第1話:聖女の微笑みは、慈悲深く残酷である
短期連載になると思います。
よろしくお願いします。
シャンデリアの眩い光が、磨き上げられた大理石の床に反射している。
王宮が主催する秋の夜会。
帝都の有力貴族たちが一堂に会するこの場所は、華やかな衣装と甘い香水の匂いに包まれた、優雅にして残酷な戦場だった。
その中心に、彼女はいた。
エルリア・ヴァン・アシュレイ子爵令嬢。
月明かりを溶かしたようなプラチナブロンドの髪を美しく結い上げ、純白のシルクドレスを身に纏った彼女が優雅に扇を揺らすたび、周囲からはほうっと感嘆の溜息が漏れる。
「あれが、アシュレイ家の……」
「なんてお美しい。それにあの落ち着いたお振る舞い、まさに『聖女』と呼ぶにふさわしいお方だ」
「先日の孤児院への寄付の件、聞きましたか? なんでもご自身の小遣いを削ってまで……」
「ああ、なんと慈悲深い。それに比べて我が家の愚息ときたら……」
遠巻きに投げかけられる賞賛の声を、エルリアは涼やかな微笑みで受け流していた。
背筋は目に見えない糸で吊られているようにピンと伸び、グラスを持つ指先の角度ひとつにも隙がない。
誰に対しても平等に、慈愛に満ちた視線を向ける。
それが、彼女がこの数年で完璧に作り上げた「聖女」という仮面だった。
(……ああ、早く帰りたい)
周囲の人間が見とれるような微笑みの裏側で、エルリアの内心はひたすらに平穏と休息、そしてベッドの柔らかさを求めていた。
(息が苦しい。このコルセット、絶対肋骨にヒビ入ってるわ。おまけにこの新しいヒール、容赦なく私の踵の肉を削ってくるし……!)
限界まで引き上げられた口角がピクピクと痙攣しそうになるのを、気合と根性で押さえつける。
だが、肉体的な苦痛よりも彼女を悩ませていたのは、別の問題だった。
(何より……この『純白のシルクドレス』にかかった費用を思い出すだけで、胃のあたりがキリキリと痛むのよ……!)
アシュレイ家は、歴史こそあるものの、領地にこれといった特産品を持たない貧乏子爵家である。
屋敷の屋根からは雨漏りがし、夕食のメインディッシュが三日連続でジャガイモだったことも珍しくない。
そんな家の娘が、上位の貴族たちと対等に渡り合い、家格を保ち、あわよくば金脈を見つけるためにはどうすればいいか。
エルリアが血の滲むような努力の末に導き出した答えは、「決して崩れない完璧な淑女」を演じきり、自らをブランド化することだった。
結果として「聖女」などという大仰な二つ名が定着してしまったが、おかげで実家の事業への投資話も格段に増えた。
この息の詰まるような苦痛も、高価なドレスの出費も、すべては愛する家族と領地を守るための「必要経費」なのだ。
(とはいえ、この特注ドレスの元を取るためには、最低でもあと三回……いや四回は別の夜会で着回さないと大赤字だわ。絶対に汚すわけにはいかない。壁際で大人しくしていよう)
そんな現実的な、あまりにも世知辛い算段を頭の中で立てていたエルリアへ、不躾な足音を立てて一人の男が近づいてきた。
クレメント伯爵家の次男、ダリウスである。
彼は血の気の多い赤毛を撫でつけ、手にはなみなみと注がれた赤ワインのグラスを持っていた。
その目は、明らかな侮蔑と苛立ち、文明の利器を借りた歪んだ優越感に満ちていた。
彼にとって、最近の社交界は我慢ならないものだった。
歴史ある伯爵家の人間である自分が話題に上ることはなく、どこの夜会に行っても、話題の中心は成り上がりの貧乏子爵家の娘なのだ。
(聖女だと? くだらない。所詮は金目当ての下位貴族の娘が、背伸びをして媚びを売っているだけではないか)
ダリウスは、エルリアのあの澄ました顔が気に入らなかった。
完璧な淑女のメッキを剥がし、公衆の面前で無様な姿を晒させてやれば、誰もが彼女の底の浅さに気づくはずだ。
そして、それを成し遂げた自分こそが、場を支配する「格上」であると証明できる。
ダリウスは意地の悪い薄笑いを浮かべると、エルリアの目の前で、わざと足元をよろめかせた。
「おっと——」
わざとらしいその声は、音楽の合間の奇妙な静寂に響き渡った。
ダリウスの手から傾いたグラスが、真っ赤な液体を放物線を描いて撒き散らす。
避ける時間はなかった。
バシャッという鈍い音と共に、エルリアの純白のドレスの胸元から裾にかけて、痛々しいほどの血のような赤ワインの染みが広がった。
音楽が止まった。
周囲の貴族たちが息を呑む音が、波のように伝播する。
「あ……」
ダリウスは、計画通りに悲鳴を上げて泣き顔を見せるであろうエルリアを見下ろし、口角を吊り上げた。
一方のエルリアは、その瞬間、時間が完全に停止したかのような感覚に陥っていた。
(あ)
視界いっぱいに広がる、赤ワインの染み。
最高級のシルクが、無惨に赤く染まっていく。
(あ、あ、あああぁぁぁ……っ!! 私の、私の特注シルクがあぁっ!!)
