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仮面の聖女 〜完璧な社交辞令と内心は一致しない〜  作者: tky
第2章:荒れ狂う政治の荒波

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第27話:逃亡する公爵の独白と、知らぬ間の裏切り

真夜中の街道を、一台の簡素な馬車が猛スピードで駆け抜けていた。


一見すれば、行商人が使うような薄汚れた幌馬車である。


だが、その馬車の中で息を潜めている男は、数時間前までこの国の権力の中枢に君臨していた、筆頭公爵アルベルト・フォン・グランチェスターその人であった。


「……忌々しい。あと少し、あと少し時間があれば、すべての準備が整っていたというのに」


アルベルトは、薄暗い馬車の中で、ギリッと奥歯を噛み鳴らした。


彼の足元には、王都の屋敷の金庫から持ち出せた限りの金塊と、宝石類が詰め込まれた革袋が転がっている。


そして彼の手には、隣国ガルディアとの長年にわたる内通の証拠や、王国軍の配置図が記された、極秘書類の入った鞄が固く握りしめられていた。


(近衛騎士団の動きの速さ……完全に包囲網を敷かれる一歩手前だった。間一髪で王都を脱出できたのは僥倖だが、まさか、あの倉庫が突き止められるとは……)


アルベルトは、冷酷な瞳で、闇に沈む王都の方向を振り返った。


あの豪華な公爵邸には、今頃、実の娘であるセシリアが一人取り残され、騎士団に踏み込まれているはずだ。


だが、彼の胸には、娘を見捨てたことへの罪悪感など微塵も存在しなかった。


(あの愚かな娘め。結局、王太子ジークヴァルトを懐柔することもできず、ただ喚き散らして周囲の貴族を巻き込むだけの無能だった。だがまあ、王太子の目を『令嬢たちのくだらない派閥争い』に向けさせ、私の真の計画から目を逸らさせるための、目くらましの囮としては、多少役立ったと言うべきか)


アルベルトにとって、血の繋がった娘すらも、己の野望のための使い捨ての駒に過ぎなかった。


***


だが、アルベルトが冷酷に切り捨てた王都では、彼の思いもよらないドラマが繰り広げられていた。


王宮の地下に設けられた一時拘留所。


薄暗い鉄格子の向こうで、すべてを失い、絶望のあまり泣き崩れていたセシリアの前に、一人の女が引き立てられてきた。


「アンナ……!?」


セシリアは、泥だらけになり、縄で縛られたその女を見て、信じられないというように目を見開いた。


彼女は、幼い頃からセシリアの身の回りの世話をしてきた、公爵邸の古参のメイドだった。


アンナは、拘留所を見回りに来ていたジークヴァルトとエルリアの前に引き据えられると、床に額を擦りつけて、必死に涙ながらに訴え始めた。


「殿下! アシュレイ子爵令嬢! どうか、どうかお嬢様をお助けください! セシリアお嬢様は、公爵閣下の陰謀など、何一つご存知ありません!」


アンナの悲痛な叫びが、冷たい石壁に響き渡る。


「お嬢様は、ただ純粋に殿下をお慕いしていただけなのです! 閣下は、お嬢様のその想いを利用し、ご自身の計画を隠すための『囮』として見捨てたのです!」


「な、何を言っているの、アンナ……お父様が、わたくしを囮に……?」


セシリアは、信じられない事実を突きつけられ、青ざめた顔で震え上がった。


アンナは、涙でぐしゃぐしゃになった顔をセシリアに向ける。


「お嬢様……。閣下は、ご自身だけが逃げるため、お嬢様を屋敷に置き去りにしました。私どもには、残った書類をすべて焼却するよう命じて……」


「そ、そんな……」


「私は、お嬢様を平然と見捨てた閣下が、どうしても許せませんでした。ですから……復讐のために、焼却を命じられた『内通の証拠書類』をあえて燃やさず、閣下の罪が暴かれるよう、貸し倉庫に置いて来たのです」


その言葉に、エルリアは内心で驚愕の声を上げた。


決定的な証拠が、不自然なほど無防備に倉庫に残されていた理由。それは、アルベルトの罠でも隠蔽の失敗でもなく、一人のメイドによる主人への復讐だったのだ。


メイドがそこまで告白した時、ずっと静かに聞いていたジークヴァルトが、氷のような声で事実を補足した。


「こいつはその後、どうにかしてお前を逃がそうと、再び公爵邸へ向かった。屋敷はすでに近衛に完全に包囲されていたにも関わらず、どうしてもお前を助けたいと裏口から侵入を試み、捕らえられたのだ」


