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仮面の聖女 〜完璧な社交辞令と内心は一致しない〜  作者: tky
第2章:荒れ狂う政治の荒波

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第22話:聖女のプロモーション計画と、想定外の鼓動

王宮の一室、エルリアに与えられた客室のデスクで、羽ペンがせわしなく紙の上を滑っていた。


エルリアは、極めて真剣な表情で、一枚の羊皮紙に綿密な事業計画書を書き連ねている。


そのタイトルは――『王太子との大恋愛プロモーションおよび円満破局(出口戦略)計画書』。


普通の令嬢が見れば卒倒するような内容だが、エルリアにとっては、ルカの未来と実家の財政を守るための、極めて現実的な「防衛ビジネス」だった。


(あの腹黒王太子との望まぬ結婚を回避し、かつ、ルカの教育資金と領地のインフラ予算を無傷で守り抜く。そのためには、完璧な『ストーリー』が必要よ)


エルリアは、脳内でそろばんの珠をパチパチと弾きながら、半年スパンのロードマップを構築していく。


(まずは第一期。接触頻度を自然に増やし、周囲に対して微小な『糖度(仲の良さ)』をアピールして、外堀を埋めていく。期間は三ヶ月)


(次に第二期。殿下からの熱烈な求愛を受け入れ、社交界に『相思相愛の婚約者』として認識させる。期間は二ヶ月)


(そして第三期。関係が円熟したところで、私の急激な健康状態悪化(絶食・睡眠不足の偽装)をアピール。王宮の激務に耐えられない虚弱体質であることを、周囲の医者や王妃様に納得させる。期間は一ヶ月)


(最終フェーズ。殿下の未来を思って涙ながらに身を引く、悲劇の清貧聖女を演じきる。通称、円満破局!)


これこそが、エルリアが弾き出した、一デナリの赤字も出さずに王宮から脱出するための「中長期プロモーション戦略」だった。


「完璧だわ……。これなら、王宮の誰も傷つけず、私は巨額の支援金だけを手にして、ルカの待つ実家へと凱旋できる」


エルリアが、鉄壁の聖女の微笑みの下で、フッと悪魔的な笑みを浮かべた時。


「お忙しいところ、大変恐縮ですが、エルリア様」


背後から、コト、と温かい紅茶が置かれた。


声の主は、部屋付きメイドとして配置されたリーゼだった。


リーゼは、いつも通りの涼しい顔を崩さないまま、しかしその瞳には楽しげな光を宿している。


「昨夜は、自室の鏡の前で、ずいぶんと熱心な『お祈りの発声練習』をされていたようですが。壁越しに心地よい歌声のように聞こえておりましたよ。ジークヴァルト様ぁ、と」


「……!」


エルリアの表情筋が、一瞬だけピキリと凍りついた。


だが、エルリアは瞬時に朝露のような澄んだ瞳をリーゼに向け、慈愛に満ちた笑みを貼り付けた。


「ええ、リーゼ。神の御心に従い、少しでも殿下のお力になれるよう、心を込めて言葉を紡ぐ練習をしておりましたの」


「左様でございますか。殿下は本日、非常に『楽しみ』にされておられますので、どうぞ、その素晴らしいお祈りを直接捧げてあげてくださいませ」


リーゼは優雅に一礼し、エルリアを送り出した。


リーゼはそのまま客室の片付けに残る。


だが、彼女の手によって、エルリアが「何かを企んでいる」という情報は、すでに別のルートで王太子宮へと伝達されていた。


***


王太子宮、ジークヴァルトの執務室。


エルリアが到着する少し前、ジークヴァルトは、いつになく背筋を伸ばして執務机に向かっていた。


その傍らには、王太子宮を統括する年老いた執事、ハインツが静かに控えている。


「殿下。エルリア様の部屋付きメイド、リーゼより定時報告が届いております」


「言え」


ジークヴァルトは、上質な葉巻の煙を静かに吐き出しながら、冷徹な声をかけた。


ハインツは、淡々とした口調で、しかしどこか楽しそうに報告書を読み上げる。


「アシュレイ嬢は昨日、リーゼに対して『殿下の好みの女性の振る舞い』を熱心に質問されていたとのことです。さらに昨夜は、自室にて何らかの『特訓』を繰り返されていたとか」