脳内で、鼓膜が破れるほどの絶叫が響き渡る。
(ちょっと待って、染み抜きには王都の専門店で特殊な魔法薬を使わないといけないのよ!? いや、待て、この量と色の濃さ……確実に生地ごと張り替えるしかない! いくらかかる? 銀貨何十枚だ!? 今月の領地の水路の修繕費がまるごと飛ぶわよ!! ていうか、冷たい! 冷たいしベタベタして気持ち悪い! ふざけるな、この赤毛のバカ男! どこに目をつけて歩いてるのよ!! 今すぐそのワインボトルで頭をカチ割って中身をすり替えてやろうか!?)
一瞬で沸点に達した怒りの炎が、エルリアの理性を焼き尽くそうとする。
しかし、エルリアが長年培ってきた「聖女」としての防衛本能が、その業火を氷の檻へと瞬時に閉じ込めた。
(落ち着け、私。ここで怒鳴り散らせば、私のブランドは地に落ちる。これまでの苦労が水の泡だ。怒りは損だ。感情は1デナリの利益にもならない。ここは——)
エルリアはゆっくりと伏せていた睫毛を上げ、ダリウスを見つめた。
ダリウスは一瞬、息を詰まらせた。
泣き顔でも、怒りの形相でもなかった。
エルリアの顔には、春の陽だまりのような、ひどく穏やかで……そして、たまらなく悲しげな微笑みが浮かんでいたのだ。
「クレメント伯爵家のダリウス様……でしたか」
鈴を転がすような、静かでよく通る声。
エルリアは自分のドレスの悲惨な有様には一瞥もくれず、優しく、しかし有無を言わさぬ動作でダリウスの手から空になったグラスを取り上げた。
「お、お怪我はありませんか? 手が……酷く震えておいででしたから」
「な、何を……」
「お気の毒に。夜会の喧騒に当てられ、お心まで乱れてしまわれたのですね。ご自身のお体が思い通りに動かないほどの疲労……さぞかし不安でいらしたでしょう」
エルリアは自身のハンカチを取り出すと、ダリウスの袖口にわずかに跳ねたワインの雫を、丁寧に、母親が子供を労わるように拭き取った。
周囲から「おお……」と感嘆の声が漏れる。
「私のドレスなど、どうか気になさらないでくださいませ。布地など、また織れば済むこと。それよりも……貴方様がご自身の過ちを責め、その誇り高きお心を痛められることのほうが、私にはよほど恐ろしいのです」
それは、完璧な「慈愛」の言葉だった。
言葉尻だけを捉えれば、怪我を案じ、相手を許す聖女そのものだ。
しかし、建前と暗黙の了解が支配する貴族社会の文脈において、この言葉の持つ意味は極めて残酷だった。
エルリアは公衆の面前で、ダリウスを「夜会の雰囲気ごときで心を乱し、婦人に酒を浴びせるような初歩的な感情の制御もできない、憐れで未熟な男」として、絶対的に定義したのだ。
しかも、被害者である彼女自身がそれを「全面的に赦す」ことで、ダリウスは言い訳や反論の機会すら完全に奪われてしまった。
「あ、いや、私は……ちがっ、わざとでは……」
ダリウスの顔が、浴びせたワインよりも濃い赤に染まる。
優越感を示すはずが、まるで駄々をこねて失敗した幼い子供を、心優しい淑女が宥めているような構図になってしまった。
周囲の視線が、彼を「不作法な愚か者」「聖女の優しさに付け込む見苦しい男」として、冷たく、そして鋭く射抜いているのを感じた。
「さあ、どうぞあちらで冷たいお水でも召し上がって、お心を鎮めてくださいませ。……神の祝福が、貴方様の歩む道にありますように」
エルリアが優雅に、一寸の狂いもない完璧なカーテシー(淑女の礼)をすると、周囲から割れんばかりの拍手が巻き起こった。
「なんて素晴らしい……」
「ああ、まさに聖女様だ。己の損害よりも他者を思いやるとは」
「それに比べて、クレメント家の次男のあの態度はなんだ。見苦しい」
四面楚歌。
いたたまれなくなったダリウスは、顔を引き攣らせ、逃げるようにその場を立ち去った。
(——勝った)
エルリアは悲しげな微笑みを崩さぬまま、内心で力強くガッツポーズをした。
(ドレスの弁償代は後日、クレメント伯爵家へ正式な書状と共に『ご子息の体調不良を深く案じるお手紙』に添えて、きっちり請求してやるわ。伯爵家の面子にかけて、この状況で断れるはずがない。慰謝料と精神的苦痛の代償込みで、相場の三倍……いや、五倍は頂くからね!)
