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仮面の聖女 〜完璧な社交辞令と内心は一致しない〜  作者: tky
第2章:荒れ狂う政治の荒波

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第26話:逃亡する公爵と、置いて行かれた令嬢たちへの慈悲(取り立て)

王都の外れ、人気のない薄暗い裏路地に、幾重もの松明の炎が揺らめいていた。


王太子ジークヴァルト率いる近衛騎士団の精鋭たちが、完全に包囲しているのは、何の変哲もない巨大な石造りの『貸し倉庫』だった。


「……突入しろ」


ジークヴァルトの冷酷な短い命令と共に、重厚な扉が蹴破られる。


金属のぶつかる鋭い音と、騎士たちの怒号が倉庫内に響き渡るが、それに反抗するような声は一切聞こえてこなかった。


「殿下! 倉庫内は無人です!ですが……」


報告に走ってきた騎士の案内に従い、ジークヴァルト、そして『護衛対象』として付き従っていたエルリアが倉庫の奥へと足を踏み入れる。


そこには、東部水路の治水工事に必要な石材が、山のように高く積まれていた。


「ああ……! 神に感謝いたしますわ。これで、無事に工事が再開できます……!」


エルリアは、胸の前で手を組み、純粋な安堵と慈愛に満ちた涙を浮かべて祈りを捧げた。


(っしゃあああ! 見つけたわ! 石材の確保完了! そして、この隠し場所に残されているであろう書類を見つければ、取り巻きどもへの損害賠償の証拠は完璧よ!)


エルリアの脳内では、すでに巨大な算盤が弾かれ、黄金のコインが降り注ぐ音が鳴り響いていた。


だが、ジークヴァルトの金の瞳は、石材の山を前にしても微かに細められたままだった。


彼は、倉庫の奥に無造作に置かれていた執務机に歩み寄り、そこに残されていた数枚の書類を手に取る。


「……やはりな。これを見ろ、最高顧問」


ジークヴァルトが差し出した書類を覗き込んだエルリアは、息を呑んだ。


それは、公爵家とセシリアの取り巻き貴族たちが交わした違法な価格操縦の契約書だけではなかった。


長年、国境を接して小競り合いを続けている軍事大国『ガルディア』。


そのガルディアの政府高官に対し、公爵が国家の流通網や重要な機密情報を流し、見返りとして莫大な裏金を受け取っていたことを示す、決定的な『内通の証拠』だった。


(な、なによこれ……! 単なる国内の営業妨害かと思ったら、完全に売国奴じゃないの! っていうか、こんな国家反逆罪の決定的な証拠を、なんでこんなに無防備に置いてあるの!?)


エルリアの内心の驚愕とリンクするように、ジークヴァルトが氷のような声で呟いた。


「遅かったか。筆頭公爵家ほどの狡猾な家門が、ここまであっさりと致命的な証拠を残すはずがない。奴らは……すでにこの国を捨てた」


ジークヴァルトは、踵を返し、近衛騎士たちに向かって鋭く命じた。


「直ちに王都の公爵邸を包囲しろ! 一匹のネズミも逃すな!」


***


その頃、王都の一等地にそびえ立つ筆頭公爵邸は、異様な静寂に包まれていた。


有能な使用人たちの姿は消え、金庫は空になり、重要な書類はすべて暖炉で焼き払われていた。


だが、その屋敷の最も豪華な一室で、ただ一人、暢気に鏡の前に立っている令嬢がいた。


セシリアである。


「うふふ……。今夜の夜会は、どのドレスにしようかしら。アシュレイ家の小娘は今頃、石材が見つからずに泣いているでしょうね。殿下も、無能な子爵令嬢にはすっかり愛想を尽かして、今夜こそわたくしを選んでくださるはずだわ」


彼女は、最高級のシルクで仕立てられた真紅のドレスを胸に当て、うっとりと己の姿に見惚れていた。


父親である公爵が、数日前から慌ただしく何かを準備していたことなど、彼女の頭には微塵も残っていない。


彼女の脳内は、「王太子妃の座」という甘い妄想で完全に埋め尽くされていた。


その時だった。


――ドガンッ!!


