第30話:黄金の鳥籠からの帰還と、聖女の再建計画
目も眩むほど豪奢な、天蓋付きのベッド。
最高級のシルクのシーツに包まれたまま、エルリアは天井の金糸の刺繍をただ虚無の瞳で見つめていた。
王妃イザベラからの、事実上の「次期王妃確定(逃亡不可)」の宣告。
一夜にして国軍の兵站を確保したという彼女の無自覚な大功績は、王宮における彼女の存在価値を、もはや手放せない絶対的なものへと押し上げてしまっていた。
(終わった……。私の、ルカと一緒に暮らす平穏な未来が……)
真っ白に燃え尽きた灰のような状態のまま、エルリアはしばらく身動き一つしなかった。
だが。
数分後、彼女の瞳の奥に、チロチロと小さな、しかし決して消えないドス黒い炎が再び灯り始めた。
(……落ち着きなさい、私。ここで諦めたら、すべてが王太子の思い通りになってしまうじゃないの)
エルリアは、ゆっくりと深い深呼吸をした。
(そもそも、『円満破局』は半年スパンの中長期計画だったはずよ。今回の事態で少し疲労したからといって、あの場での思いつきで過労をアピールし、計画を前倒ししようとしたのが最大の失敗だったのよ。相手は王太子と王妃よ。そんな行き当たりばったりが通用する相手じゃなかったわ)
持ち前の冷徹なそろばん脳が、急速に再起動していく。
(ここは一旦、仕切り直しよ。殿下の『過保護な幽閉』から物理的に脱出するために、まずは完璧に回復した悲劇の聖女に戻るのよ!)
エルリアが力強く決意を固めた、まさにその時。
「……ん」
ベッドの傍らの椅子で、微睡んでいたジークヴァルトが身じろぎをし、ゆっくりと目を開けた。
金の瞳が、瞬時にエルリアを捉える。
「エルリア……! 身体の具合はどうだ。どこか痛むところはないか?」
彼が慌てて身を乗り出し、エルリアの手を痛いほど強く握りしめる。
その顔に、一国の王太子とは思えないほどの切実な焦燥が浮かんでいたのを確認したエルリアは、瞬時に「春の陽だまりのような微笑み」を唇に貼り付けた。
「ジークヴァルト様……。ご心配をおかけして、本当に申し訳ございません」
エルリアは、握られた手をそっと握り返し、潤んだ瞳で彼を見つめた。
「ですが、不思議なことですわ。貴方様がずっと傍で見守ってくださったおかげでしょうか……わたくし、嘘のように体が軽くなりましたの。もう、どこも痛くありませんわ」
「本当か……? だが、まだ無理は……」
「いいえ。殿下の海より深い御慈悲のおかげで、すっかり元気をいただきましたわ」
エルリアは、ゆっくりとベッドの上に上体を起こし、完璧な聖女の凛とした姿勢を見せた。
「それに……ここは、殿下の神聖な私室。いくら看病のためとはいえ、未婚の身であるわたくしがこれ以上留まることは、王室の風紀を乱すことになってしまいますわ。それは、殿下の名誉にも傷をつけることになります」
(さあ、ぐうの音も出ない正論よ! いくら貴方でも、次期国王として王室の風紀と名誉を盾にされたら、反論できないでしょう!)