見事な手腕でその場を収め、確実な利益の回収ルートまで確立したエルリアは、周囲の気遣う声を丁重に、しかし儚げに辞退した。
「皆様、お気遣い感謝いたします。ですが、少々……驚いてしまいまして。少し風に当たってまいりますわ」
そう告げて、彼女は同情の視線を背中に浴びながら、テラスへと続くガラス扉を抜けた。
秋の夜風が、怒りと計算で火照った頬を冷ましていく。
バルコニーは薄暗く、庭園の木々が風に揺れる音だけが聞こえていた。
誰もいないことを確認した瞬間、エルリアの肩からすっと力が抜けた。
ピンと張っていた背筋を少しだけ丸め、手すりに手をついて、深く、深い深呼吸を一つ。
「……はぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ……っ」
肺の底から絞り出すような、疲労困憊の溜息だった。
手すりの影に隠れながら、改めて被害状況を確認する。
白いシルクに染み込んだ赤ワインは、すでに乾き始めて黒ずんでいた。
(……最悪。やっぱりこれ、魔法薬を使っても跡が残るかもしれないわね。どうしよう、お父様になんて言い訳しよう……。せっかくの投資話が、ドレスの修繕費で消えるなんて言えない……)
先ほどの堂々たる立ち振る舞いはどこへやら。
今のエルリアの横顔は、不意の痛い出費に頭を抱え、月末のやり繰りに悩む、年相応の普通の娘のものでしかない。
「見事な立ち回りだったな、子爵令嬢」
唐突に背後から声が響き、エルリアの心臓が文字通り跳ね上がった。
「っ!?」
バサリとドレスを翻し、振り向いた暗がりの奥。
壁に背を預けるようにして立っていたのは、漆黒の夜会服に身を包んだ長身の青年だった。
闇夜に溶け込むような黒髪と、それを縁取るような鋭い金の瞳。
その姿は、夜の闇そのものが人の形をとったかのように圧倒的な存在感を放っていた。
(——第一皇太子、ジークヴァルト殿下!?)
エルリアの脳内に、けたたましい警鐘が鳴り響く。
(なぜこんな所に皇太子が!? いつからいたの!? 今の私のボヤキ、聞かれた!?)
動揺を全力で、強引に腹の底へと押し込み、エルリアは瞬時に「聖女の仮面」を被り直した。
ドレスの染みを優雅に隠すように身を捻り、完璧な角度で、流れるように頭を下げる。
「ジークヴァルト殿下。このような場所でお目にかかるとは存じませんでした。先ほどは、わたくしの不手際で……お見苦しいところをお見せしてしまい、誠に申し訳ございません」
ジークヴァルトは壁から背を離し、ゆっくりとエルリアに近づいてきた。
その足取りは、獲物を狙う肉食獣のようにしなやかで、不思議なほど足音がまったくしない。
彼はエルリアの数歩手前で立ち止まると、面白そうに目を細めた。
「見苦しいなどとんでもない。実に見事だった」
低い、しかしよく響く声が夜風に溶ける。
「あのクレメント伯爵家の鼻持ちならない次男を、血の一滴も流さず、誰の反感も買わずに、公衆の面前で完全に叩き潰すとは。あれでは彼も、少なくとも年内は社交界に顔を出せまい」
「……殿下は、何を仰っているのでしょう」
エルリアは小首を傾げ、純粋な戸惑いを瞳に浮かべてみせた。
「私はただ、あの方のお加減が心配だっただけですわ。叩き潰すなど、そのような恐ろしいこと、考えたこともございません」
完璧な返しだった。
声のトーンも、表情筋の動き一つすら、教本に載せたいほど模範的な淑女のそれだ。
しかし、ジークヴァルトの金の瞳は、エルリアのその完璧な仮面を一枚一枚、物理的に剥がしていくように、じっと彼女を観察していた。
「そうか? 私にはそうは見えなかったが」
ジークヴァルトは、事もなげに言った。
「君はあの男にワインをかけられた瞬間、自分のドレスの汚れなど一瞥もしなかったな」
「それは……衣服の汚れより、あの方のお怪我が——」
「違う」
ジークヴァルトの短く鋭い言葉が、エルリアの言い訳を断ち切る。
「君の視線は一瞬、彼が胸元に身につけていた『紋章』に向かった。クレメント家の家紋だ」
エルリアの呼吸が、ほんの一瞬、ほんのわずかだけ止まった。
(嘘、でしょ……?)
