第34話:大義なき帝国への包囲網と、空回りする開戦準備
王国と国境を接する隣国、その王都に位置する大商会の豪奢な会議室。
本来ならば、国を跨いだ巨大な商談が行われるその場所は、現在、ひどく重苦しく、そして絶望的な空気に支配されていた。
円卓を囲んでいるのは、隣国の経済を牛耳る大商会トップたちと、王族の側近である外交官たち。
彼らの視線は、テーブルの中央に置かれた数枚の書類に釘付けになっていた。
「……間違いない。これは、ガルディア帝国の軍部と元筆頭公爵が結託し、王国のアシュレイ子爵令嬢……『聖女』の命を狙ったという、動かぬ証拠だ」
王族の側近が、脂汗を滲ませながら絞り出すように言った。
そこには、潜伏先から見つかった工作資金の送金手形、そして公爵の裏帳簿の写しが、これでもかとばかりに揃えられていた。 誰が見ても言い逃れのできない、国家ぐるみのテロ行為の証明である。
「ガルディアは、あろうことか他国の『聖女』の命を狙ったのだ! 彼らには、この度の軍事行動において、戦争の大義名分など一切ない!」
「ええ。こんな非道な暗殺国家に、これまで通り武器や食料を売り続ければ、我が国も『テロ国家の共犯者』として国際社会から激しい非難を浴びることになりますぞ!」
商人たちも、真っ青な顔で口々に叫んだ。
彼らの目の前には、暗殺の証拠に加えて、二通の恐ろしい手紙が置かれていた。
一通は、王妃イザベラからの『親書』。
「我が国は聖女暗殺未遂という暴挙を絶対に許さない。ガルディアに与する国は、王国への敵対行為とみなす」という、強烈な外交圧力である。
そしてもう一通は、慈善事業の最高顧問であるエルリアからの『平和の祈り』という名の手紙だった。
「悲しみを生む軍需物資を輸出しないで。わたくしと共に平和を祈ってください」という美しい言葉で綴られているが、商人たちにとっては死刑宣告に等しい。
「聖女様の手紙は、慈善事業と物流を完全に掌握している彼女からの『最後通牒』だ! もしこれに応じずガルディアと取引を続ければ、我が商会は王国経済圏から完全に締め出されてしまう!」
大義名分の完全なる喪失による「国際的リスク(国民からの信用失墜)」と、強大な王国からの「外交的・経済的圧力」。
この二つの強烈な現実を前に、周辺諸国が取るべき道は一つしかなかった。
「……決まりだ。即刻、ガルディアとの国境を完全封鎖しろ。一切の物資の取引を停止するのだ。我が国が生き残るためには、かの国を切り捨てるしかない!」
王族の側近と大商人たちの意見が一致した瞬間。
ガルディア帝国は、一滴の血も流されることなく、大陸の経済圏から完全に孤立したのだった。
***
同じ頃。
周辺諸国が震え上がりながら国境を封鎖していることなど露知らず、ガルディア帝国軍の国境砦は、異様な熱気に包まれていた。
「将軍! 王都に潜伏させていたスパイから最後の報告が入りました! 王太子ジークヴァルトが激怒し、全軍に開戦の号令をかけたとのことです!」
伝令の叫びに、天幕の上座に座るレオンハルト将軍は、好戦的で凶悪な笑みを浮かべた。
(これは、エルリアがジークヴァルトを止める直前に放たれた、すでに古い情報である)
「やはり力で来るか。ならば、予定通り迎え撃つまでだ!」
レオンハルトの傍らには、王国から逃亡してきたアルベルト公爵が傲然と胸を張って立っていた。
「将軍、私が持ち込んだ莫大な裏金を使いたまえ。出し惜しみは無用だ。今すぐ我が国の全軍を国境に集結させ、王国の軍勢を数の暴力で押し潰すのだ」
「承知した、公爵閣下。ただちに全軍を展開させる!」
号令と共に、ガルディア帝国の巨大な軍事機構が動き出す。
何万人もの兵士が国境へと移動し、それに伴って莫大な食糧、武器、軍馬、テントといった軍需物資が、凄まじい勢いで消費されていく。
「これだけの大軍を展開すれば、国内の備蓄物資はあっという間に底をつくが……構わん。足りない分は、公爵の資金で周辺国から買えばいいだけのことだ」
レオンハルト将軍は、圧倒的な軍事力を前に高を括っていた。
だが、彼らは致命的なまでに気づいていなかった。
自分たちがすでに国際社会から見捨てられ、国境の街道は完全に物理封鎖されており、他国からは『一粒の麦すら入ってこない』という現実に。
自分から莫大な軍事費をつぎ込んで全軍を展開させ、ただただ猛烈な勢いで国内の物資を食いつぶしていく。
