第19話:涙の別離と、王妃の試練
秋の冷たい風が、アシュレイ子爵家の古びた門扉を揺らしていた。
玄関前には、王宮から差し向けられた豪奢な迎えの馬車が停まっている。
エルリアがいよいよ「王太子の公式な婚約者候補」として、王宮へ住み込みの王妃教育へ向かう朝だった。
「お姉様……。お体に気をつけて」
見送りに立ったルカが、泣き出しそうなのを必死に堪えた顔で、エルリアの手にそっと触れた。
その小さな手は微かに震え、大きなエメラルドグリーンの瞳には、大粒の涙が浮かんでいる。
「僕、週末の面会日には、必ず王宮へ会いに行きますから……。どうか、無理をなさらないでくださいね」
「ありがとう、ルカ。貴方も、どうか健やかに……」
エルリアは、悲しげで慈愛に満ちた聖女の微笑みを浮かべ、ルカの頭を優しく撫でた。
だが。
その完璧な微笑みの裏側で、エルリアの精神は完全な大パニック状態に陥っていた。
(あああああああ! ルカ! 私のルカが泣いてる! 離れたくない! 離れたくないわ!!)
エルリアの内心で、数万の自分が血の涙を流しながら絶叫している。
(今日からルカの石鹸の匂いが嗅げなくなるなんて! 毎朝『おはよう』って言って頭を撫でてあげられないなんて、そんなの地獄よ! 私の魂の半分が、今日ここで死んでいくのね……っ!)
王宮での「婚約者候補」としての生活など、エルリアにとってはただの拷問でしかない。
愛する弟との尊い時間を奪われるという、この世で最も受け入れ難い「損失」なのだ。
だが、ここで泣き叫んで馬車に乗るのを拒否すれば、彼女は辺境の地に追放され、ルカとは二度と会えなくなってしまう。
ジークヴァルトが突きつけてきたあの悪魔の契約を、呑むしかないのだ。
「……待っていますわ、ルカ。私の誇り高き天使」
エルリアは、ルカの額にそっと別れの口づけを落とすと、振り向くことなく馬車へと乗り込んだ。
重厚な扉が閉まり、車輪が動き出す。
窓の外で遠ざかっていくルカの姿が見えなくなった瞬間。
エルリアは、分厚いクッションに顔を埋め、声を殺して咽び泣きそうになるのを必死に堪えた。
(……この悲しみと、ルカとの尊い時間を奪われた代償。絶対に、絶対にタダでは済まさないわ)
悲哀は、やがてドス黒い闘志へと変換されていく。
(私の心をこれほどまでにズタズタに引き裂いたんだもの。王宮の財布から、一デナリ残らず毟り取って、ルカの輝かしい未来の資金に変えてやるわ!! 覚悟なさい、腹黒王太子!!)
