第31話:凶刃の掠り傷と、王太子の臨界点
王宮の白亜の壁面に、濃い影が張り付いていた。
その影は、音もなく、人間業とは思えない軽快さで外壁を這い上っていく。
ガルディア軍から送り込まれた精鋭工作部隊の一員であるその男は、暗殺という任務において一切の感情を交えないプロフェッショナルだった。
(……情報と違う。標的は過労で病床に伏せっているはずだったが)
直前の偵察で、標的であるアシュレイ子爵令嬢がすでに完全回復していることが判明した。
現在、王太子ジークヴァルトは急な国王からの呼び出しを受け、別の棟へと足を運んでいる。 王宮で最も警備が厳重なこの王太子執務室には、残って公務(という名の書類作業)を続けるエルきリアと、彼女を護衛する腕利きの近衛騎士が一名だけ残されていた。
本来の暗殺のセオリーからすれば、標的が病床という無防備な状態から外れ、近衛の目が光る執務室にいる時点で、直ちに作戦を中止して撤退すべき状況である。
だが、男の懐には、この王宮の構造を知り尽くした元筆頭公爵アルベルトが残した『執務室周辺の隠し通路と死角の図面』があった。
(図面通りなら、執務室のバルコニーの死角までは確実に到達できる。室内に護衛の騎士が一名いるが、窓の隙間から首筋を狙い、結果を確認せずに即座に逃亡する一撃離脱なら……可能だ)
男は、冷酷な計算のもとで任務続行を判断し、厳重な近衛の巡回網の隙を縫って、音もなく執務室のバルコニーへと身を潜めた。
厚いガラス窓の向こう。
そこには、デスクに向かって書類と格闘している標的の姿と、壁際で警戒を怠らない護衛の騎士の姿があった。
男は、息を極限まで殺し、筒を口元に構えた。
塗られているのは、一滴でも血に混じれば数秒で全身の神経を麻痺させ、心肺を停止させる即効性の猛毒。
男は、標的の急所である首筋へと狙いを定め、確実に引き金を引く(息を吹き込む)その一瞬の隙を、静かに待ち続けた。
***
一方の執務室の中。
エルリアは、目の前に積み上げられた慈善事業の書類と裏帳簿の束を、凄まじい速度で処理していた。
(……よし。これで明日の商会への手配と、資金の還流の計算は完了ね。……ん?)
エルリアは、羽ペンを置こうとして、ふと帳簿の一つの数字のズレに気づいた。
(待って、この項目のマージン、計算が一桁間違ってるじゃないの!? これじゃあルカの来月の教材費が足りなくなるわ!)
一デナリの損も許さないエルリアの脳内で、凄まじい警鐘が鳴り響く。
金銭的な危機感に駆られたエルリアは、確認用の別資料を棚から取るため、椅子から「ガタッ」と、ひどく突発的に、勢いよく立ち上がった。
まさに、その瞬間だった。
ヒュッ、と。
風を切る、耳障りな微かな音がした。
「え?」
本来ならば、座って静止していたエルリアの無防備な首筋に、深々と突き刺さるはずだった必殺の凶器。
だが、エルリアが「計算ミスに焦って急に立ち上がった」ことによって、暗殺者の完璧な狙いは致命的に逸れた。
鋭い刃先が、立ち上がったエルリアの二の腕の薄い布地を切り裂き、白い肌を浅くかすめて、背後の壁に突き刺さった。
「きゃっ……!?」
二の腕に走った焼けるような鋭い痛みに、エルリアが短く悲鳴を上げる。
「エルリア様!!」
護衛の騎士が、凄まじい速度でエルリアを庇うように飛び込み、同時に剣を抜いて窓の外へと鋭い視線を向けた。
だが、そこにはすでに誰の姿もなかった。
放った瞬間に結果を確認せず、即座にバルコニーから身を投げて逃亡するという、プロの暗殺者による完璧な一撃離脱。
「曲者だ!! 警報を鳴らせ! 医療班を呼べ!!」
護衛の騎士が、廊下に控える他の近衛たちに向けて怒号を上げる。
瞬く間に、王宮内にけたたましい警鐘が鳴り響き始めた。
(……え? なに? 今の……)
状況が呑み込めないエルリアだったが、かすり傷のはずの二の腕から、急速に嫌な感覚が全身に広がっていくのを感じた。
指先から感覚が消え、血の気が引き、心臓が早鐘のように狂った音を立て始める。
(嘘、毒……!? 足に力が入らない……!)
「エルリア様! しっかりなさってください!」
騎士が慌ててエルリアの体を支えようとするが、彼女の体は糸の切れた人形のように、力なく床へと崩れ落ちた。
視界が、急速に暗く、狭くなっていく。
(嫌だ。死にたくない。私が死んだら、ルカはどうなるの!? あんなに可愛くて優しい私の天使を一人残して、こんなところで死ぬわけには……!)
