第3話:慈悲という名の請求書
朝食のジャガイモを完璧な聖女の笑みで乗り切った後、エルリアはすぐさま自室のデスクに向かっていた。
使い込まれて傷だらけの木製デスクの上には、そこだけ異彩を放つような最高級の羊皮紙と、上品な香りのするインクが用意されている。
(さて、と。あのどす黒い赤ワインの染み。ただの石鹸や熱湯では絶対に落ちない。シルクの繊維を傷めずに色だけを抜くには、東方渡りの希少な特殊薬液を使って、王都でも一握りの凄腕職人に頼み込まなければならないわ。その薬液の輸入コストと職人の技術料……さらに最悪の場合の生地の張り替え費用を合算すれば、どう見積もっても金貨十枚は下らない……っ!)
頭の中で弾き出された絶望的な金額に、エルリアは奥歯をギリッと噛み締めた。
しかし、ペンのインクを拭う彼女の表情は、どこまでも穏やかで慈愛に満ちていた。
昨夜、エルリアにワインをぶち撒けたクレメント伯爵家の次男、ダリウス。
彼への、そしてその実家への「お手紙」を書くためである。
エルリアは流れるような美しい筆記体で、真っ白な紙に言葉を紡いでいく。
『……昨夜の痛ましい出来事により、ダリウス様がどれほどお心を痛めておいでかと思うと、わたくしは夜も眠れぬほどに胸が締め付けられる思いでございます』
『わたくしのドレスなど、どうかお気になさらないでくださいませ。あのような布地一枚のことなど、また職人に織らせれば済むだけの些事に過ぎません。歴史と名誉あるクレメント伯爵家におかれましては、このような取るに足らないことで、決して、決してお心を悩ませるようなことはなきよう、切にお願い申し上げます』
(……よし、完璧ね)
書き上げた手紙を読み返し、エルリアは満足げに微笑んだ。
この手紙の中には、「金額」や「損害賠償」、「弁償」といった直接的な言葉は一切、一文字たりとも書かれていない。
ただひたすらに、ダリウスの心痛を案じ、相手の家格を持ち上げ、ドレスの損害を「些事」として許す言葉だけが並んでいる。
だが、これこそがエルリアの仕掛けた、最もえげつない心理的罠であった。
(もしここで『金貨十枚を支払え』と具体的な額を提示してしまえば、相手は確実に値切ってくる。交渉の余地を与えてしまうのよ。でも、あえて金額を白紙にし、『歴史と名誉ある伯爵家』という言葉で持ち上げればどうなるか。……相手は『聖女にケチな対応をした』という社交界での悪評を極端に恐れ、自分たちから青天井で慰謝料を上乗せしてくるしかなくなるのよ!)
具体的な数字を書かないことで、相手の「貴族としてのメンツ」と「恐怖心」を限界まで煽り、自発的に相場以上の大金を吐き出させる。
それが、貧乏子爵家を支え続けてきたエルリアの、血も涙もない債権回収メソッドだった。
「ふふっ……神の御加護が、クレメント伯爵家の懐事情にありますように」
エルリアが美しい所作で封筒に蝋を垂らし、アシュレイ家の紋章印を押し当てようとした、まさにその時だった。
「え、エルリアお嬢様ぁっ!!」
普段は物静かな侍女のマーサが、血相を変えて部屋に飛び込んできた。
「マーサ? どうしたの、そんなに慌てて。廊下を走ると床板が抜けるかもしれないから気をつけてと言ってあるでしょう?」
「そ、それどころではございません! て、てて、殿下が……っ!」
マーサは過呼吸気味に胸を押さえ、震える指で一階を指差した。
「第一皇太子、ジークヴァルト殿下が……お忍びで、当屋敷にいらっしゃいました!! 昨夜の夜会での災難を案じて、お嬢様のお見舞いにと……っ!」
ガタンッ!
