第35話:仮面の聖女と過保護な王太子の、完璧で強欲な大団円
周辺諸国がガルディア帝国との国境を完全封鎖してから、数週間後のこと。
王太子宮の執務室に、執事ハインツの冷静だが、どこか呆れたような報告の声が響いていた。
「……以上が、前線からの報告となります。ガルディア帝国軍は、内部崩壊により完全降伏いたしました」
執務机に座るジークヴァルトは、その報告書に目を通し、ふっと冷ややかな鼻で笑った。
他国から一粒の麦も、一本の矢も入ってこないという『完全なる経済・物流封鎖』の状況下。
それにも関わらず、古い情報に踊らされたレオンハルト将軍とアルベルト公爵は、意気揚々と国境に大軍を展開し続けていた。
その結果は、火を見るより明らかだった。
数万の大軍が毎日消費する莫大な食糧は、あっという間に底をついた。
補給線が完全に断たれていることに気づいた時には、すでに手遅れだった。
極限の飢餓状態に陥った前線の兵士たちは、ついに暴動を起こした。
彼らは、自分たちを地獄へ突き落とした将軍と公爵を自らの手で拘束し、王国軍の国境砦へと引き渡し、無条件降伏を申し入れてきたのだ。
「飢えに耐えかねた兵士たちが、自らの指揮官を売り飛ばして降伏か。……実に滑稽な幕切れだな」
ジークヴァルトの冷酷な言葉に、ハインツも深く頷く。
「はい。我が王国軍は、一滴の血も流すことなく、剣を抜くことすらなく……完全なる無血勝利を収めました」
それは、すべてエルリアが敷いた『完璧な経済包囲網(兵糧攻め)』の成果であった。
戦わずして敵を自重で崩壊させる、最も残酷で、最もコスパの良い完全勝利。
「公爵と将軍の身柄は、地下牢へ移送済みだ。あとは……この馬鹿げた騒動を起こしたガルディアという国への、事後処理だけだな」
ジークヴァルトの金の瞳が、これから始まる『狩り』を前に、冷酷な夜叉の光を放った。
***
王宮の最も奥に位置する、重厚な扉に閉ざされた大会議室。
そこには今、降伏の使者として訪れたガルディア帝国の特使たちが、青ざめ、震える顔で講和会議の円卓に着いていた。
彼らの向かいには、漆黒の軍服を纏い、絶対的な覇気を放つ王太子ジークヴァルト。
そしてその隣には、純白のドレスに身を包んだ、聖女エルリアが静かに座っていた。
重苦しく、息の詰まるような沈黙。
特使たちは、敗戦国としてどのような過酷な要求を突きつけられるのかと、恐怖に身を縮こまらせている。
そんな彼らに向けて、エルリアがそっと立ち上がった。
彼女は、胸の前で両手を組み、憂いを帯びたエメラルドグリーンの瞳で、特使たちを慈悲深く見つめた。
「皆様……」
透き通るような、それでいて深い悲しみを帯びた声が、静まり返った会議室に響く。
「憎しみの連鎖が断ち切られ、これ以上、両国の民が血を流さずに済んだこと……わたくしは、心から神に感謝いたしますわ」
エルリアは、自分を暗殺しようとした敵国の使者に対してすら、一切の恨み言を口にしなかった。
ただひたすらに、平和と命の尊さを説くその姿。
「ですが……わたくしは、神に祈ることしかできない身。これからの両国の未来を決める政治の場には、わたくしは相応しくありません」
エルリアは、静かに一礼した。
「ですから、わたくしはこれで退室いたします。どうか、憎しみのない、平和な結論が導き出されますよう……心からお祈りしておりますわ」
その、あまりにも美しく、慈悲深い聖女の姿に。
恐怖に震えていた帝国の特使たちは、ポロポロと感動の涙を流した。
