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仮面の聖女 〜完璧な社交辞令と内心は一致しない〜  作者: tky
第2章:荒れ狂う政治の荒波

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第32話:天使の王宮入りと、聖女の平和宣言

「君の未来も、命も、すべて私が預かる。……だからもう二度と、私の側から離れるな。誰にも、指一本触れさせない」


王太子宮の豪奢な寝室に、重苦しくも熱を帯びた沈黙が流れていた。


暗殺者の放った凶刃から一命を取り留めたエルリアに対し、ジークヴァルトが突きつけた、事実上のプロポーズともとれる狂気的な独占宣言。


(私の未来も命も預かるですって!? つまり、完全に一生囲い込まれるってことじゃない! 打算抜きの本気の愛情は嬉しいし、頼もしいけれど……私の人生の最大の目標は、ルカとの平穏な生活なのよ!)


エルリアは、ベッドの上で激しく動揺しつつも、持ち前のそろばん脳をフル回転させていた。


(でも、彼が私にこれほどの愛情を向けてくれているなら……ルカを人質や弱みとして悪用される心配はないはずだわ! ならばここは正直に懇願して、情に訴えかけて実家に帰らせてもらうのよ!)


エルリアは、潤んだエメラルドグリーンの瞳で上目遣いにジークヴァルトを見つめ、震える声で口を開いた。


「ジークヴァルト様……。もったいないお言葉、本当にありがとうございます。ですが、わたくしは……わたくしは、愛する弟と一緒に暮らしたいのです」


エルリアは、彼に握られている手をそっと握り返し、懇願した。


「ルカの傍にいて、あの子の成長を見守ることが、わたくしの生きる意味なのです。どうか、わたくしを実家へ帰らせてくださいませ」


それは、聖女としての建前をかなぐり捨てた、エルリアの純粋な「家族愛(重度のブラコン)」の吐露だった。


ジークヴァルトは、エルリアのその切実な願いを聞き、少しだけ考え込んだ。


(彼女の家族愛は本物だ。打算でも何でもなく、心の底から弟を愛している。……だが、彼女をあの警備の薄い実家に帰すことなど、暗殺未遂という現実を突きつけられた以上、絶対にできん)


ジークヴァルトの脳裏に、顔面を蒼白にして倒れたエルリアの姿がフラッシュバックする。

二度と、あのような恐怖を味わうのは御免だった。


ジークヴァルトは、エルリアの手をさらに強く握り締め、静かに、しかし断固とした口調で答えた。


「わかった。ならば、ルカをこの王宮に呼び寄せよう」


「……え?」


「君の大切な家族なら、私の全力で保護する。君と共に暮らせる部屋を、この王太子宮に用意しよう。そうすれば、君は彼と離れ離れになることなく、常に私の目の届く安全な場所で暮らせるだろう」


エルリアは、その言葉の意味を理解し、一瞬思考を停止させた。


(え? ルカごとこの王宮に住まわせるの!? ルカと一緒に暮らしたいって言っただけなのに、姉弟ごと完全に王太子宮に囲い込まれたじゃない!)


最初は、退路を完全にコンクリートで塞がれたことに焦った。

しかし、瞬時に彼女の冷徹なそろばんが、提示された条件を冷静に分析し始める。


(……ちょっと待って。落ち着いて計算しなさい、私。ルカと一緒に、世界一安全な王宮で暮らせる。ルカには王宮の最高峰の教育を受けさせられて、しかも生活費、食費、警備費のすべてが一生タダ。……あれ? これ、私の人生の望みが全部完璧に叶っているじゃない!)


ルカの完璧な未来が、王室の金で賄われる。

これ以上の好条件は、世界中どこを探しても存在しない。


だが、その完璧な条件を満たすためには、当然「ジークヴァルトの隣で、彼と共に生きていく」という未来が確定する。


エルリアの脳内に、ジークヴァルトと自分が、間にルカを挟んで豪華な食卓を囲み、微笑み合う甘い新婚生活のビジョンが、恐ろしく具体的に浮かび上がってしまった。


(なっ……わ、私、この人と……っ! ……ちょっと待って、悪くない、どころか最高に幸せな未来じゃないの!?)


