第17話:虎の穴と、乱入する狩人
王宮から馬車で三十分ほど下った先にある、ヴァルター公爵家の広大な邸宅。
その見事な幾何学模様の庭園に設けられた茶会の席は、まるで一幅の絵画のように優雅で、そしてむせ返るほどの毒気に満ちていた。
「エルリア様。この度は国家慈善事業の最高顧問へのご就任、誠におめでとうございますわ」
「孤児院の慰問から始まり、ついに王室の重責を担われるとは。アシュレイ子爵家のご令嬢は、本当に慈悲深く、そして……『お目が高い』のですね」
扇の陰から向けられる、幾十もの鋭い視線。
集まっているのは、ヴァルター公爵を筆頭とする反王太子派閥の夫人や令嬢たちだ。
彼女たちの言葉の端々には、「王太子に取り入って上手く立ち回ったわね」という皮肉と、「こちら側に引き込んで利用してやろう」という値踏みの色が濃厚に滲んでいる。
「もったいないお言葉ですわ。すべては神のお導きと、殿下の海より深い御慈悲によるもの。私個人の力など、取るに足らないものです」
エルリアは、完璧な聖女の微笑みを貼り付けたまま、紅茶のカップを優雅に傾けた。
(この屋敷の調度品……庭に置かれたあの壺を一つ売るだけで、アシュレイ領の冬の備蓄が倍になるわね)
内臓が縮み上がるようなアウェー空間だが、決して怯むわけにはいかない。
ここで少しでも隙を見せれば、彼女たちは容赦なくアシュレイ家を食い物にしようと牙を剥くだろう。
「謙遜なさらずとも。……そういえば、弟君のルカ殿の件、我が公爵家からの申し出はお気に召しませんでしたか? 有能な若者を支援するのは、貴族としての当然の務め。決して悪いようにはいたしませんのに」
場を仕切るヴァルター公爵夫人が、核心を突いてきた。
さらに、夫人の隣には、身なりの良い上品な青年が座っている。
公爵の分家の令息だ。先日妻と死別したばかりだという彼をわざわざ同席させている意図は、火を見るよりも明らかだった。
周囲の空気が一瞬、張り詰める。
(来たわね……!)
エルリアは心の中で深く息を吸い込み、表向きは困ったように、けれど凛とした声で答えた。
「公爵家からの身に余るお心遣い、ルカ共々、心より感謝しております。ですが、私は現在、国家の慈善事業という公的な立場に身を置いております」
エルリアは姿勢を正し、澄んだ瞳で夫人を見つめ返した。
「特定の家門から個人的なご支援を賜ることは、公爵家にあらぬ疑いをかけさせる原因にもなりかねません。それは、ルカの未来を案じてくださる公爵家の高潔な御心に泥を塗る行為。……私には、到底できませんわ」
相手の顔を立て、感謝を示しつつ、付け入る隙を完全に塞ぐ。
政治的な駆け引きにおいて、これ以上ないほど完璧な防壁だった。
「……まあ。お若いのに、随分と立派なお考えをお持ちなのですね」
公爵夫人の目が、わずかに見開かれた。
ただの世間知らずの聖女か、金に目が眩む小娘か。そう思っていた相手が、見事な論理で公爵家の誘いを躱したのだ。
その瞳に、明確な警戒と「有能な駒」としての評価が宿るのを、エルリアは見逃さなかった。
(よし……! これで公爵家の面子を潰すことなく、適度な距離を保てる。ジークヴァルト殿下への牽制としても、これ以上ない最高の一手よ……!)
内心でガッツポーズを決めた、その時だった。
ざわっ。
庭園の入り口付近が、にわかに騒がしくなった。
何事かと夫人たちが扇を下ろした直後、茶会の空気が、物理的な圧力を伴って完全に凍りついた。
「……お楽しみのところ、突然の訪問を許してほしい」
そこに立っていたのは、数名の近衛騎士を背後に従えた、漆黒の軍服に身を包んだ男。
第一王太子、ジークヴァルト・フォン・ベルンシュタインだった。
「じ、ジークヴァルト、殿下……!?」
公爵夫人が顔面を蒼白にして立ち上がり、周囲の令嬢たちが一斉にドレスの裾をつまんで深いカーテシー(淑女の礼)の姿勢をとる。
エルリアも慌てて立ち上がり、頭を下げた。
(嘘でしょ!? なんでここに王太子が直接乗り込んでくるのよ!?)
