第29話:過保護な幽閉と、病弱アピールの完全なる裏目
柔らかな感触に包まれながら、エルリアはゆっくりと重い瞼を開いた。
視界に飛び込んできたのは、見慣れた客室の質素な天井ではなく、繊細な金糸の刺繍が施された、豪奢な天蓋だった。
ふわりと香る、最高級の香の匂い。
そして、自分の体を包み込んでいるのは、雲のように軽く、それでいて温かい極上のシルクのシーツである。
「……え?」
エルリアは、かすれた声で呟き、わずかに首を動かした。
(……え? ここどこ? なんで私、こんな金貨百枚はしそうなシルクのシーツに包まれてるの?)
昨夜の記憶が、断片的に蘇ってくる。
商人たちを動かして膨大な物資を手配し、その疲労と睡眠不足を利用して、ジークヴァルトの前で「過労の聖女」として倒れ込んだはずだ。
(そうよ! 『国を思って身を粉にして倒れた悲劇の聖女』を演出して、王妃の激務には耐えられないってアピールする完璧な作戦だったじゃない!)
だが、エルリアが思考を巡らせようとしたその時。
「……エルリア!」
ベッドの傍らから、切羽詰まった低い声が響いた。
驚いて視線を向けると、そこには、椅子に腰掛けたまま身を乗り出しているジークヴァルトの姿があった。
漆黒の髪はわずかに乱れ、目の下にはうっすらと疲労の色が滲んでいる。
徹夜で看病していたことは、その憔悴した顔を見れば一目でわかった。
彼が、エルリアの目覚めに気づき、安堵に顔を歪めて彼女の手を痛いほど強く握りしめる。
「目が覚めたか……! ああ、よかった……!」
「じ、ジークヴァルト様……?」
エルリアは、瞬時に「儚く弱り切った聖女」の仮面を被り、潤んだ瞳で彼を見上げた。
「わたくし、ご迷惑を……申し訳ございません。ここはいったい……」
「ここは私の私室だ。君が倒れた後、他の者に任せるわけにはいかず、ここに運ばせた。……君は丸一日、目を覚まさなかったのだぞ」
(なんで殿下の私室に連れ込まれてるの!? 私は『激務に耐えられないから実家に帰ります』ってシナリオに進めたいのに、なんでこんな過保護に監禁されてるの!?)
エルリアの脳内で、けたたましい警鐘が鳴り響く。
「そのような……殿下の神聖な私室を汚してしまうなんて。わたくし、すぐに自分の部屋へ……っ」
エルリアが身を起こそうとした瞬間、ジークヴァルトの大きな手が彼女の肩をそっと、しかし絶対に逃がさない強さで押さえた。
「駄目だ。君は絶対安静だ。少しでも無理をすれば、私が許さない」
その声には、有無を言わさぬ王太子の威厳と、異常なほどの執着が入り混じっていた。
至近距離で見つめてくる金の瞳が、エルリアを金縛りのように縛り付ける。
***
それから間もなくして、王宮の侍医が診察のために私室へとやってきた。
彼は保守派閥に属する医者であり、次期王妃には自派閥の令嬢を据えたいという思惑を持っているはずだ。
(さあ、保守派の医者よ! 私のこの最悪の顔色と疲労を見て、『この虚弱体質では世継ぎを産むことも王妃の激務も不可能です』って殿下に報告しなさい! そうすれば、私の円満破局計画が進むわ!)
