第21話:完璧な包囲網と、聖女のポンコツな恋心研究
後宮の無駄だらけの予算帳簿に大ナタを振るい、完全に王宮の金庫の仕組みを掌握してから数日後。
エルリアは、「婚約者候補」専用の豪奢な客室のデスクで、頭を抱えていた。
「……どういうことなの、これは」
目の前に広げられているのは、実家のアシュレイ家から届いた、分厚い手紙の束である。
父アルベルトからの手紙には、震えるような喜びの文字が躍っていた。
『愛するエルリアへ。なんと昨日、王太子殿下から我が家に、東方産の最高級の茶葉と、見たこともないような素晴らしい血統の名馬が贈られてきたのだ! 殿下は「アシュレイ領の視察の際、ぜひこの馬で案内してほしい」と仰ってくださった。なんという気さくで、海より深い御慈悲をお持ちの方だろうか!』
さらに、エルリアがこの世で最も愛する弟、ルカからの手紙。
『お姉様。ジークヴァルト殿下から、王立学院でも手に入らない最新の魔導工学の専門書と、とても優しいお手紙をいただきました。殿下は「将来、義兄として君の成長を見るのが楽しみだ」と書いてくださっていました。殿下は本当に、お姉様にふさわしい素晴らしいお方ですね!』
「…………っ!!」
エルリアは、手紙を強く握り締め、ワナワナと震え出した。
(あの……あの腹黒王太子いいぃぃっ!!)
エルリアの脳内で、凄まじい怒りのアラートが鳴り響く。
(私を王宮に閉じ込めるだけじゃ飽き足らず、お父様とルカにまで直接手を出して、完全に手懐けてるじゃない! 贈り物で恩を売り、親しげな手紙で『将来の家族』アピールをして、実家の外堀を完璧に埋め尽くしてる……!)
これでは、もしエルリアが「やっぱり婚約者候補を辞退して実家に帰ります」と言い出したとしても。
完全に殿下の信者と化した父やルカが、「殿下のような素晴らしい方を悲しませるなんて!」と、逆にエルリアを説得(あるいは非難)する側に回ってしまう。
物理的にも、社会的にも、そして家族の感情的にも。
エルリアの逃げ道は、ジークヴァルトの過剰なまでの包囲網によって完全に塞がれようとしていた。
さらに最悪なことに、王妃イザベラからの「教育」も、最近は明らかに段階が変わってきている。
単なる能力のテストではなく、国家の重要機密や、王室の裏帳簿まで見せられ、本格的な「次期王妃としての実務の引き継ぎ」にシフトし始めているのだ。
(まずいわ。このままじゃ、本当にあの腹黒男と結婚して、一生この王宮の伏魔殿に縛り付けられてしまう!)
エルリアは、爪を噛み、超高速で脳内の算盤を弾き始めた。
(どうする? どうやってこの包囲網を突破する?)
ただ単に「王太子との婚約は辞退します」と言って破断にすることは不可能だ。
もしそんな真似をすれば、王妃イザベラが以前ちらつかせていた、あの『辺境の有力貴族(辺境伯)への強制的な政略結婚』のルートが即座に復活する。
(ルカのいる王都から遠く離れた、雪深い辺境に飛ばされるなんて絶対に嫌よ! 私の人生の目的は、ルカの成長を一番近くで見守り、ルカの結婚式で号泣することなんだから!)
