第2話:聖女の朝はジャガイモと共に
小鳥のさえずりと、
窓の隙間から差し込む朝の光。
本来ならば、令嬢の目覚めを祝福するはずの穏やかな朝の風景は、
エルリアにとって残酷な現実の始まりに過ぎなかった。
「……夢じゃ、なかったのね」
天蓋のない、質素な木製のベッドから身を起こしたエルリアは、
部屋の隅に置かれたトルソーを見つめ、絶望的な溜息を吐き出した。
そこに掛けられているのは、昨夜の夜会で身に纏っていた純白のシルクドレス。
本来ならば、真珠のような上品な光沢を放ち、
エルリアの美しさを最大限に引き立てるはずのそのドレスの胸元から裾にかけて、
どす黒い赤紫色の染みが、まるで呪いの刻印のようにべったりと広がっていた。
エルリアはふらふらとした足取りでトルソーに近づき、
乾いてゴワゴワになった生地を指先でそっと撫でた。
(……完全に繊維の奥まで入り込んでる。最悪。最悪だわ。布地が死んでる)
昨夜、ジークヴァルト殿下との息詰まるような遭遇の後、
エルリアは疲労困憊の体を引きずってなんとか屋敷に帰り着いた。
すぐさま侍女と共に水洗いを試みたが、
年代物の高級赤ワインは、最高級のシルクと最悪の相性を発揮し、
見事なまでに生地に定着してしまっていた。
(この特注ドレス……アシュレイ家のなけなしの予算を叩いて、半年がかりで仕立てた『勝負服』なのに)
(社交界での私の『聖女ブランド』を維持するための、最も重要な初期投資だったのに……!)
エルリアの脳内に、無機質な算盤の弾く音がパチパチと鳴り響く。
(染み抜きには王都の専門店で特殊な魔法薬を使わなければならない。その薬代だけでも金貨$3$枚)
(しかも、この面積と染み込み具合……薬で落としきれなかった場合、生地の一部を切り取って同じシルクで織り直す必要がある)
(その修繕費を加算すると……合計、金貨$10$枚)
金貨$10$枚。
それは、帝都の一般的な平民の家庭が、家族$4$人で$10$ヶ月は暮らせるほどの莫大な金額だ。
そして何より——。
(アシュレイ領の、半年分の予備費に匹敵する額じゃないの……っ!)
エルリアは頭を抱え、その場に崩れ落ちそうになった。
アシュレイ家が治める領地は、決して豊かではない。
土地は痩せ、水路は老朽化し、毎年のように水不足や水害の危機に瀕している。
金貨$10$枚あれば、崩れかけている東側の水路の補強工事が完全に終わるのだ。
あの赤毛の馬鹿男がこぼした一杯のワインのせいで、
領民たちの半年分の安全が脅かされたと言っても過言ではない。
「……許さない。絶対に、一デナリの端数までキッチリ毟り取ってやるわ……」
ギリリ、と奥歯を噛み締めたその時。
「エルリアお嬢様、お目覚めでしょうか?」
控えめなノックの音と共に、古株の侍女であるマーサの声がドア越しに響いた。
「っ!」
エルリアは両手でパンッ!と自分の頬を叩き、深呼吸を一つ。
瞬時に表情筋をコントロールし、
怒りで吊り上がっていた目尻を優しく下げ、口角を完璧な角度に引き上げる。
「ええ、入ってちょうだい、マーサ」
扉が開くと、年老いた侍女が水差しと洗面器を持って入ってきた。
彼女は部屋の隅にある無残なドレスを一瞥すると、悲しそうに眉を下げた。
「お嬢様……。そのドレス、本当にどうなされるおつもりですか? 旦那様も、昨夜からずっとお心を痛めておいでで……」
「お父様が?」
エルリアは小首を傾げ、朝露のように澄んだ瞳で微笑んだ。
「まあ、いけませんわ。このような布切れ一つのことで、お父様やマーサに心配をかけてしまうなんて」
