第23話:無自覚な攻防と、王妃の微笑ましい観察
王宮の長く美しい回廊を、エルリアは今日も完璧な「聖女の微笑み」を貼り付けて歩いていた。
向かう先は、当然のごとくジークヴァルトの執務室である。
彼女の手には、アシュレイ領の治水工事に関する追加資料と、王都の御用商人から原価ギリギリで買い叩いた最高級の焼き菓子が入った小箱が抱えられている。
(『中長期大恋愛プロモーション計画・第一期:接触頻度の増加』。順調そのものね。週二回の報告義務だけじゃなく、こうして細々とした理由をつけては毎日殿下のもとへ通い詰めているのだから。最近、殿下の執務室に向かうだけで、どうしてか胸がドクンと高鳴るけれど……これは決してときめきなんかじゃないわ。大口の契約が決まる直前の、あのゾクゾクするビジネスの興奮よ!金貨が降り注ぐ前兆の音だわ!)
強引な自己完結で、頬の熱をごまかす。
その思考の先にあるのは、常に「円満破局」という絶対的なゴールだった。
(結婚自体が嫌なわけじゃないのよ。でも、最愛のルカが立派に成人して、幸せな家庭を築くのを見届けるまでは、私は絶対にルカの傍を離れたくないの!だから、王族への嫁入りなんて冗談じゃないわ。それに、私のこの唯一の弱点である『ルカへの異常な執着』は、王宮の連中には絶対に悟られてはいけないわ。少しでもバレたら、確実にルカを交渉の材料や人質として利用される。それだけは、何があっても阻止しなければならないのよ)
「円満に振られて、ルカの元へ帰る」
その強固な決意を胸に、エルリアは王太子宮・執務室の重厚な扉を叩いた。
***
その頃、執務室の中では、ジークヴァルトがひどく険しい顔で眉間を揉み解していた。
「殿下。本日もアシュレイ嬢が、資料とお茶菓子をお持ちになっております」
執事ハインツの報告に、ジークヴァルトの肩が露骨にビクッと跳ねた。
「……通せ」
低く冷徹な声を絞り出しながら、ジークヴァルトは必死に自身の内面を取り繕う。
「私は、あいつの小賢しい演技に乗ってやっているだけだ。決して、恋などではない……!」
ジークヴァルトは、誰に言い訳するでもなく、小さく独りごちた。
だが、彼の聡明な頭脳は、とっくに別の答えを弾き出していた。
(……嘘だ。ただの支配欲や有能な駒への執着で、あんな上目遣い一つで心臓が爆発しそうになるわけがない。私は、あの守銭奴に……完全に惹かれている。もし、私が彼女に本気で惚れていると母上に悟られれば、どうなる?母上は身分差を理由に『正室にはできない娘を、不幸な愛人にする前に引き離す』という大義名分を得てしまう。それだけは絶対に避けなければならない!)
ジークヴァルトが葛藤で完全に冷静さを失っているところへ、エルリアが入室してきた。
「失礼いたします、ジークヴァルト様」
またしても、あの甘い響きの愛称。
そしてエルリアは、ジークヴァルトが「そこへ置け」と指示する前に、するりとデスクの横のゼロ距離まで詰め寄った。
「ジークヴァルト様……。本日は、どうしても殿下と一緒にいただきたいお菓子をお持ちしたのです……」
上目遣い。吐息の混じった甘い声。清廉な石鹸の香り。
「あ、ああ……そうか。そこに……」
ジークヴァルトの強固な決意は、今回も秒で消し飛んだ。
彼は、耳の裏までを熟れたトマトのように真っ赤に染め上げ、またしてもペンを握ったままカチコチにフリーズしてしまった。
***
「……ふふっ」
王太子宮の中庭。
公務の移動中だった王妃イザベラは、執務室の大きな窓を見上げて、冷徹な仮面の下で小さく吹き出した。
「王妃殿下、いかがなさいましたか?」
不思議そうに尋ねる側近の侍女に、イザベラは「なんでもないわ」と優雅に扇を振る。
(リーゼから、あの子爵令嬢が毎日殿下のもとへ通い、その度に殿下がポンコツ化していると報告を受けてはいたけれど……まさか、あのアイスドールのような我が息子が、あんな初心な少年のように真っ赤になって硬直しているなんてね。あの恐ろしく有能で強欲な娘は、国の財政だけでなく、次期国王の人間性まで完璧に治療しようとしている。……ええ、この面白いおもちゃ、ただ眺めているだけではもったいないわね)
イザベラは、悪戯を思いついた少女のような瞳で、侍女に命じた。
「今すぐ、ジークヴァルトとエルリアを、私の私室へ呼び出しなさい」
***
「王妃殿下が、お二人揃って今すぐ私室へ来るようにと」
使者の言葉に、真っ赤になっていたジークヴァルトと、してやったりの優越感に浸っていたエルリアは、同時に硬直した。
だが、二人の脳内を駆け巡った焦りの理由は、全くの別物だった。
(プロモーションの成果が、もう王妃様の耳に入ったのね!素晴らしいスピードだわ!ここは計画通り、大恋愛を徹底的にアピールして既成事実を固めるチャンスよ!)
