第24話:包囲網の令嬢たちと、無自覚な不快感と殺意
王宮に用意された広大なサロンは、常に高位貴族たちの優雅な社交の場として機能している。
色とりどりのドレスと、最高級の香水が入り混じるその空間は、一見すると美しい花園のようだ。
だが、その実態は、家柄と権力、そして次代の王妃の座を巡るドロドロの伏魔殿に他ならない。
そのサロンの片隅のテーブルで、エルリアは一人、分厚い書類の束と睨み合っていた。
手元にあるのは、国家慈善事業として進めている『東部水路の第二期修繕計画』の見積もりと、その裏で巧妙にルカの学習支援費へと還流させるための裏帳簿である。
(ここをもう少し削れば、ルカの来月の特別家庭教師代が捻出できるわね。……うふふ、順調、順調!)
エルリアが完璧な「清貧の聖女」の微笑みを浮かべながら、脳内で凄まじい勢いで算盤を弾いていた、その時だった。
「殿下がいらっしゃったわ!」
「まあ!ジークヴァルト様!」
サロンの入り口付近が、にわかに黄色い歓声に包まれた。
顔を上げると、公務の合間を縫って姿を現したジークヴァルトが、近衛騎士を従えて立っていた。
漆黒の軍服に身を包んだ彼の姿は、それだけで圧倒的な覇気と美しさを放っている。
当然のごとく、サロンにいた上位貴族の令嬢たちが、獲物を見つけた狩猟犬のように彼を取り囲んだ。
中心にいるのは、筆頭公爵家の令嬢、セシリアである。
彼女は、以前エルリアがベアトリクスを社会的に粉砕した茶会には欠席していた、いわば「王太子妃候補の最大派閥の生き残り」だった。
「ジークヴァルト殿下。公務でお疲れのところ、このような場所でお会いできるなんて光栄の極みですわ」
セシリアは、これ見よがしに胸元を強調した扇の持ち方で、ジークヴァルトに擦り寄った。
ジークヴァルトは、冷ややかな金の瞳で令嬢たちを一瞥すると、ひどく事務的な声で返した。
「ああ。私は最高顧問に用があって来ただけだ。道を空けてくれ」
だが、セシリアをはじめとする令嬢たちは、引き下がらなかった。
むしろ、ジークヴァルトの視線の先にいるエルリアに気づくと、同情を装った、薄く意地の悪い笑みを浮かべた。
「まあ。アシュレイ子爵令嬢は、今日も泥臭い治水事業の書類に埋もれていらっしゃるのね」
「ええ、本当に。子爵家の台所事情が苦しいのは存じておりますが、王宮のサロンでまであのようにお働きになるなんて、お可哀想に」
「殿下、あのような数字を追うだけの雑務は、下位の文官にでも任せておけばよろしいのです。殿下にはもっと、私どもと芸術や文化の高尚なお話をしていただきたいですわ」
令嬢たちの言葉は、直接的な罵倒ではない。
だが、慈善事業とエルリアの実家を巧妙に見下し、自分たちこそが王太子に相応しいとアピールする、陰湿で計算高い牽制だった。
ジークヴァルトの眉間に、不快なシワが深く刻まれる。
「……君たちには関係のないことだ。彼女の事業は国家の根幹に関わる。芸術の話題などより、よほど価値がある」
ジークヴァルトが冷酷な声で令嬢たちを切り捨てようとした、その時だった。
「でも殿下、あのような地味な作業ばかりでは、殿下のお心が休まりませんわ。私どもが主催する今夜の夜会にいらしてくださいな。至上の音楽とワインをご用意しておりますの」
令嬢たちはジークヴァルトの言葉を遮るように、さらなるアピールを重ねてくる。
ジークヴァルトが苛立ちと共に再度口を開きかけた瞬間、不意に彼の視線がエルリアと交差した。
エルリアは、令嬢たちに囲まれるジークヴァルトを見つめながら、静かに、ただ静かに微笑んでいた。
その完璧な微笑みを見たジークヴァルトは、なぜかこれ以上令嬢たちを相手にすることがひどく億劫に感じられ、言葉を飲み込んでしまった。
(……いや、違う。億劫なのではない。私は、彼女が今、何を考えているのかが気になっているのだ)
一方、その時のエルリアの胸の奥底では、かつてないほどに黒く、ドロドロとした『不快感』がマグマのように湧き上がっていた。
(なんなの、あの厚化粧の女たち!殿下に媚びへつらって、甘ったるい声を出して!挙句の果てに、私の神聖な事業まで馬鹿にするなんて!これは……私が手塩にかけて育て、時間と労力を投資した超大型パトロンを、他所の悪徳商会に横取りされそうになっている、優秀な営業マンとしての正当な焦りと怒りよ!ええ、そうに決まってるわ!)