エルリアの持っていたインク瓶が倒れそうになり、間一髪で手で押さえた。
(はぁぁぁぁぁぁぁっ!? なぜ!? なぜ第一皇太子殿下が、うちのような今にも崩れそうな貧乏屋敷に!? 昨日の今日で!? しかもお忍び!? 嘘でしょ、あの人、昨夜のテラスでのやり取りで完全に私を面白がってたじゃない! 絶対にお見舞いなんかじゃない、ただの冷やかしよ!! いや、それよりも応接間! あそこは天井に雨漏りの立派なシミがあるし、お出しできる紅茶なんて、銀貨一枚でキロ単位で買えるような安物の茶葉しかないのよ!?)
脳内で大パニックを引き起こしながらも、エルリアは瞬時に深呼吸を一つし、表情筋を「完璧な聖女」の形へと固定した。
「まあ……。殿下がわざわざ、このようなむさ苦しい屋敷に足を運んでくださるなんて。すぐに参りますわ、マーサ。殿下を応接間へご案内して、一番良い茶器でお茶をお淹れして」
「は、はいっ!」
エルリアはテーブルの上にあったクレメント伯爵家への手紙をスッと手に取ると、優雅な足取りで一階へと向かった。
軋む階段を降り、応接間の扉を静かに開ける。
そこには、使い古されて所々糸がほつれたソファに、恐ろしく姿勢良く腰掛けるジークヴァルトの姿があった。
仕立ての良さが素人目にもわかるダークネイビーの外套を羽織った彼は、このみすぼらしい空間には致命的なまでに不釣り合いだった。
「ジークヴァルト殿下。本日はわざわざ足をお運びいただき、誠に恐悦至極に存じます」
エルリアは完璧なカーテシーでお辞儀をした。
ジークヴァルトは、出されたばかりの安物の紅茶が入ったティーカップをテーブルに置き、エルリアを見上げて面白そうに目を細めた。
「堅苦しい挨拶は不要だ。お忍びで来ているのだからな。……昨夜の騒動の後だ、君が無理をして寝込んでいないかと思ってね。顔を見に来ただけだ」
「殿下の海より深い御慈悲に、心より感謝申し上げます。わたくしはご覧の通り、神の御加護により健やかに過ごしておりますわ」
エルリアは向かいのソファに腰を下ろし、ふわりと微笑んだ。
ジークヴァルトの金の瞳が、エルリアの顔から、彼女の手に握られた一通の封筒へと滑る。
宛名には『クレメント伯爵家御中』と美しい文字で記されていた。
「……随分と仕事が早いな、エルリア嬢」
ジークヴァルトは意地の悪い笑みを浮かべ、その封筒を顎でしゃくった。
「早速、昨夜のツケを回収するための請求書の手配か? 君のことだ、あの高価そうなシルクの布地代に、法外な慰謝料と精神的苦痛の代償をたっぷり乗せて、さぞきっちりとした明細を書いたのだろう? 少しばかり強欲すぎやしないか?」
ジークヴァルトの言葉は、確信に満ちていた。
昨夜、エルリアの「計算高い商人の目」を看破した彼からすれば、彼女がクレメント伯爵家から限界まで金を毟り取ろうとしているのは自明の理だったのだ。
彼は、エルリアがここで慌てて手紙を隠すか、あるいは言い訳を重ねる無様な姿を期待していた。
しかし。
「……殿下は、本当に豊かな想像力をお持ちですね」
エルリアは涼やかな顔のまま、一切の躊躇なく、その手紙をテーブルの上を通ってジークヴァルトの目の前に差し出した。
「わたくしは、金銭など要求しておりませんわ」
「ほう?」
ジークヴァルトは挑発に乗るように手紙を受け取ると、封のされていない中身を取り出し、目を通し始めた。
彼の視線が、美しい文字の羅列を追っていく。
(さあ、隅から隅まで読みなさいな。どこをどう探しても、お金を請求する言葉なんて見つからないわよ)
エルリアは紅茶を一口すすりながら、内心でほくそ笑んだ。