エルリアの心臓が、早鐘のように打ち始めた。
私的な、しかも敵対派閥の茶会に、王太子が事前連絡もなしに現れるなど、前代未聞の異常事態だ。
奥の回廊から、報告を受けたヴァルター公爵が足早に姿を現した。
公爵は眉間に深い皺を刻みながら、慇懃に頭を下げる。
「殿下。……ここは私的な茶会でございますが、何か急な御用でしょうか」
公爵の声には、明確な非難と牽制が含まれていた。
いくら王位継承者といえど、他派閥の茶会に無断で乗り込むなど、マナー違反どころの騒ぎではない。
だが、ジークヴァルトの顔には、完璧で、そして氷のように冷たい笑みが張り付いていた。
「急な訪問を詫びよう、公爵。だが、私的であっても、ここには『国家慈善事業の最高顧問』がいる。彼女は現在、国庫の莫大な予算を動かす王室の重要人物だ」
ジークヴァルトの金の瞳が、公爵を、そして周囲の夫人たちを睥睨する。
「万が一にも、不測の事態があってはならない。ゆえに、私が直接『公務として』護衛に参じたまでだ。公爵邸の警備を疑うわけではないが……王室の財産を守るための、念のための措置だ。構わないな?」
(護衛!?)
エルリアは内心で絶叫した。
(ただの茶会に護衛なんて必要ないじゃない! 完全に強引な屁理屈よ! でも……公務として王室の事業責任者を守ると言われたら、公爵側も文句が言えないわ!)
公私混同の隙を一切見せない、誰にも反論できない公的な大義名分。
公爵はギリッと奥歯を噛み締めたが、「……殿下の御心のままに」と引き下がるしかなかった。
「理解してくれて感謝する。……さて」
ジークヴァルトは、ひれ伏す夫人たちを一瞥すらせず、まっすぐにエルリアへと歩み寄った。
そして、公爵の分家の令息が座っていた席の真横――エルリアのすぐ隣の椅子を自ら引き、当然のように深々と腰を下ろしたのだ。
「私がいれば、最高顧問も安心して茶会を楽しめるだろう。さあ、続けてくれ」
ジークヴァルトは優雅に足を組み、周囲に視線を向けた。
だが、その場にいる全員が理解していた。
王太子が少数の近衛騎士を従えて睨みを利かせている状況で、エルリアに婚約の打診や派閥への勧誘など、できるはずがない。
場は完全に制圧された。
「…………っ」
エルリアは、すぐ隣から放たれる圧倒的な威圧感に、冷や汗が止まらなかった。
ジークヴァルトの横顔からは、いつものような「ゲームを楽しむ余裕」は完全に消え去っていた。
あるのはただ、獲物を絶対に手放さないという強烈な所有欲と、息が詰まるほどの冷酷さ。
(はあ!? 私が牽制のカードとして使ったからって、なんで本人が直々に乗り込んでくるのよ!? 私という有能な手駒が奪われると思って焦ったの!?)
エルリアは、彼が自分に向ける感情を「恋愛感情」だとは微塵も思っていなかった。
彼女が感じ取ったのは、絶対的な権力者が自分の所有物を完璧に管理しようとする、冷酷で異常な支配欲。
(それにしても……なにこの本気の目……怖っ!!)
周囲の夫人たちが完全に萎縮して言葉を失う中。
ジークヴァルトが、ゆっくりとエルリアの方へ顔を寄せた。
彼から漂う上質な葉巻の香りが、エルリアの鼻腔を塞ぐ。
「……随分と楽しそうに泳いでいたな、エルリア」
誰にも聞こえない、エルリアの耳元だけの低い囁き。
「え……」
「だが、君の遊び時間は終わりだ」
ジークヴァルトの氷水色の瞳が、エルリアを真っ直ぐに射抜く。
その言葉に含まれた重い響きに、エルリアは息を呑んだ。
彼から立ち上る雰囲気は、もはや「面白い玩具をからかう王太子」のものではない。
確実に獲物の逃げ道を塞ぎ、息の根を止めるために一切の余裕を捨てた『本気の狩人』のそれだった。
公爵派閥の面前で、堂々と彼女への執着と「王室による囲い込み」を見せつけるという、最も強引で、最も効果的な物理的制圧。
エルリアの「適度な距離を保って甘い汁だけを吸う」という生存戦略が、今、根底から粉砕された。
豪華絢爛な虎の穴の中で、エルリアは声も出せず、ただ凍りつくように狩人の瞳を見つめ返すことしかできなかった。