「ああ……アシュレイ子爵令嬢! あなたはなんて気高く、お優しいお方なのだ……!」
「我々の愚かな行いを、どうかお許しください! あなたの平和への祈り、決して無駄にはいたしません!」
特使たちは、立ち上がって深く頭を下げ、聖女の美しい背中を涙ながらに見送った。
だが。
カチャリ、と。
エルリアが退室し、会議室の重厚な扉が完全に閉ざされた、その瞬間だった。
「――さて」
室内の温度が、一瞬にして絶対零度まで急降下した。
特使たちがハッとして顔を上げると、そこには、先程まで聖女の隣で静かに座っていたはずの王太子が、地獄の底から這い出た魔王のような、極寒の笑みを浮かべていた。
「彼女の、慈悲深き平和の祈りに応えるため……君たちによる『痛みを伴う贖罪』の話を始めようか」
特使たちの背筋が、一気に凍りつく。
ジークヴァルトは、手元にあった分厚い書類を、ドンッ!と容赦ない音を立てて円卓の中央に投げ出した。
「我が国の東部の民が受けた精神的苦痛への慰謝料、ならびに『平和復興支援金』という名目で……ガルディア帝国の国家予算五か年分を要求する。さらに、アルベルト公爵が我が国から持ち出した資産の全額返還と、帝国内にある彼の一族の全資産の完全没収だ」
「なっ……!? ご、五か年分!? しかも公爵家の全財産没収など……! そ、そのような途方もない要求、飲めるはずがありません!」
特使の一人が、悲鳴のような声で立ち上がった。
だが、ジークヴァルトは冷酷な金の瞳で彼を射抜く。
「飲めないのなら、今すぐ会議は決裂だ。我が国は、経済封鎖を一切解除しない。……一滴の水も入らない国で、君たちの愛する家族がどうやって飢えを凌ぐのか、見物だな」
「…………っ!」
特使たちは、その完璧な「詰み」の状況を突きつけられ、絶望に顔を歪めて崩れ落ちた。
逃げ場のない、骨の髄までしゃぶり尽くす、容赦なき取り立て。
聖女が美しく退室した後の会議室で、王国最強の暴君による、完璧な債権回収の凄惨なショーが幕を開けたのだった。
***
数時間後。王太子宮のプライベートサロン。
講和会議を終えたジークヴァルトが、エルリアの元を訪れた。
「エルリア。……君の祈り通り、彼らは真摯に『贖罪』を受け入れたぞ」
そう言ってジークヴァルトがテーブルに置いたのは、ガルディア帝国の玉璽が押された、正式な講和条約と賠償金の証書だった。
エルリアは、そっとその証書に視線を落とす。
そこに記された、目も眩むような莫大な賠償金額のゼロの数。
(っしゃあああああああああ!!! 殿下ナイス!! 完璧! 完璧よ!!)
エルリアの脳内で、凄まじい勢いで算盤が弾かれ、黄金のコインが滝のように降り注ぐ音が鳴り響いていた。
(私の手を一切汚さずに、完璧な最高額の取り立て完了! これで王国の財政は超潤沢! 私の慰謝料もガッツリ上乗せされてるし、東部水路の工事資金なんてお釣りがいっぱい来るわ!! コスパ最高すぎるわ!!)
内心では狂喜乱舞でガッツポーズを決めながらも、エルリアは表面上、ほっと胸を撫で下ろしたような、憂いを帯びた微笑みを浮かべた。
「まあ……。皆様が悔い改めてくださって、本当に良かったですわ……」
「ああ。君の海より深い慈悲に、彼らも大粒の涙を流して感謝していたよ」
ジークヴァルトの言葉を聞きながら、エルリアは優雅に紅茶のカップを傾けた。
(そりゃあ五か年分の予算をむしり取られれば、血の涙も出るわよね!)