自室の重厚な扉が、乱暴な音を立てて蹴り破られた。


「きゃあっ!? な、なにごとですの!?」


ドレスを取り落とし、悲鳴を上げたセシリアの視界に飛び込んできたのは、漆黒の軍服に身を包んだジークヴァルトと、武装した近衛騎士たちの姿だった。


「じ、ジークヴァルト殿下……? どうして、このような荒々しい……あ、もしかして、わたくしを夜会へエスコートするために、わざわざお迎えに来てくださったのですか?」


状況が全く理解できていないセシリアは、頬を染めてすり寄ろうとする。


だが、ジークヴァルトは、虫けらを見るような絶対零度の視線で彼女を射抜いた。


「お前の父親は、国家の機密を売り渡し、私財を持って隣国ガルディアへ逃亡した」


「…………は?」


冷酷な宣告に、セシリアの思考が完全に停止した。


「そ、そんなはずありませんわ! お父様が、このわたくしを置いていくわけが……! わたくしは、未来の王太子妃なのですから! 何かの間違いですわ!」


「現実を見ろ。お前は、逃亡の足手まといとして、完全に見捨てられたのだ」


ジークヴァルトの言葉に、セシリアは周囲を見渡す。


常に自分に傅いていたメイドたちの姿もない。廊下は静まり返り、冷たい夜風だけが吹き込んでいる。


「嘘……嘘よ……! お父様! お父様ぁッ!!」


半狂乱になって叫ぶセシリアの両腕を、近衛騎士たちが無情に拘束する。


王太子妃の座を夢見て、他人を嘲笑い続けた令嬢の末路は、あまりにも惨めで、哀れなものだった。


***


翌朝。


王宮の地下に設けられた一時拘留所には、セシリアの取り巻きだった侯爵や伯爵といった高位貴族の当主たちが、一斉に押し込められていた。


彼らは、鉄格子越しに現れたジークヴァルトに向かって、必死に弁明を叫んだ。


「で、殿下! 我々は公爵閣下に『利益の出る投資先がある』と誘われ、資金を融通しただけなのです!」


「そうです! まさかそれが、アシュレイ子爵令嬢の事業を妨害するための資金だとは、夢にも思いませんでした!」


醜く責任を逃れようとする当主たち。


ジークヴァルトは、彼らの言葉を冷ややかに聞き流し、手にした書類を突きつけた。


「事業の妨害などという、生ぬるい罪で済むと思っているのか? お前たちが出した資金は、公爵を通じて、すべて隣国ガルディアへと流れている。……そして、公爵自身も、お前たちの金を持ち逃げして亡命した」