エルリアは、涙を拭い、決意の炎をその瞳に宿した。
***
王宮へと到着したエルリアが案内されたのは、「婚約者候補」専用に設えられた豪奢な客室だった。
天井には輝くシャンデリア、床には毛足の長い絨毯。
アシュレイ家の生活水準から見れば、息が詰まるほどの贅沢な空間である。
「ようこそおいでくださいました、エルリア様」
部屋の中央で、一人のメイドが完璧な礼で彼女を出迎えた。
以前の茶会や式典などで、ジークヴァルトの背後に静かに控えていた専属メイドである。
「直接お言葉を交わすのは初めてですね。私はリーゼ。殿下からの特命により、本日よりエルリア様の専属メイドを務めさせていただきます」
リーゼは、完璧だがどこか慇懃無礼な笑みを浮かべて自己紹介をした。
「……まあ。殿下の御側近でいらっしゃる貴女が、わたくしのお世話を?」
エルリアは小首を傾げて微笑んだ。
(特命ね。要するに、私が逃げ出さないための監視役であり、私の裏の顔を暴くための密偵というわけね。本当に、どこまでも性格が悪いわ、あの王太子)
瞬時に相手の役割を理解しつつも、エルリアの微笑みは崩れない。
「殿下の海より深い御慈悲に、心より感謝いたしますわ。有能な貴女が側にいてくだされば、この王宮での生活も、とても『効率的』に回せそうですわね」
エルリアは、あえて『効率的』という言葉に力を込めた。
(ただで監視されるつもりはないわよ。殿下の専属メイドという立場、王宮内の情報収集と実務の雑用として、骨の髄までこき使ってあげるわ)
その意図を正確に読み取ったのか、リーゼの目がわずかに見開かれ、やがて面白そうに口角が上がった。
「ええ、何なりとお申し付けくださいませ。……殿下も、エルリア様と『有益な関係』が築けることを、心より楽しみにされておりますので」
「まあ。わたくしもですわ」
ニコニコと笑い合う二人。
その空間には、すでにバチバチとした女同士の、そして主従の探り合いの火花が散っていた。
***
「……荷解きの最中に申し訳ありませんが、王妃様がお呼びです」
リーゼの案内で、エルリアは到着早々、王妃イザベラの執務室へと足を運ぶことになった。
(いよいよ、王妃様との直接対決ね。あの腹黒王太子の母親だもの、一筋縄でいくはずがないわ)
エルリアは気を引き締め、執務室の扉をくぐった。
部屋の奥のデスクに座っていたイザベラは、エルリアの姿を認めると、羽ペンを置いて冷徹な金の瞳を向けた。
ジークヴァルトと同じ、他者の本質を射抜くような鋭い視線だ。
「よく来ましたね、エルリア・ヴァン・アシュレイ」
「ごきげんよう、王妃様。お目にかかれて光栄に存じます」
エルリアは、完璧な所作で深く頭を下げた。
「堅苦しい挨拶は不要よ。単刀直入に言うわ」
イザベラは、冷ややかな声で切り出した。
「あなたがジークヴァルトの執着を利用し、計算の上でこの『婚約者候補』の席に座ったことは理解している。……私には、息子のような甘い幻想はないわ。あなたが純真無垢なだけの聖女だなどと、微塵も思っていない」
そのストレートな言葉に、エルリアは内心で舌を巻いた。
(さすがは王妃様。私の仮面の奥の『本質』を、完全に見抜いているのね。これぞ上に立つ者の器だわ。どこぞの腹黒王太子とは大違い)
「ですが、王宮に長居したいのであれば、ただ慈悲を振りまく『聖女』の仮面と、小手先の計算だけでは不十分よ」
イザベラは、デスクの上に置かれていた、辞書のように分厚い何冊もの本を、ドンッ!とエルリアの目の前に積み上げた。
「……王妃様、これは?」
「王妃教育の第一歩よ」
イザベラが示したのは、マナーや歴史、礼法などの教本ではなかった。
それは、膨大な数字が書き込まれた『後宮の予算帳簿』だった。
「次期王妃に最も求められるのは、飾り物の美しさではなく、この広大な国家の家計(予算)を管理・統括する能力。……この無駄だらけの後宮予算を、一ヶ月で最適化し、私に具体的な改善案を提出して見せなさい」
王妃の言葉は、絶対的な宣告だった。
「できなければ、あなたは王妃の器ではないと判断し、容赦なく辺境の地へ追放するわ」
単なる嫁いびりなどではない。
これは、エルリアが「国を任せるに足る有能な管理者か」を見極めるための、極めて実務的で冷徹なテストだった。
***
自室に戻ったエルリアは、机の上に積み上げられた分厚い後宮の予算帳簿を前に、深いため息をついた。
(王妃教育が、ただの経理事務!?)
