第4話:王太子の誤算と「恋」の包囲網
王太子宮の最奥に位置する執務室には、分厚い絨毯が敷き詰められ、壁一面の書架には王国全土のあらゆる情報が詰まっている。
普段ならば、ただ静寂とペンの走る音だけが支配するその空間は、今日に限って奇妙な「熱」を帯びていた。
執務机の中央に座る第一王太子、ジークヴァルト・フォン・ベルンシュタインの視線は、手元に広げられた数枚の書類に釘付けになっていた。
それは、優秀な王宮の密偵たちに急遽集めさせた『アシュレイ子爵家の過去十年分の収支報告書の写し』と、エルリアが各方面に送った『手紙の控え』だった。
(……驚いたな。領地の税収が年々落ち込んでいるにも関わらず、この娘が帳簿の管理を始めた三年前から、負債の増加がピタリと止まっている。それどころか、支出項目が極限まで切り詰められ、浮いた資金がすべて領地のインフラ維持に回されているではないか。……王宮の財務官僚どもに爪の垢を煎じて飲ませたいほどの、見事な緊縮財政と資金繰りだ)
ジークヴァルトの口角が、自然と弧を描く。
(それに、この手紙の数々。孤児院や修道院への寄付の記録……かと思えば、その裏でしっかりと『聖女の慈悲』という無形資産を担保にして、商人たちから破格の条件で物資を引き出している。あの清らかな微笑みの裏で、どれほど強欲に、そして精緻に算盤を弾いているというのだ)
昨夜の夜会での見事な立ち回り。
そして先ほど、アシュレイ家のボロボロの応接間で読まされた、クレメント伯爵家への『白紙の請求書』。
あのプラチナブロンドの少女が持つ、完璧な聖女の仮面と、その下にある恐ろしく冷徹な商人の顔。
相反する二つの要素が、ジークヴァルトの知的好奇心を強烈に刺激してやまなかった。
「……くっ、ふはっ」
書類をめくるたびに、彼女の思考の痕跡を読み取っては、ジークヴァルトの喉の奥から楽しげな笑い声が漏れた。
「……殿下」
不意に、呆れたような声が執務室に響いた。
ジークヴァルトが顔を上げると、いつの間にか入室していた王太子専属メイドのリーゼが、銀のトレイにお茶の用意をして立っていた。
二十代後半の彼女は、ジークヴァルトが幼少期から仕えている古株であり、王太子に対して軽口や毒舌を許されている数少ない存在である。
リーゼは、カチャリと音を立てずにティーカップを机の端に置くと、主人の顔をまじまじと見つめて溜息をついた。
「書類仕事でお疲れかと思い、特別に香りの良い茶葉をブレンドしてお持ちしたのですが……どうやら不要だったようですね」
「何を言っている。お前の淹れる茶はいつも助かっているぞ」
「いいえ。だって殿下、特定の女性の個人的な資料を読み耽りながら、そんなに蕩けたような、楽しそうな熱い視線を書類に向けているのですから。世間ではそれを『恋』と申しますよ」
「……馬鹿を言え」
ジークヴァルトは即座に表情を引き締め、手元の書類をトントンと揃えた。
「私はただ、彼女の特異な知略と経済感覚に興味があるだけだ。アシュレイ家という没落寸前の子爵家において、彼女がいかにして資金を捻出し、あのような完璧な『聖女』というブランドを構築したのか。そのプロセスは、王国の財政再建のモデルケースとして非常に有益——」
「では、なぜ財務大臣が提出した先月の国家予算報告書を読む時は、そんなに楽しそうじゃないんです?」
「……」
リーゼの鋭すぎる指摘に、ジークヴァルトはピタリと口を噤んだ。
「財務大臣のハゲ頭を思い浮かべても、ちっとも楽しくないでしょう? でも、アシュレイ子爵令嬢の顔を思い浮かべると、自然と口元が緩んでしまう。……殿下、それはもう立派な恋です。おめでとうございます、ついに殿下にも人間の心が芽生えたのですね。私、感動で前が見えません」
全く感動していない真顔で言い切るリーゼに、ジークヴァルトは眉間を揉んだ。
「お前は本当に……。誰がそんな感情を抱いていると言った。私はただ、彼女が有益な——」
「はいはい、有益な『人材』ですね。とりあえず、その恋煩いの熱を少しでも冷ますために、お茶はお熱いうちにお召し上がりくださいませ」
リーゼは完璧な一礼をして、さっさと執務室を退出していった。
扉が閉まった後、ジークヴァルトは一人残された室内の静寂の中で、再びエルリアの資料に視線を落とした。
(恋、だと? 私が? ……馬鹿馬鹿しい。王太子としての私の判断基準に、感情が入り込む余地などない。彼女はただ、手元に置いておけば間違いなく役に立つ、極めて優秀な駒だ。……そうだ、それだけのことだ)