「私の不注意で起きたことですのに」
「お嬢様の不注意なものですか! 伺っておりますよ、どこぞの無礼な殿方が、わざとお嬢様にぶつかったとか……!」
マーサは顔の前で祈るように両手を組み、絞り出すように言った。
「ああ、なんと可哀想に。お嬢様が領民のために、どれほどご自身の身を削ってこのドレスを用意されたか……」
涙ぐむマーサに、エルリアはそっと歩み寄り、
その皺の刻まれた手を優しく包み込んだ。
「泣かないで、マーサ。私は少しも可哀想ではありませんわ」
エルリアはマーサの目を真っ直ぐ見つめて微笑んだ。
「確かにドレスが汚れてしまったのは悲しいこと。けれど、あの方がお怪我をなさらなかったことの方が、私にとってはよほど価値のあることなのです」
そして、目を伏せて続けた。
「形あるものはいつか壊れ、汚れるもの。そこに執着して心を濁らせるほうが、ずっと恐ろしいことでしょう?」
「お、お嬢様ぁ……! なんてお心の清らかな……!」
(そうよ、形あるものは壊れる。だからこそ『現金』が必要なのよ!)
(泣きたいのはこっちよマーサ! 昨夜から胃薬が手放せないのよ!)
内心で血の涙を流しながらも、エルリアは慈母のような微笑みを崩さない。
マーサを優しく労わりながら身支度を整え、一階の食堂へと向かった。
廊下を歩くたびに、年代物の床板がギシギシと悲鳴を上げる。
壁に掛けられたタペストリーは色褪せ、天井の一部には雨漏り対策のバケツが常備されている。
歴史と伝統はあるが、圧倒的に『現金』が足りていない。
それがアシュレイ子爵家の現実だった。
「おはようございます、お父様」
食堂の扉を開けると、そこには初老の紳士——アシュレイ子爵アルベルトが、
大きなダイニングテーブルの端にぽつんと座っていた。
人が良いことだけが取り柄のような温和な顔立ちの彼は、
エルリアの姿を認めると、弾かれたように立ち上がった。
「おお、エルリア! よく眠れたかい? 昨夜は災難だったね……」
最愛の娘を心配する感情と、ダリウスに対する怒りの感情が混在していた。
「お前が怪我をしなかったのが不幸中の幸いだが、あのドレスは……」
アルベルトの視線が、申し訳なさそうに泳ぐ。
彼はクレメント伯爵家に対して、どう対応すべきか決めかねていたのだ。
「ご心配をおかけしました、お父様。ですが、ご安心くださいませ」
エルリアは美しい所作でアルベルトへ歩み寄った。
「ドレスの件は……ええ、すでに『解決への道筋』が立っておりますわ」
エルリアはニコリと笑った。
嘘は言っていない。
クレメント伯爵家への請求書の文面は、
昨夜ベッドの中で三時間かけて推敲し、すでに完璧なものが脳内に仕上がっている。
「そ、そうなのかい? ならば良いのだが……」
アルベルトは少しだけ安堵したように息をつき、着席を促した。
「さあ、朝食にしよう。お前が夜会で疲れ切っているだろうからと、料理長が腕によりをかけてくれたんだ」
エルリアは優雅に席につき、テーブルの上を見渡した。
純白のテーブルクロスの中心に鎮座していたのは——。
——大皿に山盛りにされた、茹でたての『ジャガイモ』だった。
付け合わせは、ほんの少しの岩塩と、具材がほとんど見当たらない薄い野菜スープのみ。
(……またジャガイモ。三日連続、朝も夜もジャガイモ)
内心では全く喜んでいないエルリアだが、鉄壁の微笑みに隙は無い。
(知ってる。うちの領地で今一番収穫量が多いのがジャガイモだってことくらい、帳簿を見てる私が一番知ってるわ……!)
