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仮面の聖女 〜完璧な社交辞令と内心は一致しない〜  作者: tky@複数作品を同時連載中
第1章:微笑みの真相

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第6話:聖女の武装と、愛すべき家族たち

真夜中のアシュレイ子爵家。


静まり返った屋敷の中で、エルリアの自室だけが煌々とランプの灯りをこぼしていた。


机に向かう彼女の右手は、凄まじい速度で羊皮紙の上を滑っている。


カリカリ、カリカリと、羽ペンが紙を引っ掻く音だけが、冷たい夜の空気に響いていた。


(……私を公式の場に引きずり出すだけでなく、私の大切な『安らぎの時間』を奪うつもりね、あの腹黒王太子)


インク瓶にペンを突っ込み、乱暴にインクを補充する。


(万死に値するわ。絶対に許さない)


彼女の目の前にあるのは、王宮から送りつけられた『アシュレイ領のインフラ支援に関する検討書』の素案である。


一見すれば、貧しい領地を救うための慈悲深い提案。


しかしエルリアの目には、これが自分を王宮という伏魔殿に縛り付けるための、極めて悪辣な鎖にしか見えていなかった。


(ただでさえ水路の工事で頭が痛いのに、あんな金と権力と陰謀が渦巻く茶会で、愛想笑いを振りまけと言うの?)


ギリッ、と奥歯が鳴る。


(いいえ。行くからには、ただでは帰らない。一デナリの端数まで、奴の財布から搾り取ってやるわ)


エルリアは新しい羊皮紙を引き寄せると、インフラ支援の計画書とは別の、一枚の要求書を作成し始めた。


それは『アシュレイ領の治水工事に伴う、将来を担う若者のための教育支援金』という名目の、特別予算案だった。


(水路を直すだけでは足りない。工事を監督し、維持管理できる優秀な人材を育成するための『名目』が必要よ)


エルリアの口角が、暗い部屋の中で弧を描く。


(例えば、王都の最も格式高い学院に、特別推薦枠と学費全額免除の特待生として入学させるための権利。そして、その生活を完全に保証するための特別給付金)


それは、国庫の金を特定の個人のために引き出そうとする、極めてグレーな……いや、限りなく真っ黒に近い要求だった。


だが、今のエルリアのペンに迷いは一切なかった。


(ああ、考えただけでも胸が高鳴るわ。王室の莫大な資金で、あの才能あふれる子に、最高の教育環境と完璧な未来をプレゼントできるなんて!)


相手の財布を絞り上げる動機が、「領地のインフラのため」から、「将来を嘱望される愛すべき者のため」へと純化されていく。


(私の愛する、世界で一番尊い存在。あの穢れなき魂が、将来お金のことで苦労するなんて絶対に許されない。その完璧な未来の踏み台として、あの生意気な王太子の財布は、これ以上ないほど素晴らしい素材だわ)


エルリアは狂気を帯びた笑みを浮かべながら、その恐ろしく分厚い要求書の束を、革の鞄の中に丁寧にしまい込んだ。


***


翌日の午後。


アシュレイ家の居間には、緊迫した空気が漂っていた。


「お嬢様、やはりこちらのレースを胸元にあしらった方が……。王宮のお茶会に、装飾が一つもないドレスでは、あまりにも見劣りしてしまいます」


侍女のマーサが、トルソーに着せられたドレスを見ながら悲痛な声を上げた。


用意されたドレスは、薄い水色の、極めてシンプルな作りのものだった。


数日前の夜会でワインを浴びた純白のシルクドレスは、まだ修繕の真っ最中であり、とても間に合わない。


結果として、エルリアの手持ちの中で最もマシな、しかし王家主催の茶会に着ていくにはあまりにも慎ましすぎるドレスを選ぶしかなかったのだ。


「いいのよ、マーサ。過度な装飾は不要ですわ」


エルリアは鏡の前で自身の姿勢を確認しながら、静かに首を振った。


「わたくしは『聖女』として呼ばれたのです。着飾った高位貴族の令嬢たちの中で、一人だけ清貧を体現したような質素な装いで現れれば……周囲はどう思うかしら?」


「それは……」


「『ああ、聖女様はご自身の着飾るお金すら、領民のために使っておられるのだ』と、勝手に感動してくださるわ。同情と称賛を引くための、これは最高の舞台装置よ」


エルリアが完璧な計算に基づいた微笑みを浮かべた、まさにその時だった。


「お姉様……」


ギィ、と古びた居間の扉が開き、控えめな声が響いた。


その瞬間。


エルリアの背筋に、先ほどまでの冷徹な計算とは全く違う、雷に打たれたような衝撃が走った。


扉の前に立っていたのは、一人の少年だった。


年齢は十二歳ほど。


エルリアと同じプラチナブロンドの髪はふわふわと柔らかく、大きな瞳は新緑のように澄んだエメラルドグリーン。


色素の薄い肌に、華奢な肩。


それはまるで、天上から舞い降りた天使が、そのまま人間の少年の姿に具現化したかのような、完璧で愛くるしい造形だった。


アシュレイ家長男にして、エルリアのたった一人の弟。


ルカ・ヴァン・アシュレイ。


その姿を見た瞬間、エルリアの頭の中から、王宮も、茶会も、インフラ支援金も、すべてが真っ白に吹き飛んだ。


(<ああああああああああああああっ、ルカ! 私のルカ!>)