ルカの泣き顔が脳裏をよぎり、強烈な死の恐怖がエルリアの心を支配する。
だが、致死性の猛毒の回りは容赦なく、彼女の意識を深い闇の底へと引きずり込んでいった。
***
王宮に警報が響き渡った直後。
別の棟で国王との謁見を終えたジークヴァルトは、血相を変えて自身の執務室へと駆け込んできた。
「殿下! 窓の外から何者かによる狙撃が……! 小型の毒矢です!」
報告を行おうとする近衛の言葉など、ジークヴァルトの耳には入らなかった。
彼の視界に飛び込んできたのは、執務室の床に倒れ、顔面を紙のように蒼白にして、苦しげに浅い呼吸を繰り返しているエルリアの姿だった。
その瞬間。
ジークヴァルトの頭の中で、何かが決定的に、ブチッと音を立てて千切れた。
「エルリア!!」
彼は、自身の立場も、周囲の視線もすべてを投げ捨てて床に膝をつき、エルリアの体を抱き起こした。
傷口から流れる血の少なさと、急速に全身へ回っていく毒の症状。
「殿下、かすり傷ですが、強力な麻痺毒が……!」
「王室の侍医をすべて叩き起こせ!! 間に合わなければ全員の首を刎ねる!!」
ジークヴァルトは、周囲の護衛たちが思わず震え上がるほどの、凄絶で、そして悲痛な怒号を上げた。
彼は、腕の中の華奢な体を、まるで壊れ物を扱うように、固く、固く抱きしめる。
「頼む、逝かないでくれ……! エルリア!」
普段の完璧で冷徹な王太子の面影は、そこには微塵もなかった。
あるのはただ、愛する女の命がこぼれ落ちていくことを本気で恐れる、一人の男の狂おしいまでの絶望だけだった。
***
目も眩むほど豪奢な、天蓋付きのベッド。
侍医たちの懸命な処置と、王室の薬物庫のあらゆる解毒薬が投入された結果、エルリアは奇跡的に一命を取り留めた。
微かなランプの灯りの中、エルリアは重い瞼をゆっくりと開いた。
(……生きてる。私、生きてるわ……ルカ……!)
死の恐怖の余韻で、体が微かに震えていた。
指先を動かそうとすると、自分の右手が、誰かの大きな両手によって、痛いほど強く握りしめられていることに気づいた。
傍らへ視線を向ける。
そこには、ベッドの端に膝をつき、エルリアの手を額に押し当てているジークヴァルトの姿があった。
漆黒の髪は乱れ、目の下には深い隈ができている。
何よりも、その整った顔には、かつて見たことがないほどの憔悴と、極限の取り乱し方が刻み込まれていた。
エルリアが微かに指を動かしたことに気づき、彼が弾かれたように顔を上げる。
「エルリア……! 気がついたか……! ああ、よかった……本当によかった……!」
ジークヴァルトの声は、ひどく掠れ、震えていた。
彼は、安堵のあまり泣き出しそうな顔で、エルリアの手をさらに強く握りしめる。
(……なんだ。いつもは余裕で腹黒いくせに、こんな、血の気を引かせて必死な顔をするのね)
エルリアは、ぼんやりとした頭で、彼を見つめた。
(それに……この異常な取り乱し方。ただの有能な駒への執着なんかじゃない。この人、本気で私を……)
その瞬間、エルリアの胸の奥で、カチリと何かの歯車が噛み合った。
彼が自分に向けている感情が、打算でも支配欲でもない、剥き出しの『本気の愛情』であることに、気づいてしまったのだ。
同時に、彼が握る手の不器用な力強さと、自分を失うことを本気で恐れてくれているその姿に。
打算抜きの純粋な「安堵」と、どうしようもないほどの「頼もしさ」を感じてしまい、エルリアの胸が柄にもなく強く高鳴った。
(……っ! 駄目よ、私! なにを柄にもなくときめいてるの!)
エルリアの脳内で、凄まじい警鐘が鳴り響く。
(これを認めて受け入れてしまえば、私は彼に完全にほだされて、『ルカの傍を離れて王族に嫁ぐ』という最悪の未来を自ら受け入れることになってしまうわ! 私の人生計画が崩壊する!)
エルリアは、芽生えかけた感情から必死に目を逸らし、自己防衛のための強固な壁を構築し始めた。
(これは毒の副作用よ! 死にかけたことによる吊り橋効果よ! 絶対安静にしてやる! これ立派な労災よ! 危険手当と慰謝料と精神的苦痛の代償を、相場の百倍にして国庫に請求してやるんだから! この胸のドキドキも、ただの毒の副作用なんだからね!)
内心で全力の現実逃避と算盤弾きを行いながら、エルリアは表情筋を完璧にコントロールし、儚く、気丈な「悲劇の聖女」の微笑みを浮かべた。
「殿下……そのような、お痛ましいお顔をなさらないでくださいませ……」
エルリアは、微かな声で、慈愛に満ちた言葉を紡ぐ。
「わたくしは、神の御加護により無事ですわ。……これくらいのお怪我で、民のためのお役目を投げ出すわけにはまいりませんもの。殿下の御心を煩わせてしまい、本当に申し訳ございません……」
どこまでも自分を犠牲にし、公務と王太子を案じる、完璧な聖女の建前。
だが、その完璧な自己犠牲の言葉は、今のジークヴァルトにとっては、彼女を失うかもしれないという恐怖をさらに煽る劇薬でしかなかった。
「……ああ」
ジークヴァルトは、静かに、だが重く熱を帯びた声で告げた。
「君のその気高き心には、いつも頭が下がる」
彼は、エルリアの手に自身の頬をすり寄せ、金の瞳で彼女を真っ直ぐに、狂おしいほど熱烈に見つめた。
「だが、もう十分だ。……これ以上、君を危険に晒すことは、私が絶対に許さない」
ジークヴァルトは、エルリアの手をさらに強く握り締め、実質的なプロポーズと同義の、絶対的な宣言を突きつけた。
「君の未来も、命も、すべて私が預かる。……だからもう二度と、私の側から離れるな。誰にも、指一本触れさせない」
その狂気的なまでに重い愛の告白と、一切の逃げ場を許さない独占の宣言。
エルリアは、自らの建前が完全に裏目に出たことと、彼からの本気の感情によって、自分の退路が完全に断たれてしまったことを悟るしかなかった。