エルリアは、自身の胸を焦がす熱情を『営業マンの危機感』だと完璧に誤変換し、一つ深呼吸をして、鉄壁の聖女の微笑みを維持し続けた。
***
だが、その直後、エルリアの「聖女の仮面」の下の怒りを、頂点へと達させる事件が起きた。
ジークヴァルトが令嬢たちをあしらって立ち去り、サロンが落ち着きを取り戻した後。
エルリアは資料の確認のために少しだけ席を外し、すぐに自分のテーブルへと戻ってきた。
その瞬間、彼女の足がピタリと止まる。
自分が抱えていた、使い込まれた革の書類鞄。
その口が不自然に開けられ、中身がテーブルの上に散乱していたのだ。
そこには、慈善事業の重要書類だけでなく、以前ジークヴァルトから「ルカの学習の足しにしてくれ」と預かっていた、希少な他国の歴史書も含まれていた。
そして、その歴史書の美しい装丁と、重要書類の束に――泥水のような、酷く臭う濁った液体が、べっとりとかけられていた。
「…………」
エルリアは、一切の表情を消して、その惨状を見下ろした。
周囲には犯人の姿はない。
だが、誰の差し金かは考えるまでもない。
先ほど、エルリアを見下して笑っていたセシリアたちの一派だ。
(……許さない。私への嫌がらせなら、慰謝料をふんだくる良い口実にしてやる。でも……ルカの未来の教材を汚すなんて。これは、私の弟への実害よ。万死に値するわ。この慰謝料、必ず相場の百倍……いや、実家ごと破産するまで搾り取ってやるわ!)
エルリアの放つ冷気が、周囲の空気を凍らせる。
だが、エルリアは周囲の令嬢たちが遠巻きにこちらを嘲笑っている気配を察知すると、瞬時に怒りを奥底へ沈めた。
ここでヒステリックに怒鳴り散らしても、証拠がなければ逃げられるだけだ。
エルリアは、悲しげに眉を下げ、気丈に振る舞う「悲劇のヒロイン(聖女)」の仮面を被った。
「まあ……。急な突風で、庭の泥が飛んできてしまったのかしら。大切な書類が……」
エルリアは、周囲に同情を引くように儚く呟くと、ハンカチでそっと汚れを拭き取り始めた。
***
「……最高顧問。その書類と、君の袖口の汚れはなんだ」
ジークヴァルトの執務室。
報告に訪れたエルリアを一目見た瞬間、ジークヴァルトの冷徹な声が、室内の温度を氷点下にまで引き下げた。
エルリアは、汚れを拭き取ったものの、まだ酷いシミが残る書類を抱え、袖口にも微かに泥の跳ねを浴びていた。
「誰にやられた」
地を這うような、凄絶な怒気を孕んだジークヴァルトの問い。
だが、エルリアは証拠がない段階で騒いでも「百倍の慰謝料」をふんだくれないため、完璧な微笑みで誤魔化した。
「殿下、ご心配には及びませんわ。わたくしの不注意ですの」
その瞬間。
ジークヴァルトの腹の底で、重く、どす黒い何かが完全に破裂した。
(彼女が、私から隠そうとしている。誰だ。私の大切なものに手を出し、彼女にこんな惨めな思いをさせた愚か者は。一族まとめて処罰してやる)
ジークヴァルトの瞳の奥で、暴虐の炎が燃え上がった。
彼は、自分が今、国の中枢を担う大貴族であろうと躊躇なく切り捨て、一族郎党を皆殺しにできるほどの、理性の限界を突破していることに気づき、愕然とする。
(私は……たった一人の娘のために、ここまで正気を失い、残酷になれるというのか……!)
