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仮面の聖女 〜完璧な社交辞令と内心は一致しない〜  作者: tky
第2章:荒れ狂う政治の荒波

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第20話:聖女の断頭台と、王妃の戦慄

王太子専属メイドであるリーゼは、これまでの人生で、王宮の数多の優秀な文官や権力者たちを見てきた。

だからこそ、最初に王妃イザベラが「一ヶ月で後宮の予算を最適化せよ」と課題を出した時、リーゼは内心で冷ややかに予想していた。


(王宮の仕組みも知らない子爵令嬢に、一ヶ月でできるはずがない。数日で泣き言を言って、殿下に助けを求めるのが関の山だろう)


だが、その予想は、課題開始からわずか三日で完全に覆されることになった。


「リーゼ。こちらの束は『不要』です。シュレッダー……いえ、暖炉で処分しておいてくださいな」


「かしこまりました」


リーゼは、うず高く積まれていた書類の山が、見る間に消え去っていくのを無表情で、しかし内心では戦慄しながら見つめていた。


客室のデスクに向かうエルリアのペン捌きには、一切の迷いがなかった。

右手に持ったペンが恐ろしい速度で新しい帳簿の数字を埋め、左手で過去の請求書を次々と弾いていく。

その動きは、まるで精巧に作られたからくり人形のようだった。


(……中身の数字までは見えないが、あの手の動き。本当に子爵令嬢ですか? 財務省のベテラン官僚より手が早いのですが)


エルリアの視線は書類の上を滑るだけで、決して一点に留まることはない。

瞬時に必要な情報だけを吸い上げ、不要な経費を削ぎ落とし、新しい予算の枠組みを機械のように組み上げていく。

そこに「悩む」というプロセスは存在していなかった。


「……終わりましたわ」


四日目の午後。

エルリアはふうと小さく息を吐き、ペンを置いた。

彼女の目の前には、美しく製本された新しい後宮の予算帳簿ができあがっていた。


「お疲れ様でございます。では、王妃様に提出してまいりましょうか」


「いいえ。その前に、一つだけやっておかなければならないことがありますの」


エルリアは、春の陽だまりのような微笑みをリーゼに向けた。


「いつも美味しい紅茶を納入してくださっている『御用商人』の方を、こちらへお呼びいただけますか? ……少し、お礼が言いたくて」


***


一時間後。

エルリアの客室には、恰幅の良い中年の商人が、揉み手で愛想笑いを浮かべながら立っていた。

王室の御用商人として、後宮の茶葉を独占的に納入している男だ。


リーゼは壁際に控え、静かにお茶の給仕を行っていた。


「本日はお呼び立てして申し訳ありませんね。いつも素晴らしいお茶を、ありがとうございます」


エルリアは、出された紅茶を一口飲み、うっとりとした表情で微笑んだ。


「もったいないお言葉でございます、聖女様! 私どもの茶葉は、王宮の皆様のお口に合うよう、最高級のものを厳選しておりますゆえ!」


商人は得意げに胸を張った。

彼にとって、貴族というのは「値段など見ずに金だけを払う」都合の良い上客である。

特に後宮の女たちは、味よりもブランドや見栄を重んじる。少しばかり相場より高く……いや、相場の三倍で請求しても、これまで誰一人として文句を言う者はいなかった。


「ええ、本当に素晴らしいですわ。その深い香りと味わいに、わたくしもすっかり虜になってしまいましたの」


エルリアは悲しげに目を伏せ、手元のティーカップをそっとソーサーに置いた。


「……ですから、とても残念です。来月からは、仕入先を『マリス商会』に変更いたしますわ」


「は、はい。マリス商会へ……え?」


商人の愛想笑いが、ピタリと硬直した。


マリス商会といえば、王都でも庶民向けの安価な茶葉を大量に扱っている、薄利多売の業者である。


「お、お待ちください! なぜでございますか!? あのような下等な商会の茶葉など、王宮の皆様のお口には到底合いません! 品質なら、私どもは絶対に負けません!」


王室御用の肩書きを失うことは、商人にとって死活問題である。

他の貴族たちからの信用も失墜し、商会が傾きかねない。

商人は血相を変えてすがりついた。


エルリアは、商人を一切責めず、ただひたすらに悲痛な表情を浮かべた。


「ええ、わかっています。貴方のお茶は、誰にも負けないほど素晴らしいですわ。……ですが、わたくし、知ってしまったのです」


エルリアの大きな瞳から、ポロリと一筋の涙がこぼれ落ちた。


「この一杯の素晴らしいお茶のために、どれほどの民の血税が費やされているかと。……相場の三倍ものお値段がつけられたこのお茶を飲むたびに、貧しい領民たちの顔が浮かび、わたくし、胸が張り裂けそうになりましたの」


「っ……!」


商人は、心臓を鷲掴みにされたように息を呑んだ。

相場の三倍という不当な水増し請求。その事実を、この若き聖女は完全に把握していたのだ。

そして彼女は、それを「不正」だと責めるのではなく、「民への負担」として涙ながらに嘆いている。


「だから……質は落ちても、これからは安い茶葉で我慢いたしますわ。わたくしが我慢すれば、その分、民の生活が少しでも楽になりますもの。……今まで、本当にありがとうございました」


