第28話:迫る戦火と、聖女の過酷な経済防衛戦
王宮の最も奥に位置する、重厚な扉に閉ざされた会議室。
本来ならば、静寂と知的な議論が交わされるべきその空間は、今、蜂の巣をつついたような騒然とした空気に包まれていた。
「アルベルト公爵が、国境を越えてガルディアへ逃亡しただと!?」
円卓の上座で、国王フリードリヒが信じられないというように声を荒げた。
「はい、陛下。……さらに恐るべきことに、公爵は隣国ガルディアと長年にわたり内通しており、我が国の防衛の機密情報と、莫大な資金を持ち出したと見られます」
報告を行う近衛騎士団長の声は、苦渋に満ちていた。
会議室の空気が、一瞬にして凍りつく。
長年、国境で小競り合いを続けてきた軍事大国ガルディア。
そこに、自国の防衛の急所を知り尽くした筆頭公爵が寝返り、莫大な軍資金まで手渡したのだ。
これが意味することは、ただ一つ。
「……戦争になるな」
漆黒の軍服に身を包んだ第一王太子ジークヴァルトが、低く、地を這うような声で呟いた。
「直ちに東部国境へ軍を派遣し、防衛線を固める必要があります。公爵が工作で遅延させていた水路工事の周辺は、現在最も脆弱な状態だ。そこを突かれる前に、大軍で塞がねばなりません」
ジークヴァルトの冷静で的確な判断に、国王も宰相も深く頷いた。
「よし、すぐに軍の編成を! 東部へ全軍を向かわせよ!」
国王が号令を下そうとした、まさにその時だった。
「お、お待ちください、陛下!! 殿下!!」
円卓の末席に座っていた財務大臣が、紙のように真っ青な顔をして立ち上がった。
「軍を動かすことは……現在、不可能です!」
「なんだと? 理由を言え」
ジークヴァルトが鋭い金の瞳で睨みつけると、財務大臣は震える手で分厚い帳簿を掲げた。
「国庫の流動資産が……手金が、圧倒的に不足しているのです! 公爵とその派閥の貴族たちが、長年にわたって巧妙な不正融資と資金の持ち逃げを行っていた影響で、現在、国庫には大軍を動かすための急な『軍資金』がありません!」
会議室に、絶望的な沈黙が落ちた。
「大軍を東部へ派遣し、そこで長期の防衛戦を行うとなれば、膨大な兵糧、テント、毛布、そして医療物資が必要です。これらを王都周辺の商人たちから急遽買い付けるための『現金』が、どうやっても足りないのです……っ!」
戦争の勝敗は、前線の兵士の強さだけでは決まらない。
彼らに飯を食わせ、武器を届けるための『兵站』が崩壊すれば、どんな大軍も数日で餓死し、敗走することになる。
ジークヴァルトは、ギリッ、と奥歯を噛み締めた。
(アルベルト公爵め……! 自分が逃亡した後の王国の迎撃能力を削ぐために、ここまで計算して資金を枯渇させていたというのか!)
ジークヴァルトの拳が、怒りで白く震えていた。
***
同じ頃。
エルリアに与えられた客室では、専属メイドのリーゼが、王宮内で飛び交う非常事態の報告をエルリアに伝えていた。
「……というわけで、公爵の逃亡により、ガルディアとの戦争は不可避かと。しかし、急な物資の買い付け資金がなく、軍の派遣が遅れているとのことです」
リーゼは淡々と、しかし事態の深刻さを隠せない声で言った。
それを聞いたエルリアは、そっと両手を胸の前で組み、エメラルドグリーンの瞳に大粒の涙を浮かべた。
「ああ、なんという悲劇でしょう……。罪なき民が戦火に巻き込まれ、恐怖に震えることになるなんて……神は、なぜこのような試練をお与えになるのでしょうか……っ」
その姿は、国を憂うあまり悲嘆に暮れる、完璧な悲劇の聖女そのものだった。
だが。
エルリアの脳内の算盤は、悲嘆どころか、かつてないほどの業火となって燃え盛っていた。
(冗談じゃないわ!! 戦争なんて、何一つ生産性のないコスパ最悪の赤字事業じゃないの!! おまけに軍需物資が不足して王都の物価が高騰したら、私とルカの生活費が跳ね上がるじゃない!!)
エルリアの思考は、国家の存亡というよりも、自身の生活と財産の危機に向かって猛烈に回転し始める。
(それに、万が一防衛線が突破されて、この王都にまで攻め込まれたらどうなるの!? 私の最愛のルカの安全が脅かされるじゃない!! ルカの平和な学園生活と、あの天使の笑顔を戦争の炎で焼くなんて、絶対に、絶対に許さないわ!!)