ジークヴァルトは、少し不満げに眉をひそめた。
だが、彼女の顔色が確かに良くなっていることと、これ以上彼女の評判(世間体)に傷をつけるわけにはいかないという理性が働き、深く息を吐いた。
「……わかった。だが、まだ公務への復帰は許さない。自室で絶対安静にしていることが条件だ」
「はい、殿下。お心遣い、感謝いたしますわ」
こうしてエルリアは、完璧な正論を武器に、息の詰まるような「黄金の鳥籠(王太子の私室)」からの物理的な脱出に成功したのだった。
***
「お帰りなさいませ、エルリア様。お加減はよろしいのですか?」
自身の客室に戻ったエルリアを迎えたのは、専属メイドのリーゼだった。
「ええ、ありがとうリーゼ。すっかり良くなりましたわ」
エルリアがソファに腰を下ろすと、リーゼが銀のトレイに乗った一通の手紙を差し出した。
「アシュレイ子爵邸……弟君からのお手紙が届いております」
「ルカから!?」
エルリアの瞳が、途端に「溺愛する姉」の輝きを放つ。
すぐに手紙を受け取り、丁寧に封を切って中身に目を通し始めた。
(ああ、私の天使は無事かしら。戦火の噂を聞いて、不安で泣いていたりしないかしら……)
だが、手紙の文面を追うにつれて、エルリアの顔から急速に血の気が引いていった。
『大好きなお姉様。お加減はいかがですか? 僕はとても元気です。実は最近、殿下から毎日、王都で一番有名な洋菓子店のケーキと、僕が欲しがっていた希少な学術書の差し入れが届くのです。さらに、殿下の専属騎士様が、毎日のように僕の護衛として屋敷の周りを固めてくれています。殿下は本当に優しくて、僕たちを気遣ってくださる、最高のお義兄様ですね!』
「…………」
エルリアは、手紙を持ったまま、完全に石化した。
(……私の天使が、完全に買収されてる!)
エルリアの脳内で、凄まじい警鐘が鳴り響く。
(王都で一番のケーキ!? 希少な学術書!? おまけに専属騎士の護衛!? 護衛ってそれ、どう考えても『私が逃げ出さないための人質としての監視』じゃないの!! 外堀どころか、私の退路が物理的にコンクリートで塞がれてるわ!!)
実家の家族まで完全に包囲され、「最高のお義兄様」として洗脳されている現状。
エルリアは、ジークヴァルトの用意周到で残酷なまでの独占欲に、本気の悪寒を覚えた。
***
その日の夜。
エルリアは、静まり返った自室のデスクに向かい、一人で新しい計画書を練り直していた。
(ルカが完全に包囲されている以上、今の段階で私が強引に身を引けば、ルカの安全や未来の特待生枠が脅かされる危険があるわ。あの腹黒王太子なら、恩を盾にしてどんな報復をしてくるかわからないもの)
羽ペンを握る指先に、力がこもる。
(虚弱体質アピールでの円満破局は、何もない平時に、少しずつ『公務の重圧と負担で痩せ細っていく』という長期戦に切り替えるわ。時間をかけて、周囲に『やっぱり子爵令嬢には荷が重かったのだ』と納得させるのよ)
さらに、エルリアの冷徹な算盤は、別の角度からの『正当な出口』も模索し始めていた。
(並行して、別のルートも構築しなきゃ。例えば……ジークヴァルト様にとって、政治的メリットが絶大な『大国との政略結婚』。これを、私が最高顧問という立場から、国益のためにと進言していくのよ)
彼女自身が身を引くことが「国家の利益のため」であるというロジックを作れば、王妃イザベラも納得させやすいはずだ。
(絶対に逃げ切ってみせるわ。私のルカとの平穏な未来のために!)
エルリアは、決して折れない守銭奴の闘志を燃やし、分厚い計画書にペンを走らせ続けた。
***
数日後。
「絶対安静」の期間を終え、エルリアはついに公務へと復帰した。
「失礼いたします、ジークヴァルト様。本日からまた、慈善事業の進捗をご報告させていただきますわ」
いつものように完璧な微笑みを浮かべ、王太子宮の執務室の扉を開けたエルリア。
しかし。
室内に足を踏み入れた瞬間、彼女の足がピタリと止まった。
「……殿下。これは、いったい……?」
エルリアの視線の先。
広大な執務室の奥にあるジークヴァルトの巨大な執務机。
そのすぐ真横に、ピッタリとくっつくような形で、見慣れない立派なデスクが並べられていたのだ。
装飾の施されたそのデスクの上には、エルリアが扱う慈善事業の書類の束が、すでに綺麗に整頓されて置かれている。
ジークヴァルトは、書類から顔を上げ、さも当然というような顔で言い放った。
「見ての通りだ。君の新しい作業机だよ」
「わたくしの……? ですが、最高顧問の作業室は、別の階に用意されているはずでは……」
「却下した」
ジークヴァルトは、冷徹だが、どこか甘い熱を帯びた声で答えた。
「倒れたばかりの病み上がりの君を、私の目の届かない遠くの部屋で働かせるわけにはいかないからな。これからは、ここで私の横で作業をしろ」
「…………っ」
(近い! 近すぎるわよ! 肩が触れ合いそうな距離じゃないの!)