エルリアの内心で、数万のファンファーレが鳴り響き、盛大な歓声が巻き起こった。


(<今日もなんて可愛いの!? その少し潤んだ不安げな瞳! 小動物のように震える細い肩! そして鈴を転がすような愛くるしい声! 世界の奇跡! 宇宙の宝! 存在しているだけで金貨一億枚の価値があるわ!!>)


そう。


エルリア・ヴァン・アシュレイは、重度の、それも手遅れなレベルの隠れブラコンであった。


彼女が日々帳簿と格闘し、一デナリの無駄も許さず、聖女の仮面を被ってまで金を稼ぐ最大の理由は。


「この世に舞い降りた唯一の天使」である愛すべき弟に、何不自由ない完璧な人生を送らせるためだったのだ。


「ルカ。どうしたの、そんな悲しそうな顔をして」


エルリアは瞬時に「銭ゲバ聖女」から「重度溺愛姉」へとモードを切り替え、ドレスの裾を翻して弟に駆け寄った。


そして、その華奢な体をそっと抱きしめる。


(<ああ、石鹸のいい匂いがする……。柔らかい……。尊い……。このぬくもりを守るためなら、私、国の一つや二つ平気で滅ぼせるわ>)


内心で物騒な決意を固めながら、エルリアは聖母のような微笑みで弟を見つめた。


「お姉様、僕……心配で」


ルカはエルリアの胸に顔を埋め、くぐもった声で言った。


「王宮の茶会なんて、恐ろしい人たちばかりが集まる場所なんでしょう? お姉様がいじめられるんじゃないかって、昨夜からずっと眠れなかったんだ。僕が、僕がもっと強くて、代わりに行けたらいいのに……!」


ルカの目から、ポロリと大粒の涙が零れ落ちる。


その涙は、エルリアの心臓を物理的に握り潰すほどの破壊力を持っていた。


(<……っ!! 泣いた! 私の天使が泣いた! あの腹黒王太子のせいで! 許さない、絶対に許さない! お姉ちゃんが今から王宮に乗り込んで、王太子の首根っこを掴んで金貨を吐き出させてやるからね! そして貴方を一生働かずに済むよう、金貨の山の上で昼寝させてあげるからね!!>)


心の奥底で荒れ狂う殺意と溺愛の嵐を完璧に隠し通し、エルリアは絹のハンカチでそっとルカの涙を拭った。


「ありがとう、ルカ。貴方のその優しく美しい心こそが、私にとっての最大の鎧ですわ」


エルリアは、慈愛に満ちた声で囁く。


「いじめられるだなんて、そんなことあるはずありません。王宮の方々は皆、神の教えに従う立派な方々ばかり。わたくしはただ、少しお茶をいただきながら、領民のためにお話をしてくるだけよ」


(いじめられる? 冗談じゃないわルカ。お姉ちゃんは今、あいつらの弱みを握って財布の底まで絞り上げるシミュレーションを百回は終わらせてるの。貴方には一生、そんな汚い世界は見せないわ!)


「本当……?」


「ええ、本当よ。だから貴方は、お家で温かいミルクでも飲んで、私の帰りを待っていてちょうだいね」


エルリアが優しく微笑むと、ルカは安心したように顔をほころばせた。


「おお……エルリア、ルカ……!」


不意に、居間の入り口から嗚咽の声が聞こえた。


いつの間にかやって来ていた父、アルベルトだった。


彼はハンカチで滝のような涙を拭いながら、二人の姿を見て感激に打ち震えていた。


「なんて美しい姉弟愛だ……! 互いを思いやり、涙を流し合う。我がアシュレイ家の誇りだよ、お前たちは……!」


「お父様まで、泣かないでくださいな」


エルリアは困ったように微笑み返した。


(お父様はちょっと黙ってて。せっかくのルカとの尊い触れ合いの時間が減るじゃない。あと、その鼻をかんだハンカチでルカに触らないでね)


家族の愛と涙に包まれた、感動的な空間。


だが、エルリアの内心の闘志は、この「家族の純粋な心配」を受けたことで、これまでにないほど高く、黒く燃え上がっていた。


***


一時間後。


王宮から差し向けられた豪奢な馬車が、アシュレイ家の前に到着した。


エルリアは、装飾を削ぎ落とした薄水色のドレスに身を包み、家族の前に立った。


化粧は最小限に抑えられ、プラチナブロンドの髪は清楚にまとめられている。


だが、その姿勢の良さと洗練された所作が、質素なドレスを「清らかな神の使いの衣」のように錯覚させていた。


「お姉様、気をつけてね」


「ええ。行ってまいります、ルカ」


エルリアはルカの頭を優しく撫でると、父とマーサに頷きかけ、馬車へと乗り込んだ。


馬車の扉が閉まり、車輪がゆっくりと動き出す。


窓の外で手を振るルカの姿が、少しずつ小さくなっていく。


角を曲がり、完全に家族の姿が見えなくなった瞬間。


エルリアの顔から、ふっと「慈悲深い姉」の仮面が抜け落ちた。


「……」


誰もいない、防音の効いた高級馬車の車内で。


エルリアは手元に置いた革の鞄を、愛おしそうに、そして獲物の首を絞めるような力強さで撫でた。


その鞄の中には、ルカの未来の学費と特待生枠をもぎ取るための、恐ろしく緻密に計算された『契約要求書』が眠っている。


「待っていなさい、ジークヴァルト殿下」


エルリアの口からこぼれた声は、氷のように冷たく、そして狂気を孕んだ熱を帯びていた。


「私の可愛いルカの心を乱し、心配させた罪……。貴方の財布で、うんと高く支払わせてあげるわ」


聖女の衣を纏った狂犬が、今、王宮という狩り場へと放たれた。

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