冷徹な声で告げられた事実に、セシリアは言葉を失った。


「アンナ……あなた、わたくしのために……?」


セシリアの瞳から、大粒の涙がボロボロとこぼれ落ちる。


彼女は貴族社会では高慢で鼻持ちならない令嬢だったが、自分に仕える使用人には身内として情が厚く、不器用ながらも深い愛情を注いでいた。


だからこそ、アンナは命の危険を冒してまで、彼女を助けようとしたのだ。


自分が実の父親に全く愛されず、ただ利用されていただけだったという残酷な現実。


そして、血の繋がりもない使用人だけが、自分を本当の意味で案じてくれていたという事実。


「ああ……あああああっ……!」


セシリアは、鉄格子にしがみつき、声を上げて子供のように泣き崩れた。


その様子を静かに見つめていたエルリアは、そっと胸に手を当てて、慈悲深い祈りのポーズをとった。


(なんてこと……! じゃあ、このセシリアは本当に何も知らなくて、全部あのクソ公爵の仕業だったってこと!? それなら、この娘から慰謝料を毟り取るのは流石に無理だわ! 損害賠償の請求先は、逃げた公爵と取り巻きの当主たちに一本化するしかないわね!)


エルリアの脳内では、瞬時に請求書の宛先が書き換えられていた。


王都で、彼女の『合法的な財産没収』のターゲットが、冷酷に確定した瞬間だった。


***


一方、そんな王都での悲喜交交など露知らず。


馬車に揺られるアルベルトは、証拠は完全に隠滅されたと思い込んだまま、自身の計画を回想していた。


(東部の治水工事を遅延させ、防衛線を弱体化させることができれば、隣国ガルディア軍の侵攻は容易いものとなっていたはずだ。だが……)


アルベルトは、ギリッと奥歯を噛み締める。


(だが、厳重に秘匿していたあの貸し倉庫が、なぜあのような完璧なタイミングで、騎士団に制圧されたのだ?)


長年、血で血を洗う権力闘争を生き抜いてきた彼の直感が、激しい危険信号を鳴らしていた。


アルベルトは、王太子宮に現れてからの【アシュレイ子爵令嬢エルリア】の軌跡を、一つ一つ思い返す。


(有力な婚約者候補の一人であったベアトリクスの、自滅に近い失脚。我が娘たちによる、陰湿な嫌がらせの実質的な無力化。そして今回、私の防衛線破壊工作の拠点であった秘密倉庫の、あまりにも鮮やかな陥落……)


アルベルトの額に、じわりと冷や汗が浮かぶ。


(すべてが、すべてがあの女にとって都合よく進みすぎている! これを単なる偶然や、王太子の庇護と片付けるのは不自然極まりない。何者かが、水面下で緻密に状況を誘導しているとしか思えん……)


アルベルトの優れた頭脳が、一つの論理的な、しかも奇跡的な正解を弾き出す。


(まさか。あの清貧で無害に見えるエルリア本人が、裏で糸を引いているのではないか……!?)


しかし、彼女の動機が「慰謝料と損害賠償の確実な取り立て」だとは、大貴族である彼には想像もつかない為、微妙にズレている。


(あの女は、私の防衛線破壊工作にいち早く気づいていたのだ。だからこそ、愚かな娘たちの嫌がらせに屈したふりをして我々を油断させ、自らを囮にして我が家の暗部を暴き出した。……恐ろしい。自らを弱き聖女と偽り、盤上ですべてを操る恐るべき策士!)


アルベルトは、エルリアという存在に底知れぬ恐怖と警戒心を抱き、身震いした。


***


夜が白々と明け始めた頃。


アルベルトの乗った偽装馬車は、王国とガルディアの国境にそびえ立つ、強固な砦に到着した。


そこはすでに、ガルディア軍の支配下にある拠点である。


砦の奥深くに案内されたアルベルトを出迎えたのは、歴戦の猛将として知られるガルディアの軍団長、レオンハルト将軍だった。


「グランチェスター公爵。ずいぶんと慌ただしいご到着だな。……王都でのクーデター計画はどうなった?」


皮肉気に問う将軍に対し、アルベルトは手元の書類鞄を叩いて、傲然と笑い返した。


「国内からの転覆は諦めた。……あの国には、水面下で恐るべき策を巡らせる怪物が潜んでいる可能性がある。これ以上、裏で小細工をするのは危険だ。正面から力でねじ伏せるしかない」


アルベルトは、自信満々にその書類鞄をレオンハルトの前のテーブルに突き出した。


「この鞄の中に、王国の防衛の弱点と、内通者のリストがある。これと、持参した莫大な裏資金を使え。手引きは私がする」


レオンハルト将軍は、凶悪な笑みを浮かべてその鞄を受け取った。


しかし、アルベルトは知らない。


彼が自信満々に差し出したその鞄の中身の、最も重要な証拠書類の数々は、すでに裏切ったメイドによって『秘密倉庫』に置かれ、ジークヴァルト――そしてエルリアの取り立ての算盤の前に筒抜けになっていることを。


自分の首を絞める致命的な証拠が、すでに王都で暴かれていることなど全く気づかず、アルベルトは復讐の炎を燃やして高笑いした。


その滑稽で哀れな姿と共に、物語のスケールは、令嬢たちの派閥争いから、国家間を揺るがす巨大な戦争へと、一気に発展しようとしていた。

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