第18話:悪魔の契約更新と、逃げ場なき公式発表
ガタゴトと、車輪の音が単調に響く馬車の中。
『もう、待つつもりはない。君がどこにも逃げられないよう、すべてを塞ぐことにした』
ジークヴァルトの、その低く冷酷な宣言を聞いた瞬間、エルリアは自身の防衛本能が最大級の警鐘を鳴らすのを感じた。
(な、なにを言っているの、この人は……っ!? すべてを塞ぐ!?)
エルリアの背筋を、嫌な汗が伝う。
相手は、この国の第一王太子だ。彼が本気になれば、アシュレイ子爵家など指先一つで潰せる。
だが、ここで怯えて引き下がれば、完全に相手のペースに呑み込まれてしまう。
エルリアは震えそうになる手をスカートの布地ごと強く握り締め、必死に「完璧な聖女の微笑み」を貼り付けた。
「殿下……。恐れながら、わたくしには殿下のお言葉の意味が、よくわかりませんわ」
エルリアは、ひどく困惑したように小首を傾げた。
「わたくしはただ、神のお導きと殿下の御慈悲のもと、微力ながらも慈善事業に邁進するのみ。殿下の御心を煩わせるような大それた立場など、微塵も望んではおりませんのに……」
「まだ、そんな空虚な建前で逃げ切れると思っているのか」
ジークヴァルトの声が、車内の空気を一段と凍らせた。
彼は腕を組んだまま、氷水色の瞳でエルリアを真っ直ぐに射抜く。
「君を自由に泳がせて、敵対派閥への牽制カードにさせるような生ぬるい遊びは、もう終わらせる。……私には、時間が残されていないのだ」
「時間……?」
「ああ。君が私から適度な距離を置き、見事に敵対派閥の茶会に出席したことで……私の母上(王妃)が、君を『王室への脅威』と見なして、直接動き出したからだ」
「おうひ、さまが……っ!?」
エルリアの心臓が、ドクンと跳ねた。
この国において、王妃イザベラはジークヴァルト以上に冷徹で、感情よりも政治的合理性を重んじる恐ろしい権力者として知られている。
その彼女の目に止まってしまったという事実は、エルリアにとって最悪のシナリオだった。
「母上は、君が保守派閥に取り込まれる前に、王室の力で君を強制的に『回収』するおつもりだ。……具体的に言えば、君を王家に絶対の忠誠を誓う東部の辺境伯の嫡男へ、強制的に政略結婚させる計画が進んでいる」
「っ……!!」
エルリアの顔面から、スッと血の気が引いた。
「辺境伯に嫁げば、君は帝都から遠く離れた過酷な地へ送られることになる」
ジークヴァルトは、身を乗り出し、エルリアの恐怖を煽るように低い声で続けた。
「それはつまり、君が今まで命を懸けて守ってきたアシュレイ家の実権と、帝都における資金調達のルートを完全に失うということだ。優秀な弟君は王都の学院の特待生として残れるだろうが、君だけが彼から切り離され、遠く離れた雪深い辺境へと追放される。……それが、どれほどの『損失』か、君の聡明な頭脳なら理解できるだろう?」
ジークヴァルトは、確信していた。
常に損得勘定で動き、「損失」を何よりも嫌う強欲な彼女にとって、帝都の利権と権限をすべて奪われることは、社会的な死に等しいと。
これは、彼女を屈服させるための、最も合理的で完璧な脅しのはずだった。
しかし。
エルリアの脳内では、ジークヴァルトの予想を遥かに超える、パニックと大絶叫が巻き起こっていた。
(辺境に追放!? 王都の利権を失う!? そんなこと、どうだっていいわよ!!)
エルリアの頭の中には、「利権」や「資金ルート」という言葉は微塵も残っていなかった。
彼女の頭の中を完全に支配したのは、ただ一つの、最も恐ろしい事実だけだった。
(ルカが王都に残って、私だけが辺境!? 嘘でしょ!? そんなの絶対に嫌!!)
ルカと離れ離れになる。
あの愛らしく、尊く、天使のような弟の成長を、これからは手紙でしか知ることができない。
朝起きて「おはよう」と声をかけることも、眠る前に頭を撫でてあげることもできなくなる。
(ルカのいない人生なんて、生きてる意味がないじゃない!! そんなの、損失どころの話じゃないわ、私の魂が死ぬわ!!)
