることなく、むしろ周囲の同情を集めながら。


(誰も口を開かないわね。まあ、当然かしら)


エルリアは、悲しげに伏せていた目をゆっくりと上げ、おもむろに手元の紅茶(新しいカップに注がれたもの)に口をつける。


(これで、少なくともこの場にいる令嬢たちは、不用意に私に噛み付いてこないはず。下手に嫌がらせをすれば、実家に莫大な『寄付金』の請求がいくと学習したでしょうから)


完璧な「聖女の勝利」だった。


エルリアが内心で小さく安堵の息を吐いた、その時である。


「あ、あの……っ、アシュレイ嬢……!」


小動物のように震える、細い声が響いた。


エルリアが視線を向けると、一人の少女がおずおずと、しかし決意を秘めたような足取りでこちらへ近づいてくるのが見えた。


ローゼンベルク伯爵家の令嬢、クロエだった。


彼女は社交界でも大人しく、いつもベアトリクスたちの陰に隠れているような、目立たない少女だったはずだ。


「クロエ様。いかがなさいましたか?」


エルリアは、最大限の優しい微笑みを浮かべて首を傾げた。


するとクロエは、突然ポロポロと大粒の涙を零し始め、自身の細い手首から一つのブレスレットを外した。


「わ、わたくし……先ほどの、アシュレイ嬢のお言葉に、深く、深く胸を打たれました……っ!」


「え?」


「一滴のお茶の裏にある、農民の方々の汗と命……! わたくしたちは、なんと無知で、傲慢な生活を送っていたのでしょう……!」


クロエはしゃくり上げながら、外したばかりのブレスレットを両手で包み込むようにして、エルリアの目の前にスッと差し出した。


それは、白金プラチナの土台に、目も眩むような深い青色をした宝石がいくつも連なった、最高級の装飾品だった。


「これは、東の海でしか採れない蒼玉サファイアです。……どうか、これをお持ちください! そして、これを売り払い、アシュレイ領の皆様の……冬のパン代にしていただきたいのです!!」


「……っ!?」


エルリアの心臓が、本日最大級の音を立てて跳ね上がった。


(えええええええええっ!? なにこの純度100%の善意!? しかもこの蒼玉、カットも透明度も最高ランクじゃない!! 軽く見積もっても、金貨五十枚……いや、八十枚は下らないわよ!?)


エルリアの脳内で、凄まじい勢いで算盤が弾き飛ばされる。


(欲しい! 喉から手が出るほど欲しい!! これがあれば、ルカの来年の家庭教師代も、最新の魔導書も一括で買える!! ありがとう神様! ありがとう純真無垢な伯爵令嬢!!)


エルリアの右手は、本能のままにその金貨八十枚の塊を鷲掴みにしようとピクンと動いた。


しかし、長年鍛え上げられた「聖女の防衛本能」が、その強欲な腕を間一髪で力ずくで押さえ込んだ。


(駄目よ、私! ここで受け取ったら、ただの『同情を誘って金品を巻き上げる女』に成り下がる! 聖女ブランドが崩壊するわ! ……ここは、泣く羊、血の涙を流してでも断るのよ!!)


「クロエ様」


エルリアは、自身の手を胸の前で固く握り締め、まるで女神像のような崇高な微笑みを浮かべた。


「貴女のそのお心遣い、領民に代わって深く感謝いたします。……ですが、その宝石は受け取れませんわ」


「な、なぜですか!? わたくし、本当にアシュレイ領の方々のために——」


「貴女のその『美しい心』こそが、何よりの宝石だからです」


エルリアは、そっと両手を伸ばし、蒼玉のブレスレットを持つクロエの両手を、優しく、温かく包み込んだ。


「高価な宝石がなくとも、貴女のそのお気持ちだけで、神は微笑み、領民たちの心は満たされることでしょう。……どうか、その蒼玉は、貴女の美しい優しさの証として、これからも身につけていてくださいませ」


(うわぁぁぁん!! 私の金貨八十枚がぁぁぁ!!)