自分に言い聞かせるように思考を巡らせるが、脳裏に浮かぶのは、クレメント伯爵家への手紙を突き出してきた時の、エルリアの生意気で勝ち気な瞳ばかりだった。
その事実に、ジークヴァルトは小さく息を吐き、熱い紅茶を一口煽った。
***
一方、執務室を退出したリーゼは、そのまま真っ直ぐに王太子宮の控室へと向かっていた。
そこには、隙のない身なりをした五十代の執事、ハインツが立っていた。
王太子宮のすべてを統括する、鉄面皮で有能な男である。
「ハインツ様。ご報告があります」
リーゼが声をかけると、ハインツはゆっくりと振り返り、わずかに眉を上げた。
「どうした、リーゼ。殿下の御加減でも悪いのか」
「いえ、むしろすこぶるご健康のようです。……殿下が、特定の令嬢の資料を熱心に読み込み、一人で嬉しそうに笑っておりました」
「ほう?」
ハインツの片眉が、ピクリと動いた。
「相手は?」
「アシュレイ子爵家の令嬢、エルリア様です。最近、社交界で『聖女』と持て囃されているあの方ですね」
「なるほど……子爵令嬢か」
ハインツは顎に手を当て、深く頷いた。
「殿下はこれまで、各国の姫君や大公家の令嬢たちの釣書には一切興味を示されなかった。それが、突然身分の低い子爵令嬢に熱を上げ始めたと。……身分差という障害があるほど燃え上がる、まさに青春ですな」
「ええ。殿下ご本人は『有益な人材として興味があるだけだ』と強弁しておられましたが、あの目は間違いなく狩人のそれでしたわ。完全にロックオン状態です」
「よろしい」
ハインツは懐から銀時計を取り出し、時間を確認した。
「殿下も御年二十歳。未だに特定の女性の影すらなかったことは、我が王国の未来にとって最大の懸念事項であった。相手の身分に多少の難があろうと、殿下が『執着』を見せたという事実が重要だ。……この件、直ちに上に報告する」
「お願いします。殿下のあの無自覚な恋煩いを放置しておけば、近いうちに必ず問題を起こしますから」
リーゼとハインツの間に、長年殿下に仕えてきた者同士の、絶対的な阿吽の呼吸があった。
ハインツは即座に踵を返し、王妃宮へと繋がる専用の連絡通路へと向かった。
(殿下が特定の令嬢に対し、結婚を視野に入れた強烈な執着を開始した……。これは、王家にとって由々しき、そして喜ばしい事態だ)
ハインツの頭の中で、情報はすでに「王太子の変心と結婚案件」として完璧にフォーマットされていた。
彼から王妃宮の女官長へ、そして女官長から国王夫妻の耳へと、その情報は伝書鳩を凌駕する恐るべき速度と正確さで伝達されていった。
わずか数時間後。
ジークヴァルトがまだ執務室でエルリアの帳簿と睨めっこをしている間に、王宮の最上層では「ジークヴァルトが貧乏子爵令嬢に恋い焦がれている」という情報が、完全に既成事実として共有されていたのである。
***
「……話は以上だ。何か言い訳はあるかしら、ジークヴァルト」
その日の夕刻。
王妃の私室に呼び出されたジークヴァルトは、出された紅茶に口をつけることすらできず、目の前の人物を見つめていた。
豪奢なソファに腰掛けるのは、彼の生母であり、この国の王妃であるイザベラ。
ジークヴァルトと同じ鋭い金の瞳を持つ彼女は、息子に似て非常に聡明であり、何事も感情論ではなく「政治的・社会的合理性」で判断する現実主義者だった。
そしてその隣には、腕を組んで黙り込むフリードリヒ国王の姿もある。
国王は最近、公務の多忙さから「息子には早く身を固めて安定してほしい」と口癖のようにこぼしており、今回は王妃の追及の背後で睨みを利かせる役回りに徹しているようだった。
「母上、それは側近たちの飛躍した誤解です」
ジークヴァルトは、極めて冷静な声を取り繕って弁明を始めた。
「私はアシュレイ子爵令嬢に、恋情など抱いてはおりません。彼女はただ、没落寸前の領地を見事に立て直した稀有な経営手腕と、計算高さを持っている。その能力を、王宮の腐敗した財政部門の立て直しに利用できないかと——」
「動機が何であれ、結果は同じよ」
イザベラの冷ややかな声が、ジークヴァルトの言葉を容赦なく切り捨てた。
「王太子であるあなたが、特定の未婚女性の資料をかき集め、お忍びで屋敷まで足を運んだ。世間はそれを何と呼ぶかしら? 『才能への投資』? いいえ、彼らはそれを『寵愛』と呼ぶわ」
「……」
「身分差という現実を見なさい。アシュレイ家は、歴史はあるもののただの子爵家。しかも領地の経営状況から見て、王家が求める強固な後ろ盾にはなり得ない。子爵令嬢では、王太子妃……つまり正室には決してなれないのよ」
イザベラは、ティーカップの縁を優雅に指でなぞりながら、核心を突いた。