エルリアは、自分の人生計画の中にジークヴァルトが完全に組み込まれ、むしろそれが自身の最高に幸せな未来であることに気づいてしまい、ボンッ!と顔を真っ赤にして俯いてしまった。


「……どうした、エルリア? 顔が赤いぞ。まだ毒の影響が残っているのか?」


ジークヴァルトが心配そうに顔を覗き込んでくる。


「な、なんでもございませんわ……っ!」


心臓の鼓動が、耳元でうるさいほどに鳴っている。


彼女の算盤は、もはや「いかに彼から回避するか」ではなく、「いかに彼との甘い未来を損なく実現するか」という、全く別の計算を始めていた。


だが、そのピンク色に染まった甘い余韻は、ひどく無骨な音によって打ち破られた。


「――殿下! 緊急の報告がございます!」


コンコンコンッ! と、寝室の重厚な扉が遠慮なく叩かれ、執事ハインツの切羽詰まった声が響いた。


「っ!?」


エルリアは弾かれたように我に返り、ベッドの上で慌ててジークヴァルトから距離を取った。


ジークヴァルトは、舌打ちを一つして、苛立たしげに扉を睨みつけた。


「……入れ。何事だ」


「失礼いたします!」


扉を開けて足早に入ってきたハインツは、部屋の甘い(そして王太子がひどく不機嫌な)空気を一瞬察知したものの、事態の深刻さゆえに躊躇なく報告を口にした。


「近衛が王都内を捜索し、暗殺者の潜伏先であったセーフハウスを特定いたしました。実行犯はすでに逃亡した後でしたが……残された痕跡から、背後関係が完全に断定されました」


ハインツの表情は、極めて険しい。


「暗殺者が王宮へ侵入するために使用したルートは、元筆頭公爵であるアルベルトのみが管理権限を持っていた旧地下水路でした。さらに、潜伏先の隠し金庫から発見された工作資金の送金手形……これが、先日我々が押収した公爵の秘密倉庫の裏帳簿にあるダミー商会のものと完全に一致いたしました」


ハインツは、手元の報告書を強く握り締めた。


「今回の暗殺未遂。ガルディアの工作部隊と、逃亡したアルベルト公爵の結託による手引きで間違いありません」


その報告と確固たる証拠を前にした瞬間。

ジークヴァルトの顔から先ほどの柔らかさが完全に消え失せ、絶対零度の夜叉へと変貌した。


「……そうか」


ジークヴァルトの声は、地獄の底から響くように冷酷だった。


「公爵の首一つで足りるはずがない。ガルディアという国そのものを地図から消し去り、彼女を危険に晒した代償を支払わせる。全軍に戦争準備の号令を。ガルディアを徹底的に叩き潰す」


その恐ろしいまでの殺意に満ちた号令を耳にした瞬間。

ベッドの上にいたエルリアの顔から、別の意味でサッと血の気が引いた。


「ジークヴァルト様! お待ちください!」


エルリアは、まだ毒のダメージが残る体で、慌ててベッドから身を乗り出し、ジークヴァルトの袖を強く掴んだ。


「全軍に戦争準備の号令を下されるというのは、本当ですか!?」


「ああ。当然だ」


ジークヴァルトは、エルリアを気遣ってそっと彼女の手を握りつつも、その金の瞳には冷徹な殺意が渦巻いていた。


「君を傷つけ、命を奪おうとした国だ。決して許すわけにはいかない」


(冗談じゃないわ! 戦争なんて物価は上がるし税金は上がるし、私の事業の資材も入らなくなるし、コスパ最悪の赤字事業よ! しかもルカのいる王都が戦火に巻き込まれるかもしれないなんて! 絶対に阻止しなきゃ!)


エルリアは、悲痛な面持ちでジークヴァルトを見上げ、潤んだ瞳で懇願した。


「殿下! わたくしの命一つで、両国の民を戦火に巻き込むなど……! どうか、お怒りをお鎮めください! わたくしは、神の御加護により無事なのですから!」


「君が無事だったのはただの偶然だ!」


ジークヴァルトが、激しい感情を露わにして吠えた。


「一歩間違えば、君は私の腕の中で死んでいた! その恐怖がわかるか! ……君を傷つけた代償は、国ごと焼き払うことでしか贖えない」


ジークヴァルトの言葉には、次期国王としての冷静さはなく、ただ愛する者を傷つけられた一人の男としての、狂気的なまでの執着と暴走があった。


エルリアは、彼が自分を愛するあまり、完全に理性を失っていることを理解した。


(この過保護モードの殿下は、私が何を言っても絶対に止まらないわ。……なら、外堀を埋めて強引に止めるしかないわね)