エルリアは、ベッドの上でフラフラと弱り切った様子をこれでもかとアピールし、浅い呼吸を繰り返した。
「いかがですか、先生……。わたくし、体が鉛のように重くて……」
医者はエルリアの脈を取り、顔色を確認すると、深刻そうな顔で口を開きかけた。
「これは……過度の疲労と心労が重なっております。このままでは、将来のお体に――」
医者が「悪影響がある」と言いかけた、まさにその瞬間だった。
「いいか」
部屋の温度が、一瞬にして絶対零度まで下がった。
壁際で腕を組んでいたジークヴァルトが、氷点下の殺気を放って医者を睨みつけていた。
「彼女の体に、少しでも後遺症が残るようなことがあれば、お前たちの首が飛ぶと思え。王室の薬物庫をすべて開け放ってでも、完璧に健康な状態へ治癒させろ。……できるな?」
「ひぃっ! は、はいぃぃっ!」
保守派の医者は、王太子の放つ本物の殺気とプレッシャーに完全に震え上がり、床に額を擦りつけんばかりに平伏した。
「も、もちろんでございます! 栄養と休息を徹底し、最高級の滋養薬を用いれば、すぐに健康を取り戻せます! 虚弱体質などということは決してございません! すぐに完治いたします!」
医者は、自らの命を守るために、虚弱体質アピールを全力で、しかも声高に否定してしまった。
(ちょっと待ってええええ!! 私の出口戦略が! 権力の暴力で医者の診断結果が完全にねじ曲げられたわ!? 保守派のプライドはどうしたのよ、少しは抵抗しなさいよ!)
エルリアは、絶望で目の前が真っ暗になるのを感じた。
円満破局のための「病弱アピール」が、ジークヴァルトの異常な過保護によって物理的に粉砕された瞬間だった。
***
絶望するエルリアをよそに、部屋の扉が慌ただしく叩かれた。
「殿下! 急報でございます!」
執事のハインツが、かつてないほど興奮した面持ちで駆け込んできた。
「東部戦線からの早馬が到着しました! ガルディア軍が予定通り国境への侵攻を開始しましたが……我が王国軍は、防衛線の完全な死守に成功いたしました!」
「なんだと?」
ジークヴァルトが目を見開く。
「はい! アシュレイ最高顧問が王都の商人たちを動かして手配された、あの膨大な兵站物資が、間一髪で前線に到着したのです! 食料、毛布、医療品のすべてが完璧に揃い、前線の士気は最高潮です! ガルディア軍は物資不足を突くつもりが完全に出鼻を挫かれ、現在撤退を開始しております!」
ハインツの報告に、ジークヴァルトは静かに、深く息を吐き出した。
そして、ベッドで横たわるエルリアの方へとゆっくりと振り返った。
その金の瞳には、深い愛と、ほとんど神格化に近い尊敬の念が込められていた。
ジークヴァルトはベッドの端に腰を下ろし、エルリアの頬を大きな手で優しく撫でた。
「エルリア……。君が無理をしてまで動かした物資が、この国を救ったのだ。君のその慈悲と知略がなければ、今頃東部は火の海になっていた」
「殿下……」
エルリアは、エメラルドグリーンの瞳に涙を浮かべ、彼の手をそっと握り返した。
「民の命が守られて、本当によかったですわ……。わたくしの苦労など、民の笑顔に比べれば何の意味もありませんもの」
(やったああああ! これで防衛線は死守された! ルカのいる王都の安全と、物価の安定は完全に守られたわ! 商人たちへの支払いも国庫から下りるし、私の完璧な勝利よ! これで心置きなく実家に帰れる……はずなのに、なんでこの人、こんな熱烈な目で私を見てるの!? ちょっと、顔が近すぎるわよ!)