「君はワインを浴びた直後、彼の家格を確認したのだ。相手が誰であるか、どの程度の報復なら許されるか、その損失をどうやって取り立てるべきか。その計算を、一瞬の間にやってのけた。……あれは、慈愛に満ちた聖女の目ではない。利益と損失を天秤にかける、冷徹な商人の目だった」
夜風が冷たく吹き抜けた。
エルリアの背筋に、冷や汗が伝う。
見られていた。
いや、ただ見られていたのではない。
この男は、エルリアの「視線の動き」という極めて微細な情報から、彼女の頭の中の思考プロセスを正確に読み解いたのだ。
(化け物か、この人は……!)
心臓が早鐘を打つ。
ここで少しでも動揺を見せれば、相手の推測を肯定することになる。
それだけは絶対に避けなければならない。
皇太子に目をつけられるなど、平穏な生活からは最も遠い道だ。
エルリアは伏せていた目をゆっくりと上げ、ジークヴァルトの金の瞳を真っ直ぐに見つめ返した。
「殿下は……大変豊かな想像力をお持ちのようですわね」
声は震えなかった。
ただ静かに、そして少しだけ冷たさを滲ませて微笑んだ。
「私はただの、未熟な子爵家の娘に過ぎません。そのような高度な計算など、できるはずもございませんわ。もしそのように見えたのなら、それは私が……あまりの出来事に、ただ呆然としてしまっていたからでしょう」
否定も肯定もしない。
ただ「あなたの見間違いだ」と優雅に突き返す。
二人の間に、張り詰めた沈黙が落ちた。
ジークヴァルトの瞳が、エルリアの嘘を射抜くように見据えている。
エルリアもまた、負けじとその視線を逸らさなかった。
永遠にも似た数秒の後——。
「……くっ」
ジークヴァルトの喉の奥から、低い笑い声が漏れた。
「ふっ、ははははっ! なるほど。いいだろう、そういうことにしておこう」
彼は面白くてたまらないというように肩を揺らし、それから、エルリアに一歩だけ近づいた。
彼から漂う、微かな夜風の匂いと、上質な葉巻の香りがエルリアの鼻腔をくすぐる。
「だが、君は私が思っていた以上に、遥かに興味深い女性だ。エルリア・ヴァン・アシュレイ」
ジークヴァルトは、彼女の名前をゆっくりと、舌の上で転がすように呼んだ。
「これからの夜会が、少しだけ退屈ではなくなりそうだ。……風邪を引かないようにな、聖女殿」
意味深な、そしてどこか楽しげな言葉を残し、ジークヴァルトは踵を返した。
その背中が闇に溶けて完全に見えなくなるまで、エルリアは微動だにしなかった。
足音が完全に消え、再び庭園の木々の音だけが残る。
「…………っ」
張り詰めていた糸が切れたように、エルリアは手すりにしがみつき、ガクンと膝を折った。
(寿命が……三年は縮んだ……っ!)
必死に呼吸を整えようとするが、心臓はまだバクバクと狂ったように鳴っている。
第一皇太子、ジークヴァルト。
完璧で、冷徹で、人の心の奥底まで見透かすようなあの金の瞳。
目をつけられた。
間違いなく。
それも、最悪の形で面白がられている。
(冗談じゃないわよ……! 私はただ、平穏に家計をやりくりして、そこそこの生活を送りたいだけなのに!)
美しい聖女の仮面の下で、普通の令嬢の悲痛な叫びが、秋の夜風に溶けていった。
彼女の苦難と計算と、そして華麗なる反撃の物語は、ここから始まる。
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