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仮面の聖女 〜完璧な社交辞令と内心は一致しない〜  作者: tky@複数作品を同時連載中
第1章:微笑みの真相

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第5話:束の間の平穏と、逃げられない招待状

アシュレイ子爵家の自室で、エルリアは羽ペンを握りしめながら、目の前に広げられた分厚い帳簿と睨み合っていた。


ジークヴァルト王太子が、あの安物の紅茶を飲んで面白げに帰っていった嵐のような訪問から数日。


エルリアの平穏な、そして世知辛い日常は、何事もなかったかのように再開されていた。


(東の水路の石組みが、また崩れた? つい三ヶ月前に補修したばかりじゃないの。どうせ領主が貧乏なのにつけ込んで、業者が質の悪い石を使ったのね。……後で『聖女の怒り』を込めた抗議の手紙を、なるべく慈悲深い文面で送りつけてやらなきゃ。それから、屋根の雨漏り。先日の雨で客間の天井のシミがさらに広がったわ。あの部屋には絶対に誰も通せない。修繕費の概算は……金貨三枚。水路の工事と合わせたら、どう転んでも金貨七枚は飛んでいくわね)


脳内で弾き出される容赦のない数字に、エルリアは重いため息を吐き出した。


アシュレイ家には、慢性的に現金がない。

領地から上がってくる税収のほとんどは、過去の負債の利子と、最低限のインフラ維持費に消えていくからだ。


だからこそ、エルリアは自身の「聖女ブランド」を極限まで活用し、現金を介さない「錬金術」で家計を回していた。


(孤児院と修道院への冬の寄付の振り分け……現金は出せないから、今年も現物支給ね。王都で一番手広くやっているマルコ商会に、『聖女が貴方の商会のパンと毛布を神の恵みとして称賛し、孤児院に配る』という名目で物資を無償提供させる。マルコ商会からすれば、これは社交界に対する最高級の宣伝広告になるから、喜んで一番良い品を出してくるはず。ついでに、うちの領地で余っている規格外のジャガイモも、彼らの販売ルートに乗せてもらうよう『お願い』すれば……うん、いけるわね)


「感謝状」と「口利き」という原価ゼロの無形資産を担保に、有力商人たちから物資とサービスを引き出す。

それこそが、貧乏子爵令嬢エルリアがたった一人で確立した、涙ぐましい資金繰りの実態だった。


(はぁ……。それにしても、早くクレメント伯爵家からの返答が来ないかしら。あの白紙の請求書、ダリウスの父親である伯爵がまともな神経の持ち主なら、そろそろ動きがあるはずなんだけど……)


エルリアがカチャリと羽ペンをインク瓶に戻した、まさにその時だった。


「お、お嬢様っ!!」


バタンッ! と勢いよく扉が開き、侍女のマーサが興奮で顔を紅潮させて駆け込んできた。


「マーサ、廊下を走ってはいけないと何度も——」


「そ、それどころではございません! クレメント伯爵家から、お使いの方が……っ! 伯爵の第一秘書と名乗る方が、重そうな荷物を抱えて玄関にいらしております!」


その報告を聞いた瞬間、エルリアの背筋にゾクッとした歓喜の電流が走った。


(来たっ!! 第一秘書をよこしたってことは、伯爵自身がこの件を最重要の『火消し案件』として扱っている証拠だわ!)


「まあ。わざわざご丁寧に……。すぐに向かいますから、粗相のないように客間……ではなく、あの雨漏りの跡が一番目立つ応接間にお通しして。紅茶は……そうね、一番安い茶葉を、あえて少しぬるめに淹れてお出しなさい」


「え? 一番お安いものを、ぬるめで、ですか?」


「ええ。わたくしが今、どのような『慎ましくも苦しい生活』の中で、ダリウス様のお心を案じているか。それを肌で感じていただくのも、慈悲の一つですわ」


きょとんとするマーサを尻目に、エルリアは鏡の前で表情筋を完璧な「慈母の微笑み」にセットし、優雅な足取りで一階へと向かった。


***


三十分後。

応接間から使者を見送ったエルリアは、自室に戻るなり、扉に鍵をガチャンと閉めた。


そして、机の上にドンッ!と置かれた革袋に向かって、音を立てずに飛びついた。


(重い……っ!!)