それは、敵が何もしなくとも、数日後には軍が飢餓状態に陥り、自重で崩壊していくという『巨大な兵糧攻めの罠』に、自ら喜んで首を突っ込んでいる滑稽な姿に他ならなかった。
***
王都、大広場。
抜けるような青空の下、王宮の大バルコニーの眼下には、王都の民衆が足の踏み場もないほどに押し寄せていた。
彼らの視線の先には、漆黒の軍服を纏った王太子ジークヴァルトが、威風堂々と立っている。
「愛する我が国の民よ! 今日、私はお前たちに、喜ばしい報告と……決して許すことのできない悲劇の、二つを伝えねばならない」
ジークヴァルトの威厳に満ちた声が、静まり返った大広場によく響き渡る。
「まず、喜ばしい報告だ。私、ジークヴァルトは、この国の慈善事業を率い、民に光をもたらしたエルリア・ヴァン・アシュレイ子爵令嬢との……『婚約』を、内定した」
その言葉に、群衆は一瞬静まり返り、直後に地鳴りのような凄まじい大歓声を上げた。
「おおおおっ!! 王太子殿下、万歳!! 聖女様、万歳!!」
「我らが聖女様が、未来の王妃様に!! こんなにめでたいことはない!!」
民衆は、自分たちを救ってくれた聖女の幸福を、心から喜び、祝福の声を張り上げた。
だが、ジークヴァルトは片手を上げてその歓声を制すると、一転して、地を這うような冷酷な声で告げた。
「だが……。先日、その彼女の命が、卑劣な暗殺者によって狙われた」
「……え?」
「首謀者は、ガルディア帝国の工作部隊。そして、彼らと内通し、国を売った元筆頭公爵アルベルトだ」
ジークヴァルトの背後に控えていた騎士たちが、暗殺者の遺留品や、公爵の裏帳簿の写しを高く掲げた。
「彼らは、私から愛する者を、そしてお前たちから慈悲深き聖女を奪おうとしたのだ! この決定的な証拠が、奴らの暴挙を証明している!」
真実を知った瞬間。
大広場の空気は、祝福の熱狂から、爆発的な『激怒』へと急転直下した。
「許せない……! よくも、我らが聖女様を!!」
「ガルディアの野蛮人どもめ! 聖女様を傷つけた帝国と、裏切り者を滅ぼせ!」
「今すぐ開戦だ!! 俺も剣を取るぞ!! 奴らを皆殺しにしてやる!!」
敬愛する聖女が命を狙われた。
その事実が、国民の愛国心と義憤に火をつけ、王都全体が「報復の戦争」を望む、凄まじい怒号と熱狂の渦に包まれた。
暴動すら起きかねない、コントロール不可能な熱気。
だが。
その怒り狂う群衆の前に、一人の令嬢が進み出た。
純白のドレスに身を包み、プラチナブロンドの髪を風に揺らす、エルリアである。
「皆様……」
彼女の、鈴を転がすような、どこまでも清廉で悲しげな声が響いた。 その声だけで、怒号に満ちていた広場が、水を打ったように静まり返る。
「わたくしのために、皆様がそれほどまでに心を痛め、怒ってくださること……本当に、感謝の念に堪えません」
エルリアは、そっと胸に手を当てて、憂いを帯びたエメラルドグリーンの瞳で群衆を見下ろした。
「ですが……どうか、その怒りの声を鎮めてくださいませ」
彼女は、悲しげに首を横に振った。
「わたくしは、復讐の戦火によって、皆様の大切な家族が傷つき、血を流すことを決して望みません。憎しみの連鎖は、新たな悲しみを生むだけです」
エルリアは、バルコニーの手すりに両手を添え、祈るように目を閉じた。
「自分を害した者を憎むのではなく、彼らが正しき道に立ち返ることを祈りましょう。どうか、剣を置き、わたくしと共に……平和の祈りを捧げてください」
自分を害した敵国の命すら案じ、国民の平和と命を最優先する、そのあまりにも無垢で高潔な姿。
民衆は、その慈悲深さに胸を打たれ、怒りに歪んでいた顔をポロポロと涙で濡らした。
「ああ……なんというお方だ……っ!」
「我々は、聖女様の御心を少しも分かっていなかった! 復讐など、聖女様は望んでおられないのだ!」
「聖女エルリア様、万歳!! 聖女様、万歳!!」
国民の激しい怒りは、完璧なまでの感動と崇拝へと昇華され、王都は割れんばかりの歓声と涙で満たされた。
ジークヴァルトは、隣で誇らしげに、そして熱烈な瞳で彼女を見守っている。
だが。
感動の大歓声を一身に浴びながら、エルリアは、鉄壁の聖女の微笑みの下で、密かに満面の笑みで猛烈な計算式を弾き終えていた。
(っしゃあああ! これで国民からの絶対的な支持と同情の獲得、完了! 私の権力基盤は、もはや王族以上に盤石よ!)