エルリアは、あまりの恐怖と絶望に、本気で顔を真っ青にして小刻みに震え始めた。
その目には、今にも零れ落ちそうな本物の涙が浮かんでいる。
「……随分と、堪えたようだな」
ジークヴァルトは、エルリアの激しい動揺を見て、自身の「脅し(利権の喪失)」が完璧に機能したのだと勘違いし、酷薄に唇を歪めた。
「安心しろ。私としても、君のような有能な駒を辺境の田舎貴族にくれてやるつもりは毛頭ない。……だから、解決策を提示してやろう」
ジークヴァルトは、獲物を追い詰めた狩人のように、絶対的な自信に満ちた声で宣告した。
「母上の手から君を守り、帝都での君の権限と……弟君の未来を維持するためには、私が君を公式に『囲う』しかない」
「……殿下?」
「私の、『公式な婚約者候補』になれ」
その言葉が落ちた瞬間、馬車の中に息苦しいほどの静寂が満ちた。
「……っ、何を、おっしゃっているのですか」
エルリアは、震える声で反論した。
「わたくしは、ただの子爵令嬢です。王太子の正室の座を争う『婚約者候補』など、家格の面で到底許されるはずがありません! 王妃様が、そのような理不尽を認めるはずが……」
「以前の君であれば、不可能だっただろうな」
ジークヴァルトは、余裕の笑みでエルリアの言葉を遮った。
「だが、今の君には、君自身が意図せず作り上げた『聖女派閥』という、国内最大級の政治的な後ろ盾がある。侯爵家や伯爵家の令嬢たち、そしてその後ろにいる大貴族たちが、君を狂信的に支持しているのだ」
「っ……」
「身分差の壁は、もはや消滅しつつある。母上も、次期王妃の選定試験という名目で、君を『候補』として承認せざるを得ない状況なのだよ」
退路は、完璧に断たれていた。
エルリアは、自分の預かり知らないところで暴走した信者たちの顔を思い浮かべ、激しい眩暈を覚えた。
あの狂信者たちのせいで、自分は文字通り、王太子の手のひらの上に完全に固定されてしまったのだ。
「選べ、エルリア」
ジークヴァルトの声が、優しく、しかし有無を言わさぬ圧力でエルリアを包み込む。
「『婚約者候補』となれば、王妃教育という名目で王宮に住み込みで滞在することになる。だが、特権として、弟君の王立学院への進学と、特待生としての身分は私が完全に保証しよう。……辺境へ追いやられすべてを失うか、私の隣で権力を握るか。どちらだ?」
(王宮に住み込み……!?)
エルリアの内心で、最後の絶望の鐘が鳴り響いた。
王宮に住み込むということは、実家のルカと過ごす時間が激減するということだ。
(毎朝のルカとの朝食も、休日に一緒にお庭を散歩する時間も奪われるなんて……! 私の数少ない癒やしの時間が削られるなんて、最悪よ!!)
だが。
それでも。
(辺境送りにされて完全に引き離される地獄に比べれば、帝都に留まって、たまの面会日だけでもルカに会えるだけ、何百倍もマシだわ……っ!)
エルリアは、究極の二択を前に、ついに覚悟を決めた。
彼女は、震える両手を膝の上で強く握り締め、深く、長く深呼吸をした。
そして、ゆっくりと顔を上げ、ジークヴァルトを真っ直ぐに見つめ返した。
その顔には、絶望も、恐怖も、もう微塵も残っていない。
そこにあったのは、この世のすべての試練を慈愛で受け入れるような、神々しいまでに完璧な「聖女の微笑み」だった。
「……辺境の過酷な地で、貧しき人々のために祈りを捧げるのもまた、尊き神の道でございましょう」
エルリアの声は、鈴を転がすように清らかで、悲しげだった。
「ですが……殿下の御側で、この国の未来を案じ、微力ながらも尽くすことが神の御心であり、また、愛する家族の平穏に繋がるのであるならば」
エルリアは、スッと目を伏せ、従順に頭を垂れた。
「わたくしは、その重き試練……謹んで、お受けいたしますわ」
完璧な建前だった。
ただ権力や金に屈するのではなく、あくまで「神の試練」と「家族への愛」という大義名分のもとで、王太子の要求を呑んだのだ。
(やってやろうじゃないの……!!)
しかし、恭しく頭を下げるエルリアの内心では、凄まじいまでのドス黒い闘志が猛烈に燃え上がっていた。
(ルカとの完全な別離を回避するためなら、王宮の伏魔殿だろうと、王妃の苛烈な教育だろうと、泥水を啜ってでも生き抜いてやるわ! そして、私のルカとの貴重な時間を奪った代償として……この腹黒王太子の財布の底が抜けるまで、一デナリ残らずしゃぶり尽くしてやるから覚悟なさい!!)
エルリアのその黒い闘志に気づくことなく。
ジークヴァルトは、ついに手に入れた「獲物」を見下ろし、極上の喜悦に満ちた獰猛な笑みを浮かべた。
「ああ。歓迎しよう、私の婚約者殿」
あえて『候補』という言葉を外し、ジークヴァルトがエルリアの華奢な手を取る。
公式にはまだ候補の一人に過ぎない。だが、彼にとっては他の令嬢が選ばれる余地など最初から存在しなかった。これは彼が、彼女を完全に自らの盤上に縛り付けたという、絶対的な勝利宣言だった。
その手の甲に熱い口づけを落とし、彼は獰猛に目を細めた。
「これで、もう二度と……君を逃がすことはない」
ガタゴトと揺れる馬車の中。
「愛する弟との時間を守るために、王太子の財布を狙う強欲な聖女」と。
「有能な人材を囲い込んだと信じている、執着に狂った狩人」。
互いの真意が完璧にすれ違ったまま。
二人の、逃げ場のない「悪魔の契約」が、今ここに完全な形で成立したのだった。