最初はそう呆れていたエルリアだったが、ページをパラパラとめくり、そこに記載されている数字の羅列を目にした瞬間。
彼女の瞳から「悲劇の聖女」の色が完全に消え去り、代わりに「冷徹な商人」のギラギラとした光が宿った。
「……まあ。なんて、痛ましいことでしょう」
エルリアは、悲嘆に暮れたような声で震えるように呟いた。
「どうなさいました、エルリア様?」
控えていたリーゼが訝しげに覗き込むが、エルリアは帳簿から目を離さない。
「ご覧なさい、リーゼ。この後宮のお茶会にかかっている経費……。市場価格の三倍もの金額で請求されておりますわ。この業者は、王室の寛大なお心を悪用して、不当な利益を得ているのではありませんか?ああ……この無駄に支払われた金貨があれば、どれほどの貧しい民が冬を越せたことでしょう……っ!」
エルリアは胸の前で固く手を組み、憂いに沈んだ聖女の顔で天を仰いだ。
しかし、その内心では業火のごとき怒りが荒れ狂っていた。
(ふざけるな!なにこの無駄遣いの嵐!!高位貴族の令嬢たちや妃殿下たちが、一体どれだけ無意味な装飾品とお茶会に予算を食い潰してるのよ!?完全に業者に中抜きされてるじゃない!!)
エルリアの脳内で、超高速の算盤が弾き飛ばされていく。
王宮の後宮予算は、アシュレイ領の予算などとは比べ物にならないほど莫大だった。 そして、その莫大な予算が、驚くほどずさんな管理と「貴族の付き合い」という名目で、滝のように無駄に流出していたのだ。
(許せない……!私が毎日、一デナリの端数まで計算してジャガイモをかじっているというのに、この歩く散財装置どもは、こんなに莫大な金をドブに捨てているというの!?)
怒りでワナワナと震えそうになったエルリアだったが。
次の瞬間、彼女の頭の中に、悪魔的で、そして極めて合法的な閃きが降りてきた。
(……待って)
エルリアの口角が、ゆっくりと、そしてドス黒く吊り上がっていく。
(これを、私が最適化して『浮いた予算』を作ったとしたら?王妃様は、その浮いた予算を『適切に処理せよ』とおっしゃるはず)
エルリアは、ジークヴァルトから強引に手渡された『国家慈善事業・最高顧問』の決裁印を思い出した。
(無駄な後宮予算を削り、その浮いた莫大な余剰金を、私が権限を持つ『国家慈善事業の支援枠』へと合法的に振り替える……。そして、その事業の中から、ルカの教育支援金やアシュレイ領の治水工事の費用として正当に支出させる……!)
私腹を肥やす横領ではない。
これは、無駄をなくし、必要な場所(主に実家と弟)へと資金を再分配するという、極めて真っ当な「権力の活用」である。
「……ふふっ」
ルカと離れ離れになったあの悲しみが。
今、莫大な王宮の予算を合法的に操作し、中抜きできるという歓喜によって、完全に上書きされていく。
「リーゼ」
エルリアは、悲嘆の涙をそっとハンカチで拭い、顔を上げた。
「殿下からの貴重な贈り物である決裁印を、こちらへ。……それと、集中して『お祈り』を捧げたいので、少しの間、一人にしてくださるかしら」
「かしこまりました。お紅茶が冷める頃に、また伺います」
リーゼが完璧な礼をして退室し、扉が静かに閉まる。
足音が完全に遠ざかったのを確認した瞬間。
エルリアは、決裁印を手に取り、積み上げられた帳簿を獲物を見るような目で見据えた。
「上等よ。王妃様からの挑戦状、受けて立とうじゃないの」
エルリアの瞳に、守銭奴としての恐るべき闘志が燃え盛る。
「この王宮の伏魔殿の金庫、神の御心に従い……私が一デナリの無駄もなく、完全に掌握してあげるわ……っ!」
悲しみに暮れる無力な小羊は、もはやそこにはいない。
王宮の財政を食い尽くそうとする、強欲な聖女の快進撃が、今ここに幕を開けようとしていた。