「ほう……」


ジークヴァルトの金の瞳が、獰猛に細められた。


彼は、灰皿に葉巻を押し付けると、不敵な笑みを浮かべる。


「やはり、あの強欲で計算高い守銭奴が、家族まで包囲されて、ついに私に擦り寄る気になったようだ。自分の身を守るために、色仕掛けでも仕掛けてくるつもりだろう。小賢しい演技で私の気を引こうとする姿、特等席で見物させてもらうとしよう」


「さすがは殿下、余裕の極みであらせられますな」


ハインツは恭しく一礼し、退室していく。


扉が閉まり、一人になったジークヴァルトは、余裕たっぷりに椅子に背もたれた。


「演技だろうと何だろうと、お前が私に縋る姿を見られるのだ。十分に楽しませてもらおう、守銭奴」


その時、扉が静かにノックされた。


従卒が、アシュレイ子爵令嬢の到着を告げる。


ジークヴァルトは、完璧な「冷徹な支配者(余裕の狩人)」の表情を取り繕い、深く椅子に腰掛けた。


***


「失礼いたします、ジークヴァルト様」


入室してきたエルリアは、いつも通りの清楚で美しいお辞儀、カーテシーを披露した。


だが、ジークヴァルトは、彼女の第一声に、微かな違和感を覚える。


「ジークヴァルト様」


これまでは、頑なに「殿下」と呼んでいた彼女が、自分の名を、甘い響きを帯びた愛称で呼んだのだ。


「最高顧問、今日の進捗報告を聞こうか」


ジークヴァルトは、努めて平然を装い、冷徹な声で促した。


「はい。本日は、アシュレイ領の東部水路における、追加の治水予算案の精査についてご報告に参りました」


エルリアは、抱えていた書類の束を手に、歩み寄る。


だが、その歩みは止まらない。


通常の報告であれば、デスクから一歩引いた位置で立ち止まるはずだった。


しかしエルリアは、ジークヴァルトが「待て」と制する隙すら与えない滑らかな動きで、デスクの真横まで侵入した。


ほぼ肩と肩が触れ合うほどの、ゼロ距離。


(――近い!)


ジークヴァルトの喉が、微かに鳴った。


エルリアのプラチナブロンドの髪が、彼の黒い軍服の袖に、かすかに触れる。


それと同時に、彼女の纏う、清廉な石鹸の甘い香りが、ダイレクトに彼の鼻腔を支配した。


エルリアは、机の上に書類を広げると、おもむろに上体をジークヴァルトの方へと傾けた。


そして、昨夜、姿見の前で血の滲むような特訓を重ねた、伝説の営業テクニックを投下する。


少しだけ、小首を傾げる。


エメラルドグリーンの瞳に、たっぷりと湿り気を含ませる。


そして、下からすくい上げるように、じっとジークヴァルトの金の瞳を見つめた。


「ジークヴァルト様……。この予算の件、わたくし、どうしても貴方に『一番に』認めていただきたくて……」


通常のエルリアよりも、オクターブが僅かに高い。


まるで、綿菓子を口に含んだような、あざとさ高濃度の甘い発声。


(よし!物理的接近、完了!目線とハイトーン、完了!)


エルリアの脳内そろばんが、カチカチと勝利の音を鳴らしていた。


(かつて領地が飢饉に瀕した際、王都の強欲な砂糖商人を一発で陥落させ、小麦粉十袋を無償で毟り取った、伝説の『同情誘引営業・甘口』よ!)


(これで、大恋愛のプロモーション第一段階はクリア。殿下もさぞかし満足して――)