「…………え?」


当主たちの顔から、一瞬にしてすべての血の気が引いた。


「な、持ち逃げ、された……?」


「それだけでなく、我々が……ガルディアへの内通の片棒を、担がされていたと……!?」


公爵の威光を傘にきて、甘い汁を吸おうとしていた結果がこれである。


「公爵閣下に騙された! 我が家の財産が!」


「おしまいだ……! 一族もろとも、反逆罪で処刑される……!」


彼らは、鉄格子の前で崩れ落ち、頭を抱えて絶望の呻き声を上げた。


そこへ。


「皆様……。お加減はいかがですか?」


涼やかで、慈愛に満ちた透き通るような声が響いた。


暗く淀んだ拘留所の空気を浄化するように現れたのは、純白のドレスに身を包んだエルリアだった。


***


エルリアは、拘留所の鉄格子越しに、絶望の淵にあるセシリアや取り巻きの当主たちを、ひどく痛ましそうに見つめた。


そのエメラルドグリーンの瞳には、大粒の涙が浮かんでいる。


「皆様、お父様や公爵閣下に裏切られ、資金まで奪われてしまうなんて……本当にお可哀想に……。皆様のお心が少しでも救われるよう、わたくし、心からお祈りいたしますわ」


まるで、迷える羊を導く聖母のような、完璧な聖女の慈悲。


当主たちは、自分たちが散々馬鹿にし、事業を妨害した相手からの思わぬ優しい言葉に、縋るように顔を上げた。


「アシュレイ子爵令嬢……! ああ、あなたはなんと慈悲深いお方だ! 我々は騙されていたのです! どうか殿下に、我々の減刑を口添えしてくだされ!」


エルリアは、そっと胸に手を当てて、静かに、そして真摯に頷いた。


「ええ、分かっておりますわ。皆様は決して、国を裏切るような悪人ではないと、わたくしは信じております」


そう言って微笑んだ後、エルリアはスッと表情を引き締め、凛とした声で語りかけた。


「ただ……今回の件で、東部水路の工事が大幅に遅れ、多くの民が苦しむことになってしまいました。皆様が、その被害を『補填』してくだされば、それは立派な『民への贖罪』となりますわ。この慈悲の心と行動は、必ずや神に届き、皆様の罪を軽くすることでしょう」


(お前たちが馬鹿な真似をしたせいで生じた損害、きっちり日割り計算で倍にして請求してやるわ! お前たちの残された全財産を、合法的に、一デナリ残らず差し押さえてもらうからね!)


エルリアの脳内算盤は、すでに彼らの屋敷、土地、宝飾品、美術品に至るまで、すべての資産価値を弾き出していた。


「後日、国から正式な『通達』が届くと思いますわ。皆様の心が、少しでも安らかになりますように……」


エルリアは、具体的な金額を一切口にせず、ただ優しく微笑んでその場を立ち去った。


残された当主たち、そして隣の牢で震えていたセシリアは、その聖女の温かい言葉の裏にある『国を挙げた徹底的な財産没収(合法的な身ぐるみ剥がし)』の気配に気づき、今度こそ完全な絶望へと突き落とされたのだった。


***


数時間後、王太子宮の執務室。


ジークヴァルトは、窓から王都の街並みを見下ろしながら、複雑な溜息をついていた。


筆頭公爵が、莫大な資金と国家機密を持って隣国ガルディアへ逃亡した。


これは、長年の小競り合いを続けてきた両国の関係において、明確な戦争の火種となり得る、極めて重大な外交的危機だった。


だが、そんな頭の痛い政治的課題を抱えているというのに、ジークヴァルトの心は、なぜか奇妙なほどに満たされ、どこか機嫌すら良かった。


「……事後処理は、すべて終わりましたわ」


背後から声がして振り返ると、報告に訪れたエルリアが、清廉な微笑みを浮かべて立っていた。


(あの拘留所で、己を陥れた者たちに対し、喚き散らすことも、自ら手を汚すこともなく……ただ『民への贖罪』という完璧な大義名分のもと、涼しい顔で彼らの財産を根こそぎ奪い取っていく。あの鮮やかすぎる手腕……本当に、彼女は恐ろしく、そして最高だ)


ジークヴァルトは、彼女の強欲さと、それを微塵も感じさせない完璧な聖女の建前に、呆れを通り越して深い感嘆と愛情を覚えていた。


「そうか。お前の事業も、これで無事に再開できそうだな」


「ええ。ジークヴァルト様が直接ご足労いただいたおかげで、石材も無事に取り戻せました。これで民も安心いたしますわ」


(ふふんっ! 殿下が直々に動いてくれたおかげで、公爵家の差し押さえと、取り巻きどもへの損害賠償請求が完璧に確定したわ! これで事業の遅延分どころか、ルカの来年分の家庭教師代まで確保できたわね!)


「建前」を完璧に使いこなすエルリアと、そのすべてを見透かし、彼女の逞しさにさらに深く魅了されていくジークヴァルト。


二人の奇妙な関係性は、さらに強固なものとなっていた。


だが、逃亡した公爵を受け入れた軍事大国ガルディアという新たな脅威が、二人の行く手に暗い影を落とすのかもしれない。

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