ジークヴァルトの眉が、ピクリと動いた。
手紙には本当に、金額の指定や賠償の要求が一切書かれていなかった。
あるのはただ、加害者であるダリウスの心を案じる言葉と、「布地一枚のことなど気にしないでほしい」という、相手の良心と家格に全幅の信頼を寄せる、恐ろしく寛大な文面だけだった。
「……なるほど」
手紙を読み終えたジークヴァルトは、ポツリと呟き、ゆっくりと顔を上げた。
その金の瞳に宿っていた余裕の色が、かすかに驚愕の色へと変わっている。
「具体的な額を提示すれば、そこには『交渉』や『値切り』の余地が生まれる。だが、金額をすべて相手の良心と『歴史ある伯爵家』というメンツに委ねれば……彼らは世間体と、聖女への不敬という汚名を恐れ、相場より遥かに高額な慰謝料を自主的に積まざるを得なくなる」
ジークヴァルトは、手紙をテーブルに置き、エルリアをまじまじと見つめた。
「君は、数字を書かないことで、相手のプライドを煽り、自発的に限界まで搾り取るつもりなのか」
沈黙が落ちた。
エルリアは手にしたティーカップをカチャリとソーサーに戻し、小首を傾げた。
「……何のことでしょう。わたくしはただ、あの方の平穏な日々が戻ることを、心より祈っているだけですわ」
一切の悪びれる様子もなく、完璧な聖女の微笑みでしらばっくれるエルリア。
そのあまりにもえげつない貴族社会のルールの悪用と、徹底した建前に、ジークヴァルトはしばらくの間、呆然としたように彼女を見つめていた。
やがて。
「くっ……はははっ! あっはははははっ!」
ジークヴァルトは突然、腹の底から楽しげな笑い声を上げた。
それは昨夜のテラスでのような冷ややかな笑いではなく、心の底からの感嘆と愉快さが入り混じった、本物の歓喜の笑いだった。
「素晴らしい! まさか強欲な手紙よりも、さらに一段上の悪辣な手段をとるとは! 君の言う通りだ、具体的な数字など書くより、相手の自尊心を盾に取った方が遥かに高くつく! ……君は本当に、恐ろしい女だ」
「殿下、わたくしのような未熟な娘を捕まえて、恐ろしいなどと……。あまりからかわないでくださいませ」
エルリアは困ったように眉を下げてみせたが、その瞳の奥には「私の勝ちよ」という強烈な自負が隠しきれずに煌めいていた。
その生意気で、賢く、そしてどこまでも計算高い輝きを、ジークヴァルトは見逃さなかった。
笑い収めたジークヴァルトは、テーブルに身を乗り出し、エルリアを真っ直ぐに見据えた。
その金の瞳には、彼女の仮面を剥がそうとする昨夜までの敵意や侮蔑はもう欠片もない。
そこにあるのは、見事な知略を披露した好敵手に対する、熱を帯びた強烈な興味と執着だった。
「エルリア・ヴァン・アシュレイ。君のその頭の中身は、王宮の腐った財務官僚どもより余程優れているようだ」
ジークヴァルトは、まるで新しい玩具、あるいはそれ以上の「価値ある宝」を見つけたかのように、妖しく口角を吊り上げた。
「……君と話していると、まったく退屈しないな」
(……ちょっと待って。なんだか、この人の目の色が、さっきより厄介なことになってない?)
エルリアの背筋に、昨夜とは違う種類の、得体の知れない悪寒が走った。
完璧な聖女の仮面で皇太子の探りを華麗に切り返したはずが、かえって彼の中で何かの「スイッチ」を押してしまったらしい。
(嫌な予感がする。ものすごく嫌な予感がするわ……っ!)
エルリアの脳内で警鐘が鳴り響く中、ジークヴァルトの熱を帯びた視線は、もはや彼女を逃がすつもりはないと無言で告げていた。