内心で号泣しながらも、エルリアは慈愛に満ちた聖女の笑みを崩さなかった。


クロエは、エルリアの言葉にハッと息を呑み、そして次の瞬間、感動のあまり膝から崩れ落ちそうになった。


「あ、ああ……! なんて、なんて無欲で、尊いお方なのでしょう……!」


クロエはブレスレットを握りしめたまま、エルリアの手に顔を埋めて号泣し始めた。


「わたくし、一生アシュレイ嬢を……いいえ、聖女様を尊敬いたします! 聖女様の教えに倣い、清廉に生きてまいりますわ!!」


その光景を目の当たりにした周囲の令嬢たちの間に、決定的な「空気の伝播」が起こった。


侯爵令嬢を論破した圧倒的な正当性。


そして、高額な宝石を前にしても決して揺らがない(ように見える)、本物の無欲と慈悲。


「あ、ああ……なんてお美しい」


「わたくしも……わたくしも、これまでの浪費を悔い改めなければ……」


「聖女様、どうかこの愚かなわたくしにも、お導きを……!」


高位の伯爵令嬢であるクロエが完全に心酔したことで、「同調しなければ自分もベアトリクスのように悪者(傲慢な浪費家)にされる」という貴族特有の集団心理が、一気に雪崩を打ったのだ。


次々と令嬢たちがエルリアの周囲に集まり、涙を流しながら彼女を称賛し始める。


(……え? なにこれ、どういう状況?)


エルリアは、四方八方から向けられる熱狂的な信者たちの視線に、引きつりそうになる頬を必死に保っていた。


彼女は意図せずして、王宮の奥深くに「熱狂的な聖女派閥」を誕生させてしまったのだ。


***


「……くっ、くはっ」


その異様な光景を特等席で眺めていたジークヴァルトは、口元を手で覆い、肩を震わせていた。


(本当に、最高に面白い女だ……!)


彼の鋭い金の瞳は、一部始終を逃さず捉えていた。


クロエから最高級の蒼玉を差し出された瞬間、エルリアの澄んだ瞳の奥で、一瞬だけ「強烈な強欲の光」がギラリと輝いたことを。


そして、その直後に凄まじい精神力で強欲をねじ伏せ、完璧な「無欲の聖女」を演じきってみせたことを。


(あの二面性、あの徹底した計算高さ。しかも、無意識のうちに群衆の心理を掌握し、自分の信者に作り変えてしまう恐るべきカリスマ性……)


ジークヴァルトの胸の奥で、ドクン、と重い鼓動が鳴った。


王家にとって、これほど利用価値が高く、これほど危険で、そして——これほどまでに目を離せない存在は他にいない。


「……さあ、どうするつもりだ、守銭奴」


ジークヴァルトは、令嬢たちに囲まれて困惑するエルリアに向け、挑戦的な笑みを浮かべた。


「君の舞台は整ったぞ。その革の鞄に隠し持っている『牙』を、そろそろ見せてもらおうか」


***


茶会が終盤に差し掛かり、令嬢たちが「己の無駄遣いを見直すため」という謎の使命感に燃えて次々と帰路についた後。


庭園には、ジークヴァルトとエルリアの二人だけが残されていた。


「殿下」


エルリアは、ついにその時が来たとばかりに、自身の膝の上に置いていた革の鞄を開いた。


「先ほどの『インフラ支援金』の件ですが。わたくし、より効率的な『追加予算案』を、ご提案したく存じます」


バサッ、と。


エルリアは、昨夜徹夜で書き上げた分厚い要求書を、テーブルの上に滑らせた。


ジークヴァルトはそれを手に取り、素早く目を通していく。


「……ほう」


ジークヴァルトの喉が、面白げに鳴る。


そこには、治水工事そのものの予算に加えて、『アシュレイ領の次世代を担う人材育成のための特別支援プログラム』という名目で、恐るべき金額が計上されていた。


王都最高峰の家庭教師の雇用費。


王立図書館しか所蔵していないような、高価な書物の購入費。


さらに、現地視察という名目の(どう見ても家族旅行の)経費。


「アシュレイ嬢。これは……」


ジークヴァルトは、書類から目を上げ、エルリアを真っ直ぐに見据えた。


「これは、領地全体のための教育支援ではないな。……特定の『極めて優秀な個人』に向けた、英才教育のための見積もりだ。違うか?」


(……っ! さすがに誤魔化せないわよね)


エルリアは内心で舌打ちをしたが、表面上は少しも動揺しなかった。


「おっしゃる通りですわ、殿下」


エルリアは、愛する弟ルカの顔を思い浮かべ、その瞳に静かな、しかし確かな炎を宿した。


「どれほど立派な水路を作ろうと、それを管理し、未来へ繋ぐ『知恵』を持つ者がいなければ、いずれまた崩壊します。わたくしの……いえ、アシュレイ領の未来を背負う『その者』には、それだけの投資をする価値が、絶対にあると確信しております」


(愛するルカの完璧な未来のためなら、国庫だろうが王太子の財布だろうが、毟り取れるものは全部毟り取ってやるわ!)