完璧な、そして残酷な決別宣言だった。


エルリアは一切の怒りを見せず、ただ「自分たちが贅沢を控える」という高潔な理由だけで、彼との契約を断ち切ろうとしているのだ。


ここで契約を切られれば、商会は終わりだ。

しかも「聖女様が、貴方たちの茶葉は高すぎて民が苦しむと嘆いておられた」などという噂が立てば、社会的に完全に抹殺される。


商人の額から、滝のような冷や汗が噴き出した。


「お、お待ちください聖女様!!」


商人は、その場に両膝をつき、床に頭を擦りつけた。


「そ、それなら……私どもの茶葉を、マリス商会と『同じ価格』で納入させてください!!」


壁際で控えていたリーゼの目が、わずかに見開かれた。

マリス商会と同じ価格。それはつまり、相場の三分の一……原価ギリギリの、利益などほとんど出ない破格の最安値である。


「まあ……。ですが、それでは貴方が損をしてしまいますわ。そのようなご無理は……」


エルリアは、心底心配そうに眉を下げた。


「無理などではございません! これは、私どもの王室への……そして領民への『奉仕』のつもりでやらせてください! どうか、どうか末長いお取引を!!」


商人は、涙目で必死に食い下がった。

利益が出なくとも、王室御用の看板さえ死守できれば、他の貴族からいくらでも搾り取れる。今はとにかく、この聖女の機嫌を損ねて契約を切られることだけは避けなければならない。


「……貴方がそこまでおっしゃるのなら。その尊き奉仕の心に免じて、これからもよろしくお願いいたしますわね」


エルリアは、花が綻ぶような、慈愛に満ちた聖女の微笑みを浮かべた。


「ありがとうございます! ありがとうございます聖女様!!」


商人は何度も頭を下げながら、逃げるように客室を退出していった。


静寂が戻った部屋の中で。

リーゼは、背筋を這い上がる悪寒をどうすることもできなかった。


(……見事だ)


一言も値切らず。

一切の強制もせず。

不正を暴いて脅すことすらしていない。


ただ「悲しんでみせた」だけで、相手の退路を完全に絶ち、自発的に最高の品を最安値で納入させる恒久契約をまとめ上げたのだ。


(殿下以上にえげつない。……この方は、ただの聖女の皮を被った、恐るべき怪物だ)


リーゼは、紅茶の香りが残る部屋で、主人がなぜこれほどまでにこの少女に執着するのかを、肌の底から理解していた。


***


五日後。

王妃イザベラの執務室。


イザベラは、リーゼを通じて提出された一冊の帳簿と書類の束を、無言で読み込んでいた。


室内には、紙をめくる音だけが響いている。


(……完璧ね。文句のつけようがない)


イザベラの冷徹な金の瞳が、帳簿の数字を追うごとに、かすかな驚愕に見開かれていく。


無駄な装飾費、不要なお茶会費、業者の見直し。

一ヶ月という猶予を与えたはずの課題をわずか五日で終わらせただけでなく、後宮の維持費が見事に半減され、極限まで最適化されていたのだ。


どこにも隙はない。

これまでの悪習を断ち切り、無駄を削ぎ落とす、冷酷なまでに完璧な行政手腕。


「……大したものだわ」


イザベラは、思わず感嘆の溜息を漏らし、最後のページをめくった。


そこには、帳簿とは別に、一枚の美しい便箋が添付されていた。

タイトルには『余剰予算の活用に関するご提案』と書かれている。


イザベラの視線が、その文面を滑っていく。


『王妃様のご指導の下、後宮の皆様の涙ぐましい節約により、多くの余剰予算を捻出することができました。

しかし、この浮いた予算をただ国庫に戻すだけでは、妃殿下たちの尊いお心が世間に伝わりません。

そこで、この余剰予算を、ジークヴァルト殿下が主催される『国家慈善事業』へご寄付されてはいかがでしょう。

そうすれば、妃殿下たちが『民を救うために、自ら進んで贅沢を控えられた』と、後宮の皆様の素晴らしい名誉となりますわ』


「…………っ」


その文章を読み終えた瞬間。

イザベラの背筋に、氷を当てられたような戦慄が走った。


(……なんという小娘なの)


イザベラは、手にした便箋を机に置き、呆然と虚空を見つめた。


この提案は、王妃として、いや、政治家として「絶対に却下できない完璧な正論」だった。


後宮の女たちが自発的に節約し、慈善事業に寄付したとなれば、王室の威光と民衆からの支持は盤石なものとなる。

これを却下して国庫にただ戻せば、「王妃は妃殿下たちの名誉を奪い、慈善をないがしろにした」という汚名を被ることになる。


だが。

この提案を採用し、余剰予算を慈善事業に寄付すればどうなるか。


その慈善事業の『最高顧問』であり、予算の決裁権を握っているのは、他ならぬエルリア本人なのだ。


(つまり……彼女は、自分が管理する後宮の予算を削り、その浮いた金を、誰にも文句を言わせない『妃殿下たちの名誉』という大義名分を使って、合法的に自分の自由にできる事業枠へと移動させたということ……!)


イザベラは、思わず顔を覆い、くぐもった笑い声を漏らした。


「……ふっ、ふふふっ。ジークヴァルトが執着するわけだわ」


恐ろしい。

ただの賢い令嬢ではない。


「完璧な慈悲」と「他者の名誉」という鉄壁の建前を使い、王妃である自分にすら、自発的に予算を差し出させる状況を作り上げたのだ。

これはもはや、一種の芸術的な詐欺……いや、究極の政治である。


イザベラは、顔を上げ、王宮の窓から見える秋の空を見つめた。


「合格よ、エルリア・ヴァン・アシュレイ。……あなたは、間違いなくこの国を任せるべき、真の怪物だわ」


もし彼女を敵に回せば、国の金庫は骨の髄まで食い尽くされるだろう。

だが、味方に引き入れることができれば、これほど頼もしい存在はいない。


有能な王妃は、息子の選んだ「婚約者候補」の恐るべき器を完全に認め、口元に深い、そしてどこか楽しげな笑みを浮かべたのだった。

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