完璧な営業スマイル。


だが、その直後。


エルリアの目の前にいた「腹黒の化け物」の様子が、明らかにおかしくなった。


ジークヴァルトの脳内は、この瞬間、完全にクラッシュしていた。


「ジークヴァルト様」という、彼女の口から初めて紡がれた甘い響き。


すぐ横にある、今にも触れそうな、華奢な肩。


漂ってくる、清らかな香り。


そして何より、下から自分を熱烈に(と彼には見えた)見つめてくる、吸い込まれそうなエメラルドグリーンの瞳。


事前にリーゼから報告を受け、心の準備をしていたはずの防壁は、この物理的な一撃によって、跡形もなく消し飛んだ。


「あ……、い……」


端正なジークヴァルトの顔が、みるみるうちに赤く染まっていく。


それは、以前赤毛のダリウスが撒き散らした、あの赤ワインよりも、もっと濃く、もっと熱い赤だった。


彼の金の瞳は限界まで見開かれ、視線は行き場を失って右往左往している。


手にした、最高級の万年筆が、ポロリと指先からこぼれ落ちた。


カタカタと頼りない音を立てて書類の上を転がり、青いインクの染みが広がるが、ジークヴァルトはそれすら目に入らない。


完璧な王太子が、口を半開きにしたまま、耳の裏、そして首元まで真っ赤にして、文字通り「彫像」のように硬直していた。


その様子を、至近距離で、まじまじと観察していたエルリア。


エルリアは、営業スマイル(鉄壁の聖女の仮面)を一切崩さないまま、内心で信じられないような光景を見つめていた。


(……え。何、この反応?)


(あの、常に底知れない笑みを浮かべて私を盤上で弄び、楽しそうに追い詰めてくる、あの腹黒い男が、私の、簡単な営業テクニック一枚で、ここまで無防備に、子供のように真っ赤になって照れ惑っている……。うぶ。うぶすぎるわ……!)


いつも憎らしいほど完璧な彼が、自分だけに見せた、あまりにも劇的な崩壊。


(なにこれ、ちょっと面白いじゃないの。……それに、少し……可愛いわね)


いつも冷徹なはずのジークヴァルトの、そのあまりの「ギャップ」に、エルリアの胸の奥が、不意にドクン、と熱く鳴った。


一デナリの利益にもならないはずの、想定外の鼓動。


だが、エルリアは自身の顔色を一切変えることなく、その「ときめき」すらも冷徹な勝機へと変換する。


(これは……完全に主導権を握ったわ!あの腹黒王太子といえど、この私の卓越した営業術の前には、ただの赤面するお坊ちゃまに過ぎないということね。勝てるわ、このプロモーション計画、私の完全勝利で終わらせてみせる!)


先に限界を迎えたのは、ジークヴァルトだった。


ガタタッ!と、椅子を激しく蹴るようにして、彼は立ち上がった。


「き、君の報告は……確かに、受け取った!」


普段の威厳ある低音はどこへやら、完全に上ずった、情けない声だった。


「そ、その予算は、全て、承認する!今日の公務は……これで終了だ!下がってくれ!」


ジークヴァルトは、エルリアから完全に目を逸らしたまま、長い足を大股に動かした。


「私には、急な……頭を冷やす、いや、別の急用ができた!」


そう言い残すと、背中を向け、逃げるような早足で、執務室を飛び出していってしまった。


一人、執務室に取り残されたエルリアは、フッと勝利の微笑みを深くした。


「本当に、急用ができてしまいましたわね。おいたわしいこと……」


口では慈悲深い聖女のセリフを吐きながら、エルリアは、インクで汚れた、しかし「承認」のサインがなされた書類を、大事に鞄にしまった。


その指先は、なぜかいつもより僅かに熱を帯びていたが、彼女はそれを「勝利の興奮」として処理した。


「初期の反応テストとしては、期待以上の大金星ね。これでルカの来期の特別指導費も合法的に還流できるわ。さて、次のフェーズの仕込みを始めましょうか」


エルリアは、圧倒的な優越感と余裕を湛えたまま、静かに執務室を後にした。


一方。


王太子宮の廊下で、ジークヴァルトは、冷たい大理石の壁に額を押し当てていた。


「ハア、ハア、……くそ」


激しく波打つ心臓の音を、必死に宥めようと呼吸を整える。


そこへ、背後から足音が近づいてきた。


「殿下。少々……『特等席での見物』どころではなかったご様子ですが、大丈夫ですか?」


ハインツが、全く心配していない、からかうような声で話しかける。


ジークヴァルトは、壁に頭を押し当てたまま、ハインツを鋭く睨みつけた。


だが、その顔は、まだ耳の裏まで真っ赤に染まったままである。


「うるさい、ハインツ。……あいつは、あざとすぎる。……反則だ、あんなものは……」


完璧な狩人が、エルリアの圧倒的な営業アプローチと、その完璧な「余裕の美貌」に、完全に敗北した瞬間だった。

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