辺境への降嫁を完全に回避し、かつ、ジークヴァルトの手からも逃れて実家(ルカの傍)に帰る。
そのためには、王妃も、他の貴族たちも、決してエルリアに手出しができなくなるような、絶対的な「大義名分」が必要不可欠だった。
「……そうよ。ただ破局するだけじゃ駄目なのよ」
エルリアの瞳に、冷徹な政治家としての光が宿る。
「『王太子と大恋愛の末に、国と殿下の未来を思って、涙ながらに身を引いた悲劇の聖女』になるしかないわ」
あんなに王太子を深く愛していたのに、自ら身を引いた可哀想な聖女。
世論がそう同情してくれれば、王妃も無碍に辺境へ追放するような非道はとれない。他の貴族たちも「王太子にそこまで狂おしい恋をした女」には、恐れ多くて縁談を持ちかけられなくなる。
(これしかない。……大恋愛からの、円満破局作戦よ)
エルリアは羊皮紙を引き寄せ、ペンを走らせた。
(出口戦略……つまり、王妃様に破局を納得させる『完璧なロジック』の構築が必要ね。私がただ我慢できなくて逃げ出したと思われては駄目)
一つ目は、財政的な不安。
(子爵家の私では、将来国庫を支える莫大な持参金が用意できない事実。まあ、これは聖女派閥の令嬢たちが寄付でどうにかしてくれそうだけど、一応もっともらしい理由の一つとして積み上げておくわ)
二つ目は、健康状態の懸念。これこそが本命だ。
(絶食と極端な睡眠不足を意図的に作り出して、王族派だけでなく、あえて保守派の医者たちにも私を診察させるのよ)
エルリアの口角が、ドス黒く吊り上がる。
(保守派の医者なら、自派閥の令嬢を王妃にしたいという明確な思惑がある。私が意図的に作り出した栄養失調と疲労の数値を見れば、彼らは嬉々として『この娘は虚弱体質で、王妃の激務や世継ぎの出産には到底耐えられない』と、針小棒大に王妃様に報告してくれるはずよ。……もちろん、一過性の体調不良だとバレて再検査されないように、長期間にわたって綿密な高度な自己管理(演技)が必要になるけれど)
そして三つ目、トドメの究極の自己犠牲。
(これらの証拠を揃えた上で、私が王妃様に泣きつくの。『殿下を愛せば愛するほど、私の身分と不甲斐ない身体が殿下の重荷(他派閥からの攻撃材料)になってしまう。身分をねじ伏せようと無理をする殿下を見るのが一番辛い。愛しているからこそ、身を引かせてください』とね)
ペンを置き、エルリアは自身の構築したプランを見下ろした。
(完璧だわ)
これなら王室の面子を最大級に立て(不敬罪の回避)、保守派も「身分を弁えた」と納得し、ルカの傍に居続けることができる。
「よし。出口(破局の理由)は完璧に出来上がったわ。あとは実行に移すだけ……」
そこまで呟いて。
エルリアは、ピタリと動きを止めた。
「……問題は、入口ね」
出口戦略は、何一つ文句のつけようがない。
だが、そのプランを成立させる大前提となる「入口」。
すなわち、「王太子と大恋愛をして、心底愛し合っているように見せかける(既成事実を作る)」方法が。
生まれてからこの方、算盤ばかり弾いて生きてきたエルリアには、まったく、これっぽっちも、一ミクロンも分からなかったのである。
「……大恋愛って、具体的に何をすればいいのよ?」
エルリアは真顔で虚空に問いかけた。
ジークヴァルトからの過剰なアプローチや贈り物は、すべて「有能な手駒を利用するための罠(腹黒い政治的手段)」だと完全に割り切っているため、彼女の心に胸のときめきなど一切存在しない。
エルリアは立ち上がり、こっそりと隠し持っていた一冊の本を取り出した。
それは、最近王宮の侍女たちの間で大流行している、大衆向けの恋愛小説だった。
ページをめくり、主人公と王子の甘いシーンに目を通す。
『ああ、星空の下で、二人は見つめ合い、永遠の愛の詩を詠み交わした……』
「却下。非現実的すぎるわ」
エルリアは無表情で本を閉じた。
「夜風に当たって風邪を引いたら医療費がかかるし、何の実利も生み出さない詩を詠むなんて、時間と経費の無駄よ。こんなの参考にならないわ」
恋愛偏差値が完全にマイナスに振り切れているエルリアは、腕を組んで唸った。
そこへ、ノックの音と共に、専属メイドのリーゼがお茶を運んできた。
「失礼いたします、エルリア様。お疲れのようですね」