エルリアが「ルカの安全とコスパ」のためだけに行った猛烈な経済活動が、結果的に国家の危機を救う大功績となり、ジークヴァルトの彼女への執着を、もはや誰にも止められないレベルにまで引き上げてしまったのだ。
「君は、私の誇りだ。……誰にも、絶対に渡さない」
ジークヴァルトのその重すぎる囁きに、エルリアは聖女の微笑みを貼り付けたまま、内心で盛大に冷や汗を流していた。
***
その後、ハインツが退室すると、ジークヴァルトは自ら銀のトレイを持ってベッドに戻ってきた。
トレイの上には、芳醇な香りを漂わせる温かいスープが入った磁器の器が乗っている。
「最高級の滋養強壮に効く食材を、特別に煮込ませたものだ。さあ、私が食べさせよう。口を開けろ」
ジークヴァルトは、当然のように銀の匙でスープを掬い、エルリアの口元へと運んできた。
「そ、そのような! 殿下にそのようなことをさせるわけにはまいりません! わたくしは自分で……」
「駄目だ。お前は絶対安静だと、医者も言っていただろう」
王太子自らによる、逃げ場のない『あーん』の強要。
エルリアは、抵抗することもできず、震える口を開けてそのスープを飲んだ。
濃厚な旨味と、体が芯から温まるような薬膳の香りが口いっぱいに広がる。
(美味しい! 美味しいけど! これ絶対、一杯で銀貨十枚は飛んでる味がする! こんな高級食材をペースト状にするなんて贅沢すぎるわ! 自分で食べるから、その分の現金をちょうだい! ていうか、なんでこの腹黒王太子が、こんな甘ったるい顔で私の世話を焼いてるのよ!? 居心地が悪すぎて胃が痛いわ!)
エルリアの心臓は、ジークヴァルトの至近距離での看病により、バクバクと狂ったように鳴り続けていた。
彼女は必死に、この動悸を「高価な食事に対する緊張感」だと思い込もうとしていた。
「どうだ、美味しいか?」
「ええ……。殿下の御心が染み渡るようで、涙が出そうですわ」
「そうか。なら、全部食べるんだ」
甘く、そして逃げられない幽閉空間で、エルリアはただひたすらに、金貨の味がするスープを飲み込むしかなかった。
***
数時間後。
ジークヴァルトが国王への報告のために一時的に私室を空けた、その隙だった。
「気分はいかがかしら、エルリア」
静かな足音と共に私室を訪れたのは、王妃イザベラだった。
エルリアは慌てて身を起こそうとしたが、イザベラは扇でそれを制し、ベッドの横に立った。
彼女の冷徹な金の瞳は、面白そうにエルリアを見下ろしていた。
「見事だったわ、エルリア。まさか、あの国庫が空の絶望的な状況から、自分の権限と商人たちを動かして、一夜にして国軍の兵站を整えてみせるなんて」
イザベラの言葉には、純粋な感嘆と、底知れぬ評価が含まれていた。
エルリアは、そっと目を伏せて謙遜する。
「すべては神のお導きですわ。わたくしはただ、民が飢えることのないよう祈り、動いただけに過ぎません」
その完璧な聖女の建前を聞いて、イザベラは扇で口元を隠し、くすりと笑った。
「ふふっ。円満に身を引こうと、過労を計算したのかもしれないけれど……残念だったわね」
イザベラの言葉に、エルリアの肩がビクリと跳ねた。
「これほどの国難を、たった一人で救った手腕を持つ貴女を……この王家が、手放すわけがないでしょう?」
それは、事実上の「次期王妃確定」であり、「逃亡不可」の宣告だった。
イザベラは、エルリアの顔から血の気が引いていくのを楽しげに観察しながら、優しく言葉をかけた。
「ゆっくり休みなさい。……未来の、私の娘」
王妃が静かに退室していく。
扉が閉まる音が、エルリアには、牢獄の鍵が完全にかけられた音に聞こえた。
(終わった……。私の、ルカと一緒に暮らす平穏な未来が、完全に終わった……!)
エルリアは、豪華な天蓋付きベッドの中で、真っ白に燃え尽きていた。
円満破局計画が、自身のあまりの有能さと、守銭奴ゆえの猛烈な行動力によって、自ら退路を断つ結果に終わってしまったのだ。
「誰か……嘘だと言って……」
誰も答えてくれない黄金の鳥籠の中で。
聖女の絶望と、王太子の甘い過保護な幽閉の幕が、今ここに完全に下ろされたのだった。