エルリアが内心で密かにガッツポーズをした横で、ジークヴァルトは血の気を引かせていた。
(母上め……!私が彼女に惚れていると察知して、釘を刺しに来たのか!絶対に弱みを握られるわけにはいかない!)
***
王妃の私室。
最高級の茶葉の香りが漂う優雅な空間で、イザベラはソファに並んで座る二人を、楽しげに観察していた。
「慈善事業の進捗は順調のようね。予算の還流も見事だわ、エルリア」
「もったいないお言葉でございます、王妃殿下」
エルリアが完璧な礼を取ると、イザベラはティーカップを置き、唐突に本題を切り出した。
「ところで。最近、あなたたち二人がずいぶんと『親密』にしているという噂が、私の後宮まで届いているのだけれど」
ビクッ、とジークヴァルトの肩が揺れる。
だが、エルリアは待ってましたとばかりに、頬を薄らと染め、恥じらうような完璧な演技で答えた。
「はい……。わたくし、ジークヴァルト様には日頃から大変良くしていただいておりまして……本当に、光栄の至りでございます」
(よし!これで大恋愛プロモーション第一段階は、王妃様にも完全に認知されたわ!)
しかし、隣に座るジークヴァルトは、母への強烈な警戒と照れ隠しから、咄嗟に全く逆の言葉を口走ってしまった。
「母上、それは誤解です。私は彼女の事業能力を高く評価して近くに置いているだけで、特別な感情など一切ありません」
(ここで恋だと認めてしまえば、母上に彼女を排除する完璧な口実を与えてしまう!それだけは避けなければ!)
見事なまでの、すれ違い。
「大恋愛」を演じ切るエルリアと、耳を真っ赤にしながら「特別な感情はない」と全力で否定する息子。
イザベラは、そのちぐはぐな二人のやり取りに、心底面白そうに微笑んだ。
「そう。ジークヴァルトに特別な感情がないのなら、本当に良かったわ」
イザベラは、優雅に扇を開き、口元を隠す。
「実は、エルリアがそこまで優秀なら、ジークヴァルトの婚約者候補などではなく、財務官の息子にでも降嫁させて、一生王宮のために働かせようかと思っていたのよ」
「……は!?」
エルリアは、鉄壁の仮面の下で、一瞬で青ざめた。
(他の家に嫁がせる!?冗談じゃないわ!そんなことになったら、ルカと一緒に住めないじゃない!絶対に嫌よ!それに、他の貴族に嫁いだら、義理の家族にルカの存在を盾にされて、事業を搾取されるリスクだってある!ここは、悲劇のヒロインを演じて絶対に回避するしかないわ!)
エルリアは、瞬時に大粒の涙を瞳に浮かべ、縋るようにジークヴァルトを見つめた。
「そ、そんな……。わたくし、ジークヴァルト様と離れるなんて……考えられませんわ……!」
ジークヴァルトの理性の糸が、ブチッと音を立てて切れた。
エルリアの涙目(迫真の演技)と、母の口から出た「他の男に嫁がせる」という具体的な言葉。
抑え込んでいた独占欲が、理屈や警戒をすべて蹴り飛ばして爆発した。
「い、いえ!母上!彼女は……私の、最高顧問です!」
ジークヴァルトは、弾かれたようにエルリアの肩を強く抱き寄せた。
「彼女を他の男に渡すなど、国家的損失です!私は、断固として反対します!」
(絶対に嫌だ!身分差があろうと、母上に何を言われようと、彼女は誰にも渡さない!)
「なっ……!?」
突然、力強く肩を抱き寄せられ、エルリアの心臓がドクン!と大きく跳ね上がった。
(な、なによ急に!ものすごくいい匂いがするし、腕の力が強い……!……ち、違うわ、これは財務官の息子との話を流すために、殿下が咄嗟に合わせてくれただけよ!計画通りなんだから、焦るんじゃないわよ私!)
エルリアは真っ赤になりながら、必死に脳内そろばんを弾いて自分を落ち着かせる。
イザベラは、息子の必死すぎる姿と、すっぽりと腕の中に収まって固まっているエルリアを見て、心からの満足げな笑みをこぼした。
「そう。国家的損失なら、仕方ないわね。引き続き、二人で『仲良く』公務に励みなさい」
「……っ、はい」
「……かしこまりましたわ」
完全に王妃の手のひらの上で踊らされ、見事に退路を絶たれてしまった二人。
だが、それぞれの激しい勘違いと思い込みの結果、王宮内における二人の「大恋愛の既成事実」だけが、かつてないほど強固に、そして公式なものとして決定づけられていくのだった。