「悲劇のヒロイン」を演じて泣いている場合ではない。
ここで軍が動けずガルディアに蹂躙されれば、ルカの未来も実家の財産もすべて終わる。
(軍が動けないなら、私が動かすしかないわね。私の持てるすべての権限を使って、この赤字事案を早期解決(圧勝)させてやるわ!)
エルリアは、涙をハンカチでそっと拭い、凛とした声でリーゼに命じた。
「リーゼ。今すぐ、わたくしと懇意にしている王都の商人たち……マリス商会をはじめとする大商会の顔役たちを、サロンへ緊急招集してくださいな」
「エルリア様? いったい、何を……」
「民を救うための、お祈りの準備ですわ」
その瞳に宿る冷徹な商人の光に、リーゼは背筋にゾクッとした悪寒を感じながらも、「かしこまりました」と一礼して走り出した。
***
王宮のサロン。
本来は貴族たちが優雅にお茶を楽しむ場所が、今は臨時の商談室として物々しい空気に包まれていた。
急な呼び出しを受けて集まった王都の商人たちは、皆一様に不安げな顔をしている。
彼らもまた、戦争の噂を聞きつけ、経済の先行きに怯えていたからだ。
彼らの前に現れたエルリアは、今にも零れ落ちそうな涙を瞳に湛え、悲痛な面持ちで彼らに語りかけた。
「皆様……。急なお呼び立てをお許しください。ですが、わたくしは居ても立っても居られなかったのです」
エルリアは、震える声で懇願する。
「戦禍によって、罪なき東部の民が飢えと寒さに苦しむことなど、わたくしには耐えられません。どうか、皆様のお力で、王都周辺にあるありったけの穀物、保存食、毛布、そして医療品を集め、東部の民のもとへ届けていただけないでしょうか……!」
それは、聖女の慈悲に満ちた、あまりにも純粋な願いだった。
商人たちも、その美しい涙に深く同情し、胸を打たれた。
「聖女様のお心、我々も痛いほどわかります。ですが……」
マリス商会の顔役が、苦渋の表情で口を開く。
「それほど急な、軍隊並みの大量手配となると、莫大な資金が必要になります。我々も商売ですので、王室からの確実な支払いが保証されなければ、これほどのリスクは背負えません……」
いくら聖女の頼みとはいえ、彼らも商会を背負う身だ。
アルベルト公爵の策により、国庫が空だという噂が流れている今、タダで物資を提供するわけにはいかない。
するとエルリアは、そっと胸に手を当て、女神のように慈愛に満ちた微笑みを浮かべた。
「皆様のそのご不安、当然のことですわ。ですが、どうかご安心くださいませ」
エルリアは、持参していた革の鞄から、一枚の分厚い羊皮紙を取り出し、そっとテーブルの上に置いた。
「資金につきましては、神の導きによる『贖罪金』と、国家慈善事業の予算にて、わたくしが『確実にお約束』いたしますわ」
商人たちの視線が、その羊皮紙に釘付けになる。
そこには、王宮財務省の正式な印と、そして『国家慈善事業・最高顧問』としてのエルリアの決裁印が、これでもかと力強く押されていた。
金額の欄には、彼らが要求する以上の、目も眩むような莫大な数字が書き込まれている。
(公爵に加担した取り巻き令嬢たちの実家から、合法的かつ強制的に差し押さえた『慰謝料(贖罪金)』の総額よ。これだけでも莫大な額だけど、そこに慈善事業の予算も全額ブチ込んで、絶対に焦げ付かない完璧な支払い保証書を作ってやったわ!)
無垢な聖女の涙という最高の感情的アプローチ。
そして、一デナリの焦げ付きもない、国が保証した莫大な現金(超特大のビジネスチャンス)。
商人たちの目が、一瞬にして猛禽類のようにギラギラと輝き始めた。
「聖女様! 我々マリス商会、命に代えても東部へ穀物を手配いたします!」
「うちの商会が毛布とテントをすべて買い押さえますぞ! すぐに馬車の準備を!」
「聖女様のお心、確かに受け取りました! さあ野郎ども、倉庫を空っぽにするぞ!!」
商人たちは、聖女への感動と、莫大な利益への興奮で完全にハイになり、怒号のような歓声を上げてサロンから一斉に走り出していった。
エルリアは、その猛烈な勢いを見送りながら、静かに、そして満足げに微笑んだ。
(これで、東部への物資の買い占めと輸送ルートは確保したわ。あとはこの物資が前線に届けば、ルカの安全は守られる!)