「あなたが彼女を側室として迎えたいと言うなら、止めはしません。王家の血を絶やさないためにも、側室は必要ですからね。……ですが、順番が違うわ。あなたはまず、他国の王族や国内の大公家から、ふさわしい正室を迎えるのが先決です。それが、王位継承者としての義務よ」
「……母上、私は」
「もし」
イザベラはジークヴァルトの反論を許さず、鋭い視線を息子に突き刺した。
「正室が決まっていない今の状態で、あなたが彼女に近づき、寵愛を与えればどうなるか。彼女はたちまち『王太子を誑かした愛人』として、社交界の凄惨な嫉妬と悪意の渦に叩き込まれることになる。……あなたが彼女の能力を高く評価し、本当に守りたいと思っているのなら、なおさら自分の立場を固めるべきよ。それなしに彼女を手元に置くことは、彼女の人生を壊すも同然です」
完璧な、一切の隙もない正論だった。
イザベラはエルリアを個人的に嫌っているわけではない。むしろ、王家の秩序と、他ならぬエルリア自身の体面を守るために、最も現実的な壁を提示しているのだ。
国王フリードリヒが、重々しい声でようやく口を開いた。
「王妃の言う通りだ、ジークヴァルト。お前ももう子供ではない。自身の行動が、相手の令嬢にどのような影響を与えるか、よく考えることだ」
ジークヴァルトは、反論の言葉を見つけられず、ただ沈黙するしかなかった。
(彼女を、『愛人』の汚名を着せて王宮に引きずり込む……?)
脳裏に、エルリアのあの計算高い、常に「損得」を弾き出している瞳が浮かんだ。
彼女は「損失」を何よりも嫌う。
愛人の汚名など、彼女が長年かけて築き上げた「聖女ブランド」を根底から破壊する最大の不利益だ。
もしそんな真似をすれば、彼女は間違いなく莫大な慰謝料を請求した上で、二度と手の届かない場所へ逃げ去るだろう。
「……お言葉、肝に銘じます。本日はこれで失礼いたします」
ジークヴァルトは深く一礼し、足取り重く王妃の私室を後にした。
***
自室に戻ったジークヴァルトは、窓辺に立ち、夜の闇に沈む帝都の街並みを見下ろしていた。
(母上の言う通りだ。「子爵令嬢」という枠組みのままでは、彼女を公式な立場で私の側に置くことはできない)
養子縁組や陞爵といった手段も考えたが、それは露骨すぎる。
突然の高位貴族への養子入りなどは、彼女の「清貧な聖女」というイメージを損ない、民衆や社交界からの反感を買うだけだ。
(だが、彼女を手放す気はない。あの見事な手腕、あの腹黒さ……いや、あの知略。あれを王宮の外で腐らせておくのは、国家規模の損失だ)
ジークヴァルトの頭脳が、かつてないほどの速度で回転し始める。
どうすれば、彼女に不利益を与えず、むしろ「有益な取引」として、合法的かつ公式に手元に置くことができるか。
身分が足りない。
実績が足りない。
正室としての正当性が足りない。
(……いや、待てよ?)
不意に、ジークヴァルトの金の瞳が、暗闇の中で鋭く煌めいた。
(彼女の最大の武器は、身分でも財力でもない。民衆と社交界からの絶大な支持を集める『聖女』という無形資産だ)
もし、その「聖女の威光」を王家に取り込むことが、国家のプロパガンダとして必要不可欠であるというロジックを組み立てたらどうだろうか。
「子爵令嬢」としては不可能でも、「民衆の支持を集める特例の聖女枠」としてならば、公式な場に引きずり出す名目が立つ。
「……なるほど」
ジークヴァルトの口元に、冷徹で、そしてどこか楽しげな悪巧みの笑みが浮かんだ。
「正室を決めるための『公式な婚約者候補選定』の場。……そこに、彼女を特例として招待すればいいのだ」
もちろん、彼女は全力で拒否するだろう。
だが、彼女が絶対に断れない「餌(報酬)」を提示し、これを「結婚」ではなく「有益な業務提携」だと錯覚させればいい。
(王宮の財政監査権限と、アシュレイ領への莫大なインフラ投資。彼女のあの商人の目が、この条件を前にして見逃すはずがない)
ジークヴァルトは、窓ガラスに映る自身の笑みを見つめた。
恋情か、執着か、それともただの有能な人材への興味か。
そんな言葉の定義はどうでもよかった。
ただ一つ確かなのは、エルリア・ヴァン・アシュレイという極上の獲物を、彼はすでに自分だけの盤上に引きずり込む決意を固めたということだ。
「待っていろ、聖女殿。君に、最高に有益で、そして最高に厄介な契約を持ち掛けてやろう」
夜の王宮に、王太子の低く甘い声が溶けていった。
それは、エルリアの平穏な日常が完全に終わりを告げる、静かな宣戦布告であった。