内心で鋭い突っ込みを入れつつも、彼女は優しく微笑む。
「これで、すべてが平和に解決いたしましたわね」
聖女の鉄壁の建前と、それを完全に理解した上で完璧に実務をこなした王太子の、最高の連携プレイであった。
***
すべてが片付いた、数日後の午後。
王太子宮の広大な中庭には、穏やかな春の陽光が降り注いでいた。
エルリアが回廊を歩いていると、中庭の芝生の上で、楽しげな声が響いているのが聞こえた。
「ジークヴァルトお義兄様! 今の打ち込み、どうでしたか!?」
「筋が良いな、ルカ。だが、剣を振るう時はもっと足腰に重心を落とすんだ。こうだ」
「はい! やってみます!」
そこには、木剣を手にしたルカが、ジークヴァルトから直々に剣術の型を教わっている姿があった。
ジークヴァルトは、いつもの冷徹な暴君の顔を微塵も感じさせない、ひどく穏やかで優しい兄の顔で、ルカの頭を撫でている。
ルカもまた、ジークヴァルトのことを心から慕い、無邪気な笑顔を向けていた。
エルリアは、その微笑ましい光景を回廊の柱の陰から見つめながら、静かに息を吐いた。
(……安全な王宮での生活。王太子自らによる、国で最高峰の教育環境。莫大な賠償金によって一生遊んで暮らせる王室の資金。そして、弟を命がけで守ってくれる強力なパトロン)
エルリアの脳裏に、かつて思い描いていた『ルカとの平穏な生活』の青写真が浮かぶ。
(当初予定していた『田舎の領地での平穏』とは、場所もスケールも全然違ってしまったけれど……。でも、ルカのあの幸せそうな笑顔を見れば)
エルリアは、そっと目を細めた。
(私の人生最大の目標は、これ以上ないほど完璧に、完遂されたわ)
ルカの笑い声と、ジークヴァルトの優しい眼差し。
それが、エルリアの心の中にある「打算」や「計算」を、少しずつ、春の雪解けのように溶かしていくのを感じていた。
***
その日の夜。
王太子宮の、ジークヴァルトの執務室。
一日の公務を終え、室内には二人きりの静かな時間が流れていた。
ジークヴァルトは、ソファで紅茶を飲んでいたエルリアの隣に、静かに腰を下ろした。
「すべて、終わったな」
「ええ。ジークヴァルト様のおかげですわ」
エルリアが微笑むと、ジークヴァルトは、彼女のエメラルドグリーンの瞳を真っ直ぐに見つめ返した。
「……いや。君のあの『計算高さ』と『強欲さ』がなければ、この国は救えなかった」
その言葉に、エルリアの肩がビクッと跳ねた。
ジークヴァルトの瞳には、一切の誤魔化しがない。
彼は、エルリアがただの「清貧な聖女」などではなく、実利を重んじ、盤上で国すら転がす強かで計算高い令嬢であることを、完全に理解していたのだ。
「……お見通し、でしたのね」
エルリアは、観念したように小さくため息をつき、少しだけ視線を逸らした。
「強欲で、計算高くて、申し訳ありませんわ。……でも、わたくしは、自分の大切なものを守るためなら、一デナリの妥協もいたしませんの。それが、わたくしの本性ですから」
いつか彼に愛想を尽かされるなら、それでもいい。
ルカと自分の未来を守るためなら、聖女の仮面の下にある醜い本性を隠し通すつもりはなかった。
だが。
「ああ、知っている」
ジークヴァルトは、そんな彼女の言葉を、ひどく優しく、そして愛おしそうに受け止めた。
彼は、エルリアの頬にそっと手を添え、熱を帯びた金の瞳で彼女を縛り付けるように見つめた。
「君のその強かさも、大切なもののために手段を選ばない強欲さも……そのすべてを、私は愛しているのだ」
「……っ」
打算も計算も一切ない、真っ直ぐで重い愛情の言葉。
エルリアの脳内で常に弾かれ続けていた冷徹な算盤が、この瞬間、完全にその動きを止めた。
「エルリア。私の隣で、その強欲な算盤を、一生弾き続けてくれ」
ジークヴァルトの強い腕に引き寄せられ、エルリアの体は彼の広い胸の中へとすっぽりと収まった。
鼻腔をくすぐる、彼特有の凛とした香り。
耳元で聞こえる、彼の力強い心音。
(……ああ、もう。これ以上計算するのは、やめましょう)
エルリアは、ボンッと顔を真っ赤に染め上げながら、彼の胸に顔を埋めた。
(だって……世界で一番の優良物件は、もう私のこの腕の中にあるのだから)
「……ええ。覚悟してくださいませ、ジークヴァルト様。わたくしの計算は、厳しいですわよ」
「望むところだ」
完璧な社交辞令から始まった二人の関係。
それは今、建前という仮面を越えて、真実の愛(と莫大な利益)に包まれ、静かに、そして幸せな幕を閉じたのだった。