自身の抱く愛の重さと、底知れぬ狂気。
ジークヴァルトは、その異常性に戸惑いながらも、裏で徹底的に犯人を炙り出し、社会から抹殺することを冷酷に決意した。
***
翌日、国王の御前会議が執り行われる大広間。
重厚な円卓を囲む国王、宰相、そして高位の閣僚たちの前で、ジークヴァルトは極めて冷酷かつ論理的な口調で報告を行っていた。
「……以上の点から、現在、王宮内の風紀が著しく乱れており、特定令嬢の派閥による不穏な動きが確認されております。これは国家の威信に関わる重大な懸念です。近衛騎士団の第一部隊を動員し、該当する貴族家の徹底的な身辺調査、および資金の流れの監査を行うべきです。少しでも不正があれば、容赦なく粛清案を実行に移します」
ジークヴァルトの顔は、完全に感情を排除した「夜叉」そのものだった。
その氷のような宣言に、壁際で控えていたメイドのリーゼは、顔を伏せながら密かに肩を激しく震わせていた。
(くっ……ふふっ!殿下が、初恋をこじらせすぎた挙句、ついに一人の娘のために国家権力を乱用する暴君への道を歩み始めましたね……!)
リーゼは、笑いを堪えるのに必死だった。
そして、その向かいの席に座る王妃イザベラもまた、優雅に扇で口元を隠しながら、楽しげに微笑んでいた。
(愚かな令嬢たちが、踏んではいけない虎の尾を踏み抜いたようね。あの子爵令嬢を巡る極上の愛憎劇、最後まで特等席で見せてもらうわ)
イザベラは、息子の狂気じみた行動を止める気など毛頭なかった。
だが、この会議室で最も滑稽なのは、その「ドロドロの愛憎劇と私怨」に全く気づいていない男たちだった。
「うむ!王太子の言う通りだ!王宮の風紀の乱れは、やがて国家の危機に繋がる!直ちに警備隊を増員し、夜間の巡回を強化しよう!」
国王が、真面目くさった顔で力強く頷く。
「素晴らしい危機管理能力です、ジークヴァルト殿下!これも、国家慈善事業の透明性と安全性を保つための、先見の明ですね!」
宰相もまた、トンチンカンな称賛を惜しみなく送った。
ドロドロの私怨による殺意を、完璧な「政治的危機管理」と勘違いして絶賛する国王たち。
すべてを察して楽しむ女性陣の密かな笑みと、何も分かっていない男性陣の真面目さが、あまりにもシュールに交差する会議室だった。
***
同じ頃、エルリアの客室。
エルリアは、自室のデスクで、汚された歴史書のページを一枚一枚、慎重に特殊な溶剤で拭き取っていた。
リーゼが手伝いながら、静かに問いかける。
「エルリア様。犯人の心当たりは、おありなのでしょう?」
「……いいえ」
エルリアは、拭き取る手を止めず、心底悲しそうに、ふるふると首を横に振った。
その顔には、純粋な痛みと、無垢な聖女の嘆きだけが張り付いている。
「わたくし、誰がこのような悲しいことをするのか……見当もつきませんわ。きっと、急な突風が吹いて、運悪く庭の泥水が飛んできてしまったのでしょうね。誰かが意図して、このような尊い知識の結晶を汚すなんて……そんな恐ろしいこと、あるはずがありませんもの」
(当然、あの厚化粧の女たちの一派の仕業に決まってるわ! パトロンへの営業妨害、そしてルカへの実害……。証拠はないけど、私が直接手を下さなくても、この『悲劇の聖女』を演じ続ければ、勝手に殿下が物理的に粛清してくれるはずよ!殿下の権力で奴らの立場を完全に粉砕した後、私が慈悲深い顔で『慰謝料』という名の請求書を送りつけて、合法的に財産を根こそぎ没収して差し上げるわ!)
エルリアは、潤んだエメラルドグリーンの瞳を、祈るように伏せた。
一切の悪意も疑いも知らない「聖女の言葉」。
そして、一デナリの逃げ道も許さない、冷酷な商人の「内心」。
王太子による『物理的・政治的な粛清』と、聖女による『経済的・社会的な抹殺』。
逃げ場のない、最悪のダブルパンチによる『聖女の鉄槌』が、今、静かに振り下ろされる準備を整えていた。