エルリアの脳内で、黄金のコインが降り注ぐ音が鳴り止まない。
彼女は、視線を遠く、敵国の方角へと向けた。
(あちらの好戦的な将軍や、保身に走る公爵なら、王国が開戦の準備をしていたという古い情報に踊らされて、今頃、国境に大軍を集結させて迎え撃つ準備をしている頃かしらね)
大軍を動かせば、当然ながら莫大な食糧と軍需物資が毎日消費されていく。
だが、彼らを支えるはずの周辺国からの物流ルートは、すでにエルリアの手によって完全に絶たれていた。
(他国からの輸入が止まっているとも知らずに、自分たちで勝手に国内の備蓄を食いつぶして自滅してくれるなんて、最高にコスパが良いわ!)
エルリアは、そっと目を閉じ、両手を胸の前で組んで祈りのポーズを深めた。
その姿はどこまでも清らかで、美しい。だが、彼女の頭の中にあるのは、冷酷なまでの債権回収の青写真だった。
(血を一滴も流さずに国を内部崩壊させて、戦後賠償という名の慰謝料で全財産をむしり取る準備は、これで完璧に整ったわ!)
表向きは平和を祈る慈悲深き聖女。
裏の顔は、敵国の性格と状況を計算し尽くし、丸ごと合法的に差し押さえる準備を完了した、最強の守銭奴。
エルリアは、歓声に応えて優雅に手を振りながら、勝利の算盤を強く抱きしめた。
***
バルコニーでの発表を終え、二人は王太子宮の執務室へと戻ってきた。
分厚い扉が閉まり、外の大歓声が遠のくと、そこには二人きりの静寂な空間が広がる。
「……見事だった、エルリア。君の言葉が、民の怒りを完全に鎮め、国を一つにした」
ジークヴァルトは、深い感嘆の息を吐きながら、エルリアの元へ歩み寄った。
そして、彼女の華奢な腰にそっと腕を回し、愛おしそうに引き寄せた。
「ひゃっ……じ、ジークヴァルト様?」
突然の密着に、エルリアの肩がビクッと跳ねる。
「君と母上の策通りだ。先程、国境に放っていた斥候から『帝国軍が全軍を国境に集結させている』と報告が入った。奴らは今、大義名分を失って完全に孤立していることにも気づかず、無駄な軍の展開で自国の首を猛烈な勢いで絞めている。遠からず、物資が尽きて内部崩壊するだろう」
ジークヴァルトは、現実的な報告とともに、勝利を確信した声でそう告げた。
だが、その声は、いつもよりも低く、甘く、そして微かに上ずっていた。
彼自身、大群衆の前で「婚約を内定した」と公式に発表してしまったことで、エルリアが名実ともに自分のものになったという事実を、今更ながらに強烈に意識してしまっていたのだ。
「もはや、勝負はついたな。……これで、君は誰に憚ることもなく、私の、その……」
ジークヴァルトは、言葉を紡ごうとしたが、エルリアのプラチナブロンドの髪から香る甘い匂いと、腕の中にすっぽりと収まる柔らかさに、思考がショートしかかっていた。
彼の手は、エルリアの腰から離れようとせず、むしろ少しだけ強く引き寄せてしまう。
その端正な顔は、みるみるうちに耳の裏まで真っ赤に染まっていた。
「私の……こ、婚約者として、ずっと傍にいてくれるということだ」
普段の冷徹な暴君からは想像もつかない、しどろもどろで初々しい態度。
至近距離で見せられたその「不意打ちの照れ顔」に、エルリアの心臓も、ドクン!と大きく跳ね上がった。
(な、なによもう……! 発表まではただの政治的な『既成事実』だと思ってたのに、二人きりになってこんなに真っ赤になられたら……こっちまで恥ずかしくなってくるじゃないの!)
エルリアの脳内で猛回転していた『賠償金の算盤』が、ポーンとどこかへ弾け飛んでいく。
彼女の頬もまた、ジークヴァルトの体温と、甘酸っぱい空気に当てられて、ボンッと音を立てるように赤く染まってしまった。
「そ、そうですね……。わたくしも、殿下のお傍で……その……」
エルリアは、潤んだ瞳を彷徨わせながら、俯き加減でジークヴァルトの胸元にそっと両手を添えた。
お互いに顔を真っ赤にして、視線を合わせられないまま、それでもどちらも絶対に離れようとはしない。
エルリアは、恥ずかしさをごまかすように、必死に「聖女」としての、そして「最強の守銭奴」としての言葉を絞り出した。
「あとは……彼らが過ちに気づき、心から『悔い改める(賠償金を支払う)』日を、平穏にお待ちするだけですわね……っ」
「あ、ああ……そうだな。君の望む通りに……」
最強の守銭奴と、過保護な王太子。
国家すら盤上で転がす二人は、完璧でえげつない無血開城のカウントダウンの裏で、ただの初心な恋人同士のように、真っ赤になって甘い沈黙を共有していた。
大義なき帝国の崩壊と、彼らからの莫大な取り立て。
そして、二人が名実ともに最強の夫婦となる日は、もう目の前まで迫っていた。