エルリアは、静かに彼の手を離し、きっぱりと宣言した。


「殿下が、どうしても剣を収めてくださらないのなら……。わたくしは、有力者の方々に直接、戦争中止を呼びかけさせていただきますわ」


「何だと? 君はまだ動ける体では……!」


「わたくしは聖女として、民の平和を守る義務がございます。……失礼いたしますわ」


エルリアは、止めるジークヴァルトを振り切り、無理を押して寝室を後にした。


***


王宮の広大なサロン。


そこには、クロエやカトリーヌをはじめとする、高位貴族の令嬢たち――強大な政治力を持つ『聖女派閥』の面々が集まっていた。


「許せませんわ! 聖女様のお命を狙うなんて! お父様にも、ガルディアを徹底的に叩き潰すよう手紙を書きましたのよ!」


「ええ! 我が伯爵家も、殿下の主戦論を全面的に支持いたします!」


令嬢たちは、エルリアへの狂信的な愛ゆえに激怒し、完全に主戦論(報復)へと傾いていた。


そこへ、エルリアが青白い顔で、静かな足取りで現れた。


「皆様……」


「ああっ、聖女様! お体はもうよろしいのですか!?」


クロエが弾かれたように立ち上がり、涙ぐんで駆け寄る。


「ええ、神の御加護により。……ですが、わたくしは今、悲しみで胸が張り裂けそうですわ」


エルリアは、そっと胸に手を当てて、憂いに沈んだ瞳を伏せた。


「悲しみ、ですか? やはり、ガルディアの卑劣な行いに……」


カトリーヌの言葉に、エルリアは静かに、そして深く悲しげに首を振った。


「いいえ。わたくしの命など、ちっぽけなものです。それよりも……わたくしのために、皆様の清らかな御心に憎しみが宿り、罪なき民が血を流す戦争が始まろうとしていることが、何よりも悲しいのです」


サロンの空気が、一瞬にして凍りついた。

令嬢たちは、ハッとして息を呑む。


「復讐は、何も生み出しません。戦火が広がれば、飢えるのは力なき子供たちです。わたくしは、決してそのようなことを望みません」


エルリアは、令嬢たちを一人一人、慈愛に満ちた瞳で見つめながら語りかけた。


「どうか、剣ではなく平和の祈りを……憎しみの連鎖を、ここで断ち切ってくださいませ」


そのあまりにも高潔で、慈悲深い言葉に。

令嬢たちの目に、ボロボロと大粒の涙が溢れ出した。


「ああ……! ご自身が命を狙われたというのに、それでも敵国の民すら案じておられる……!」


クロエが、その場に崩れ落ちるようにして両手を組む。


「わたくしたちは、なんと愚かだったのでしょう! 聖女様の御心も知らず、血に飢えた獣のように……!」


「聖女様がそう仰るなら……! わたくしたちも各家門に働きかけ、絶対に戦争回避を訴えますわ!」


令嬢たちは感涙し、一気に反戦派(平和主義)へと寝返った。

彼女たちの背後にいる大貴族たちが動けば、王太子の主戦論といえど、そう簡単には通らなくなる。


(よし! これで世論は完全に反戦に傾くわ! 戦争なんて百害あって一利なし! コスパ最悪の赤字事業はこれで阻止できるわね!)


見事に派閥を掌握し、平和へと誘導したエルリアだったが。

彼女の頭の中には、同時に冷徹な計算が渦巻いていた。


(もちろん、暗殺未遂の慰謝料と精神的苦痛の代償は、戦争を回避したとしてもガルディアという国にキッチリ請求してむしり取るけどね。……でも、もし万が一、殿下が世論を押し切って暴走し、武力制圧してしまった場合はどうなるかしら?)


エルリアの脳内算盤が、猛烈な勢いでパチパチと音を立てる。


(敗戦国からは、国庫ごと差し押さえるレベルの、超特大の戦後賠償がむしり取れるわね……! それはそれで、莫大な利益になるわ!)


平和を祈りながら、敗戦国からの超高額賠償金のシミュレーションまで行ってしまうエルリア。


ふと、彼女は自分の思考の強欲さに気づき、内心で複雑なため息をついた。


(……待って、私。ルカと一緒に安全に暮らせて、王宮に入れば衣食住も全部殿下持ちなんだから、もう金銭に困る生活では無くなるのよね。ルカの学費も一生分あるし)


(それなら、これ以上こんなに細かい損害賠償や戦後賠償のことなんて、考えなくていいはずなのに。なんで私はこんなに、一日でも早く金を毟り取ろうと躍起になっているのかしら)


自分でも呆れるような、損得勘定への執着。


(でも……そうね。一度算盤を弾き始めると、止まらないのよ。一デナリでも多く、あの悪い奴らから毟り取ってやらないと、夜も眠れないのよ)


もはや金銭的な必要性ではなく、魂に深く刻み込まれた「守銭奴としての凝り固まった性分」に抗うことはできないのだと悟る。


(……ああ、神様。どうかこの強欲な聖女に、もっと多くの賠償金という名の奇跡を……!)


エルリアは、自身の止まらない強欲な性分を「呪い」のように扱いながらも、結局は算盤を弾き続けることを選んだ。


「ふふっ。どんな結果になっても、このエルリア様が損をすることはありませんわ」


彼女は、令嬢たちに聖女の微笑みを向けながら。

戦場へと突き進むかもしれないジークヴァルトの背中を想像し、どちらに転んでも利益を最大化するための、勝利の算盤を弾き続けた。

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