震える手で革袋の紐を解く。

中から現れたのは、眩いばかりの黄金の輝きを放つ、大量の金貨だった。


「ひゃっ、ふふっ、あははははっ!」


エルリアは金貨の山に顔を埋めんばかりに屈み込み、歓喜の笑い声を漏らした。


クレメント伯爵家の対応は、エルリアの計算のさらに上をいく、完璧なものだった。


『白紙の請求書』を受け取った伯爵は、エルリアの狙い通り「聖女の怒り」と「社交界での評判の失墜」を極度に恐れたらしい。

使者が持参したのは、何百回と頭を下げる平身低頭の謝罪と、ダリウスへの厳しい謹慎処分の報告。


そして何より、「ドレスの修繕費と、聖女様のお心を煩わせたことへの僅かばかりの誠意」と称された、金貨五十枚もの莫大な慰謝料だった。


(金貨五十枚!! 相場の五倍……いや、十倍近いわ! 勝った、完全に私の大勝利よ!! さすが歴史と名誉ある伯爵家、メンツと世間体のためならこれだけの額をポンと出せるのね! ああ、神様……ではなく、私の完璧な計略に感謝するわ!)


表向きは「まあ、このような過分なお心遣い……。ダリウス様のお心が安らぐのであれば、ありがたく頂戴いたしますわ」と、悲しげで慈悲深い聖女の微笑みで受け取ってみせたエルリアだったが、内心では札束……もとい金貨の舞を踊り狂っていた。


(これで水路が直せる! 屋根も直せる! ドレスの修繕費なんて余裕でお釣りがくるし、残ったお金で少しは領民に冬の蓄えを配ることもできるわ! ……なにより、明日からの朝食に、ベーコンや卵を追加できるかもしれない……っ!)


ジャガイモ地獄からの解放。

それが、今のエルリアにとって何よりの幸福だった。


エルリアは嬉々として羊皮紙を引き寄せ、先ほどまでの疲労感など嘘のように、軽快なペン捌きで水路工事の手配書を作成し始めた。


(やっぱり、怒りは利益に変換してこそ価値があるわ。あの赤毛のバカ男、今度会ったら聖女の微笑みで極上の感謝を捧げてあげなきゃね)


束の間の、しかし確かな幸福感に包まれていたエルリアの自室。


だが、その平穏は、再びけたたましい足音によって無残にも打ち砕かれることとなる。


「お、お嬢様ぁぁぁっ!!」


本日二度目。

マーサが、今度は先ほどの興奮とは正反対の、幽霊でも見たかのような顔面蒼白の状態で部屋に転がり込んできた。


「今度はどうしたの、マーサ。もしかして、また屋根の雨漏りが……」


「ち、違います! 王宮の……王宮の紋章が入った、それはそれは豪華な馬車がっ! 玄関前に止まって、中から王家の使者を名乗る方々がっ!!」


「——は?」


エルリアの頭の中で、パチンと何かが弾ける音がした。


手にした羽ペンから、ポタッとインクが零れ落ちる。


(王宮の馬車? 使者? ……どうして? なぜこんなタイミングで?)


脳裏にフラッシュバックするのは、数日前の夜、あの薄暗いテラスで、そしてこの屋敷のボロボロの応接間で、自分を射抜くように見つめてきた鋭い金の瞳。


『君は私が思っていた以上に、遥かに興味深い女性だ』

『君と話していると、まったく退屈しないな』


「…………っ!!」


嫌な予感が、背筋を氷のように撫で上げた。

胃の奥底がギリッと軋む。


(あの腹黒王太子、また何か企んでるの!? お忍びじゃなく、今度は公式な王家の使者として!?)


「お嬢様、いかがなさいますか!? 旦那様もご不在ですし、私、どうお迎えすれば良いのか……っ!」


パニックに陥っているマーサの肩をガシッと掴み、エルリアは強引に深呼吸をさせた。


「落ち着きなさい、マーサ。私が対応します。大丈夫、わたくしは『聖女』ですもの。王宮の使者であろうと、神の教えに従って礼を尽くすだけですわ」


エルリアは鏡で自らの仮面に歪みがないことを確認すると、覚悟を決めて玄関へと向かった。


***


アシュレイ家の玄関ホールには、荘厳な装飾が施された王宮の制服に身を包んだ二人の使者が立っていた。


彼らはエルリアの姿を認めると、深く、恭しく頭を下げた。


「エルリア・ヴァン・アシュレイ子爵令嬢。突然の訪問をお許しください。本日は、第一王太子ジークヴァルト殿下より、貴女様へ正式な書状をお持ちいたしました」


使者の一人が、金糸の刺繍が施された豪奢な封筒を、銀のトレイに乗せて差し出した。


「わたくしに、殿下から……?」


エルリアは完璧な微笑みを崩さずに封筒を受け取り、その場で封を切った。


中に入っていたのは、王宮の最高級の羊皮紙に、流麗な筆致で書かれた手紙だった。


『秋の深まりを感じる今日この頃、聖女と名高いエルリア嬢におかれては、神の御加護のもと健やかにお過ごしのことと思う。

さて、近く開催される「王家主催の茶会」へ、特別な客人として貴女を招待したい。

王家の庭園で咲き誇る秋薔薇を愛でながら、貴女のその類稀なる知性と、慈愛に満ちた言葉を拝聴できることを、心より楽しみにしている。

——ジークヴァルト・フォン・ベルンシュタイン』


(王家主催の茶会……!?)