(そうだわ、リーゼ! 彼女はずっと殿下の側に仕えているんだもの。殿下の好みを一番知っているはずよ)
エルリアは、できるだけ自然を装い、お茶を受け取りながら上目遣いで尋ねた。
「あの、リーゼ。……殿下は、どのような……その、女性の振る舞いがお好みなのかしら? わたくし、少しでも殿下のお心に寄り添いたくて」
リーゼは、お茶を注ぐ手を一瞬ピタリと止めた。
そして、目の前の子爵令嬢が「本気で殿下を落とそうと(あるいは何か別の思惑で)距離を詰めようとしている」ことを察し、内心で猛烈に面白がった。
(あの鉄面皮の殿下が、エルリア様に攻め込まれてどんな顔をするか……これは、極上の見世物になりそうですわね)
リーゼは、あくまで真面目なメイドの顔を取り繕い、恭しく頭を下げて言った。
「そうですね……。殿下は普段、隙のない完璧な女性ばかりに囲まれておりますゆえ、逆に『押しの強い女性』には免疫がございません」
「押しの強い女性……」
「ええ。小賢しい駆け引きよりも、物理的な距離をグッと詰めて、少し上目遣いで、甘い声で寄り添うのが……殿下の心の防壁を崩すには、最も効果的かと存じます」
リーゼは、半分冗談で、適当なアドバイスを吹き込んだ。
しかし。 長年ジークヴァルトに仕えてきたリーゼのこの「適当なアドバイス」こそが、常に理性を保ち、あらゆる他者を盤上の駒として見下してきたジークヴァルトにとって、最もあっさりと心臓を貫通してしまう『クリティカルな絶対的弱点』であることに、この時のリーゼ自身も、まだ気づいていなかった。
そして、恋愛偏差値ゼロのエルリアもまた、このアドバイスを完全に誤った方向で解釈していた。
(なるほど! 物理的距離の縮小と、上目遣いの甘い声ね!)
エルリアの脳内で、パチンと音が鳴った。
(それって、領地が飢饉の時に、私が王都の裕福な商人たちから寄付を募るために使っていた『同情と愛着を引くための営業テクニック』の応用じゃない! なんだ、恋愛って言っても、結局は人を取り込む交渉術と同じなのね。それなら得意分野だわ!)
大真面目に、そして致命的な勘違いを確信したエルリアは、深く頷いた。
「ありがとう、リーゼ。とても参考になったわ」
***
その日の夜。
エルリアは自室の姿見の前に立ち、一人で「甘い攻撃」の猛特訓をしていた。
「ジークヴァルト様ぁ……」
少し首を傾げ、距離を詰めるように一歩踏み出し、上目遣いで甘い声を出す。
(少し声のトーンが高すぎたかしら? いや、寄付を渋る強欲な商人(殿下)から金を引き出すには、これくらいあざとい方が効果的なはずよ。……よし、明日の執務室での報告の場で、さっそくこの『甘い攻撃』を仕掛けて、大恋愛の既成事実を作ってやるわ!)
本人は完璧な「恋する乙女」だと思っているが、その目は完全に「獲物を狩る守銭奴」のギラギラとした光を放っていた。
一方、その頃。
王太子宮の執務室。
夜遅くまで書類仕事を進めるジークヴァルトの前に、リーゼが楽しげな報告を行っていた。
「殿下。エルリア様が、殿下のお好みの女性の振る舞いを熱心に探っておいででしたよ。どうやら、本格的に殿下との距離を縮めようと、あれこれ画策しているご様子です」
「……ほう」
ジークヴァルトのペンが止まり、その整った唇に、余裕に満ちた冷徹な笑みが浮かんだ。
「そうか。あの計算高い小娘も、私が家族まで完璧に包囲網を敷いたことで、ついに逃げ道を諦め、自ら私に擦り寄ってくる気になったというわけだ」
「ええ。明日の報告の場が、楽しみですね」
「ああ。彼女がどのような小賢しい演技で私の気を引こうとするのか、高みの見物とさせてもらおう」
ジークヴァルトは、フッと鼻で笑い、再び書類に目を落とした。
だが。
「自ら擦り寄ってくる」というリーゼの言葉を聞いた瞬間から。
ジークヴァルトの胸の奥で、彼自身も気づかないほど微かに、しかし確実に、心拍数が跳ね上がり始めていることを、彼はまだ認めていなかった。
互いに相手を出し抜き、自分の盤上でコントロールしてやると意気込む二人。
しかし、恋愛という全く未知の領域において、二人のベクトルは致命的にズレたままであった。
翌日の執務室。
二人の無駄に高度で、そして致命的にポンコツな「ラブコメ的頭脳戦」の幕が、ついに切って落とされようとしていた。