***
王太子宮・執務室。
ジークヴァルトが、一向に集まらない兵糧調達の算段に頭を悩ませ、万年筆をへし折りそうになっていたところへ、執事のハインツが驚愕の表情で駆け込んできた。
「殿下! 一大事でございます!」
「なんだ、ガルディア軍が動いたか!?」
「いえ! 王都の商人たちが一斉に動き、東部へ向けて膨大な食料と物資の輸送を開始しました! 凄まじい規模です、我が軍が要求していた兵站のすべてを網羅するほどの量が、すでに東部へ向かっています!」
「なんだと……!? 誰がそんな莫大な手配を……金はどうしたのだ!?」
ジークヴァルトが目を見開いて立ち上がった、その時。
「ジークヴァルト、様……」
執務室の扉が開き、エルリアがフラフラと覚束ない足取りで現れた。
彼女の顔はひどく青白く、目の下にはうっすらと隈ができている。
「エルリア!?」
「東部の民が、戦火から避難するための物資……手配、いたしましたわ……。これで、少しでも、皆様のお心が……」
エルリアは、かすれるような声でそう報告した。
ジークヴァルトは、ハッとして息を呑んだ。
彼の聡明な頭脳が、現在の状況と彼女の言葉を、劇的なまでに繋ぎ合わせる。
(まさか。彼女は『民の避難用』という建前を使い、他国に悟られぬよう迅速に、そして完全に我が王国軍の兵站を補ってくれたというのか……!?)
国庫が空であるという絶望的な危機を前に。
彼女は、自らが持つ「最高顧問」の権限と、商人たちへの絶大な影響力を最大限に振るい、たった一人で国の軍隊を救ってくれたのだ。
(国家の危機を前に、誰の指示を受けるでもなく、これほど見事な知略と決断力で、私を……この国を助けてくれたのだ!)
エルリアの完璧な知略と、国(と自分)を思う自己犠牲の献身。
ジークヴァルトの胸に、かつてないほどの激しい感動と、狂おしいほどの愛しさが込み上げてきた。
「エルリア……! 君という人は……っ!」
***
一方のエルリアは、ジークヴァルトがそんな盛大な勘違いをして感動しているとは露知らず、自分の体の限界と戦っていた。
(ああ、もうダメ……。昨夜から徹夜で帳簿と格闘して、商人たちの手配の計算を全部一人でやったから、疲労と睡眠不足がピークよ……)
実際、彼女の体力は限界を迎えていた。
だが、その限界すらも、彼女の計算高い脳は「利用」しようとしていた。
(よし。物資の手配も済んでルカの安全は確保したし、顔色も最悪。ここで倒れれば、『国を思って身を粉にして倒れた悲劇の聖女』として完璧な演出になるわ! 王妃様も、これを見れば『やはりこの虚弱体質では王妃の激務には耐えられない』と判断して、『円満破局のシナリオ』が進められるはずよ……!)
エルリアは、計算通りに、ふらりと意図的に意識を手放し、冷たい床へと倒れ込もうとした。
「きゃっ……」
だが。
エルリアの体が床に打ち付けられる前に。
猛烈な、それこそ風を切り裂くような勢いで駆け寄ってきたジークヴァルトの力強い腕に、すっぽりと抱きとめられた。
「エルリア!!」
「……え?」
エルリアが薄く目を開けると、そこには、かつてないほど必死で、血の気を引かせたジークヴァルトの顔があった。
「お前は馬鹿か!!」
執務室に、ジークヴァルトの怒鳴り声が響き渡った。
「国のために、自分の命を削るなど許さん! お前が倒れてまで得られる国益など、私には何の意味もない!」
ジークヴァルトは、彼女の華奢な体を強く、痛いほどに抱きしめる。
「……お前を失ったら、私がどうなるか! なぜわからないのだ!!」
それは、完全に理性を失った、ほとんど愛の告白に近い激しい叱責と抱擁だった。
彼の腕は震え、その声には本物の恐怖と切実な愛が滲み出ている。
意識が遠のく中、エルリアは、自分を包み込む腕の強さと、彼の異常な焦燥ぶりに戸惑っていた。
(あれ……?私、王妃の激務には耐えられないから、円満破局するために倒れたのに……。なんか、ものすごく……手放す気がないどころか、異常に執着されてない……?)
計算通りの完璧な自己犠牲の演出が、なぜか王太子の愛と過保護を完全にカンストさせてしまう。
意識の底に沈みゆくエルリアの頭に、ポンコツなすれ違いへの疑問符だけが、虚しく浮かび上がっていた。