エルリアの頭脳が、瞬時にその言葉の裏にある「真の意味」を弾き出した。


王家主催、かつ王太子が直々に指名してくる茶会。

それは社交界の常識に照らし合わせれば、ただのお茶飲み話などではない。

事実上の「王太子婚約者候補の顔合わせ」、あるいは「高位貴族の令嬢たちの品評会」だ。


(おかしい。絶対におかしいわ。子爵令嬢である私が、そんな場に呼ばれるのは身分不相応にも程がある。これは間違いなく、あの時の意趣返しよ。私の仮面を剥がして、あの恐ろしい金の瞳で私をオモチャにするつもりなんだわ!)


エルリアは即座に防衛線を構築した。


(断ろう。体調不良、修道院への長期の祈りの旅、なんでもいい。適当な理由をつけて、丁重に、しかし絶対に辞退する。あんな伏魔殿に足を踏み入れたら、私の平穏な生活は完全に終わる!)


「……大変身に余る光栄でございますが」


エルリアは困惑したように眉を下げ、使者たちを見つめた。


「わたくしのような未熟な子爵令嬢が、王家主催の茶会という大層なお席に連なるなど、到底お受けできるものでは——」


「エルリア様。恐れながら、書状にはもう一枚、同封されているものがございましょう?」


使者が、静かに言葉を遮った。


「え?」


エルリアが封筒の中を確かめると、確かに、もう一枚、二つ折りにされた別紙が入っていた。

それを開いた瞬間。


エルリアの心臓が、ドクンと嫌な音を立てて跳ねた。


そこに書かれていたのは、茶会の案内ではなく、無機質な『行政文書』だった。


『アシュレイ領における、東部水路の老朽化に関する調査報告ならびに、王室からの大規模なインフラ支援(特別助成金)の検討について。

本件に関する現地の窮状と、領民を救うための具体的な支援策について、茶会の席にて聖女殿の忌憚のない意見を伺いたい』


「…………っ!!」


エルリアの聖女の仮面が、ピキリと音を立ててひび割れそうになった。


(インフラ支援!? 王室からの特別助成金!?)


エルリアの目が、その文字列に釘付けになる。

アシュレイ領が長年苦しめられてきた水路の問題。それを根本から解決できるだけの莫大な資金援助。


それは、エルリアが喉から手が出るほど、それこそ魂を売ってでも欲しい「最大の餌」だった。


(あの腹黒王太子……っ!!)


ジークヴァルトは、完全にエルリアの弱点を把握していたのだ。

彼女が「領民と家計のため」に聖女を演じていることを。

そして、彼女が決してこの「金と領地を救う条件」を無視できない商人の魂を持っていることを。


もしここでこの招待を断れば。

「聖女エルリアは、領民を救うための王室の支援協議を、己の都合で蹴った」という事実が残る。

それは、彼女が築き上げてきた聖女ブランドの完全なる崩壊を意味していた。


退路は、完全に塞がれた。

右を向けば王太子の玩具にされる未来。左を向けば領地の崩壊とブランドの死。


(……逃げられない)


エルリアは、別紙を持つ手がわずかに震えるのを必死に押さえ込んだ。


ジークヴァルトが、王宮の執務室でこの書状を書きながら、あの意地悪な笑みを浮かべている姿がありありと目に浮かぶ。


「エルリア様? いかがなさいましたか?」


使者の問いかけに、エルリアはゆっくりと顔を上げた。


その顔には、先ほどまでの絶望など微塵も感じさせない、完璧な、そしてこれまでで最も美しい「聖女の微笑み」が張り付いていた。


「……殿下の、領民を思う海より深い御慈悲に、わたくしは感動で言葉を失っておりました」


エルリアは静かに、そしてはっきりと告げた。


「殿下のお心遣い、謹んでお受けいたしますわ。茶会の日を、心より楽しみにお待ち申し上げております」


「承知いたしました。殿下もさぞお喜びになるでしょう」


使者たちが深々と頭を下げ、屋敷を去っていく。

馬車の車輪の音が遠ざかるのを玄関で見送りながら、エルリアは一人、静かに扉を閉めた。


誰もいなくなった薄暗い玄関ホールで。

エルリアは、手にした王宮からの書状を、怒りでワナワナと震えながら握りしめた。


(あの……あの腹黒王太子いいぃぃぃっ!!)


心の中で血の涙を流しながら、エルリアの「聖女としての平穏な日常」は、今度こそ完全に終わりを告げたのだった。

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