ジークヴァルトは、エルリアのその決して引かない、強い意志を秘めた瞳を見つめ返した。


(……この私を相手に、堂々と公金から『身内への贔屓』をもぎ取ろうというのか。なんという強欲、なんという度胸だ)


ジークヴァルトの口角が、ゆっくりと吊り上がっていく。


「なるほど。君の言う通り、人材への投資は何より重要だ。この要求、確かに受け取った」


「……本当ですか?」


「ああ。素晴らしい提案だ。これを『アシュレイ領復興のための特例パイロットプログラム』として公式に採用しよう。資金は——王室の特別予算(国庫)から、全額助成する」


(勝ったぁぁぁぁぁぁっ!!)


エルリアの脳内で、ルカが王都の最高級の学院で首席のメダルを首にかけられている幻影が、ファンファーレと共に乱舞した。


ルカの未来は、国庫という最強の財布によって完全に保証されたのだ。


「殿下の海より深い御慈悲に、心より……っ!」


歓喜のあまり、エルリアが立ち上がって頭を下げようとした、その時。


「ただし」


ジークヴァルトの声が、氷のように冷たく、そして妖しく響いた。


「これは、莫大な『公金』を投じる、国の公式な事業だ」


ジークヴァルトは、テーブルに身を乗り出し、エルリアを逃がさないようにその金の瞳で射抜いた。


「国庫の金を使う以上、厳格な監査と進捗管理が必要となる。……発案者であり、最も現地の状況を理解している君を、この特例事業の『王室特別顧問』に任命する」


「……え?」


「公金の使途について、事業責任者である私(王太子)に対し、週に二回、王宮の執務室へ直接進捗報告に来る義務を課す。……もちろん、公務としてな」


エルリアは、完全にフリーズした。


(……は?)


(週に二回? この腹黒王太子の執務室に? 私が、通う?)


「お待ちください、殿下!」


エルリアは慌てて異議を申し立てた。


「わたくしはただの子爵令嬢です! そのような重要な公務の責任者など、恐れ多くて……! 監査や進捗管理であれば、王宮の優秀な財務官の方々に任せるべきかと存じますわ!」


(そうよ! 私の代わりに、禿げ上がったベテラン財務官でも送り込みなさいよ! なんで私が週二回も貴方と密室で顔を合わせなきゃいけないの!?)


しかし、ジークヴァルトはエルリアの反論など最初から想定していたかのように、冷徹な笑みを深めた。


「却下だ。この計画は、領民の絶対的な支持を集める『聖女』である君が音頭を取るからこそ意味がある。他の官僚では、民衆の心は動かない。……君でなければ、駄目なのだ」


(……嘘だ)


エルリアは、直感的に悟った。


(『私でなければ駄目』? 違う、ただ私を自分の手元に縛り付けるための、強引な理屈づけだ!)


いくら「聖女」という建前があっても、王室の特別予算の監査を一介の子爵令嬢に任せるなど、行政の手続きとして異常すぎる。


(こんな無茶苦茶な人事、後で絶対に王妃様や大臣たちから突っ込まれるに決まってる! それでも……この人は、後で自分が咎められるリスクを背負ってでも、今、私を完全に『公務』という鎖で縛り付けようとしているの!?)


普段は冷徹で論理的なはずの王太子が、見せている、ほんのわずかな「狂気」と「執着」。


「恋は盲目」という言葉が、エルリアの脳裏をよぎるが、彼女は即座にそれを否定した。


(違うわ、これは恋なんかじゃない。ただの悪趣味な執着よ! 自分が面白いと思った玩具を、絶対に逃がさないための『悪魔の契約』だわ!)


「……アシュレイ嬢」


ジークヴァルトが、低く甘い声で囁く。


「この条件が飲めないというなら、残念だが、この『将来有望な若者』への支援金の話は、白紙に戻すしかないな」


逃げ道は、完全に塞がれた。


ルカのための、莫大な教育資金。


これを断れば、元の貧乏なジャガイモ生活に戻るだけでなく、ルカの輝かしい未来への道が閉ざされてしまう。


「…………っ」


エルリアは、ドレスの裾を強く握り締め、屈辱と怒りで震えそうになるのを必死に堪え。


そして、この世のすべての苦難を受け入れるような、完璧で悲しげな聖女の微笑みを浮かべた。


「……領地と、未来を担う者のため。このエルリア、身命を賭して、殿下のご期待に応えてみせますわ」


「そうか。それは頼もしい」


ジークヴァルトは、完全に「自分の盤上」に獲物を引きずり込んだことに、底知れぬ歓喜の笑みを浮かべた。


経済的(ルカの教育費確保)には、エルリアの完全勝利。


しかし、自由度(公金管理の名目で週二回呼び出される)においては、ジークヴァルトの完全勝利。


王宮の庭園に、決して後戻りできない、二人の共犯関係を縛る「悪魔の契約」が、静かに成立したのだった。

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