貧乏子爵家の食卓は、常に領地の収穫状況と直結している。
エルリアの胃袋が、昨夜の豪華な夜会の食事を思い出して虚しく鳴りそうになるのを、
精神力でねじ伏せた。
「……申し訳ない、エルリア」
アルベルトが、すっかり肩を落として呟いた。
「お前は外に出れば『聖女』とまで呼ばれ、我々家族を支えてくれているというのに……。父親である私が不甲斐ないばかりに、このような粗末な食事しか出せない……」
「お父様」
エルリアは、スッと背筋を伸ばし、凛とした声で父親の言葉を遮った。
「そのようにおっしゃらないでください。これは決して、粗末な食事などではございませんわ」
彼女は白魚のような指先で、皮付きの茹でジャガイモを一つ、そっと手に取った。
熱い。
尋常ではない熱さだが、表情一つ変えずに両手で綺麗に二つに割る。
ホクホクとした断面から、真っ白な湯気が立ち上った。
「ご覧ください、この黄金色に輝く湯気を。そして、ふくよかな土の香りを」
エルリアはうっとりとした表情で目を閉じ、ジャガイモを胸の前に掲げた。
「太陽の光を浴び、豊かな大地が育んだ命。そして何より、我がアシュレイ領の民たちが、額に汗して育ててくれた結晶です。これほど尊く、贅沢な恵みが他にあるでしょうか?」
「エルリア……!」
岩塩をほんの少しだけつけ、エルリアは小さな口でジャガイモを齧った。
(もさもさする……っ! 口の中の水分が全部持っていかれる!お肉が食べたい! 肉汁たっぷりのローストビーフが食べたい!限界よ、私の舌はもう限界よ……っ!!)
内心では咽び泣きながらも、エルリアは花が綻ぶような至福の笑みを浮かべた。
「……美味しい。大地の味がいたします」
内心で「大地の味って何やねん!?」と思ったエルリアだが、やはり鉄壁の微笑みは有能である。
「お父様、民たちの愛が詰まったこの糧を前に、どうかそのような悲しいお顔をなさらないで。私は今、最高に幸せですわ」
「おお……っ! エルリア、私の誇り高き娘よ……! お前は、お前という子は、本当に……っ!」
アルベルトは感極まってボロボロと涙を流し、自身もジャガイモを頬張り始めた。
食堂の隅に控えていたマーサや他の使用人たちも、
エルリアのあまりに清らかな言葉にハンカチで目頭を押さえている。
家族と使用人の愛と尊敬に包まれた、感動的な朝の食卓。
しかし、その中心に座るエルリアの思考は、
口の中のパサパサとしたジャガイモを極薄のスープで流し込みながら、
どこまでも冷徹に、そして現実的に回転し始めていた。
(お父様をこれ以上悲しませるわけにはいかないわ。領地の水路の修繕も、屋根の修理も待ったなし。……そのためには、早急に現金を確保しなければ)
エルリアの脳裏に、昨夜のダリウスの顔と、
彼が胸に着けていたクレメント伯爵家の紋章が浮かび上がる。
(歴史ある伯爵家なら、金貨10枚や20枚、痛くも痒くもないはず。……ええ、ふさわしい代償を支払っていただきましょう。あの方の『心の平穏』のために)
朝食を終えたら、すぐに自室に戻ろう。
最高級の便箋と、最も上品なインクを使って、
愛と慈悲に満ちた手紙をしたためるのだ。
「うふふ……」
無意識のうちに、エルリアの口から小さな笑い声が漏れた。
「どうしたんだい、エルリア? とても嬉しそうだね」
「ええ、お父様。これから、迷える子羊を導くための大切なお手紙を書こうと思いまして。神の御心が、無事にあの方に届くことを祈っているのですわ」
窓から差し込む朝の光に照らされて、
エルリアのプラチナブロンドの髪が天使の輪のように輝いていた。
その微笑みは誰の目にも、一点の曇りもない完璧な『聖女』のそれであった。