エルリアは、鉄壁の笑顔の下で、盛大に冷や汗を流した。
(これじゃ、作業をサボって休憩することも、商会からの中抜きの手数料を計算する裏帳簿を広げることもできないじゃない! 完全に監視されてるわ!)
エルリアが過労で倒れたという事実(自作自演)は、結果として、ジークヴァルトの異常な過保護と独占欲を完全に固定化し、悪化させてしまっていたのだ。
「さあ、こちらへ。仕事が山積みだぞ」
「……はい、殿下。お心遣い、感謝いたしますわ」
居心地の悪さと胃の痛みに耐えながら、エルリアは王太子の真横という「特等席(監視席)」へと、重い足取りで向かうしかなかった。
***
一方、その頃。
王国との国境を接する、軍事大国ガルディアの最前線陣地。
重々しい天幕の中で、逃亡したアルベルト公爵と、レオンハルト将軍が軍議図を睨みつけていた。
「どういうことだ、公爵」
レオンハルト将軍が、苛立ちを隠せない低い声で唸る。
「貴様の情報によれば、王国の東部防衛線への補給路はズタズタであり、圧倒的な物量で押し潰せるはずだった。だが……現実はどうだ。王国軍の防衛線は、奇跡的とも言える完璧な兵站によって維持され、死守されているではないか」
ガルディア軍の猛攻を凌いでいるのは、魔法でも超常的な力でもない。
純粋に、前線の兵士たちへ滞りなく届けられる、食料、武器、医療品といった「圧倒的な物資の供給力」の賜物だった。
アルベルト公爵は、忌々しげに舌打ちをした。
「……あのアシュレイ子爵令嬢だ」
「子爵令嬢だと?」
「そうだ。あの女が、事前に王都の商人たちを完全に掌握し、完璧な兵站の仕組みを作り上げていたのだ。……だが、王都に潜伏させているスパイからの報告によれば、彼女は現在、その無理が祟って過労で倒れ、病床にあるらしい」
アルベルトの瞳に、暗い殺意と、好機を見出した狡猾な光が宿る。
「彼女が作り上げた補給システムは、今も商人たちの手で自動的に稼働している。だが、システムの要である彼女を完全に排除しなければ、補給線を破壊しても持ち直すだろう。……どうにかして彼女を仕留めなければならない」
レオンハルト将軍は、静かに頷き、凶悪な笑みを浮かべた。
「なるほど。標的が病床に伏せっているというのなら、暗殺には絶好の好機というわけだ。……精鋭の工作部隊を動かそう」
それは、現実的な戦闘能力と隠密技術を極めた、暗殺と拉致を専門とするプロの工作員たちだ。
「標的は、王国最強の策士にして兵站の要、エルリア・ヴァン・アシュレイ。……生かしてはおかん」
しかし、彼らはまだ知らない。
標的であるエルリアがすでに完全回復しており、王宮の中枢、『第一王太子・ジークヴァルトの執務室の真横』にいるという事実を。
病床の弱った獲物を狩るつもりが、この国で最も危険で過保護な男のテリトリーへ、そうとは知らずに足を踏み入れようとしている工作員たち。
不穏な影が、王宮に向けて静かに動き出していた。




