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仮面の聖女 〜完璧な社交辞令と内心は一致しない〜  作者: tky
第2章:荒れ狂う政治の荒波

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第16話:公爵の思惑と、狩人の焦燥

王宮の一角から遠く離れた、帝都の一等地。

広大な敷地を誇るヴァルター公爵邸の執務室は、重厚な葉巻の香りと、熟成されたブランデーの匂いに包まれていた。


「……くっ、ふははははっ!」


豪奢な革張りの椅子に深く腰掛けたヴァルター公爵は、手元にある最高級の便箋を読み返し、腹の底から愉快そうな笑い声を上げた。


彼の目の前には、保守派と呼ばれる反王太子派閥の重鎮たちが、顔を突き合わせて座っている。


「公爵閣下。アシュレイ子爵令嬢からの返信は、いかがでしたかな?」

「やはり、我が公爵家からの莫大な支援と、一族の令嬢との婚約話に飛びついてきましたか?」


重鎮たちが、期待に満ちた顔で身を乗り出す。

彼らにとって、今や世論を完全に掌握している「聖女エルリア」は、何としてでも自陣営の神輿として担ぎ上げたい最重要人物だった。


「いや。見事に断られたよ」


ヴァルター公爵が事もなげに言うと、重鎮たちの間にざわめきが走った。


「断られた、ですと!?」

「我々の厚意を無にするとは……! やはり所詮は子爵令嬢、政治の力学というものがわかっておらんのです! こうなれば、我々の力で徹底的に圧力をかけ……」


「待て待て、早まるな。……この手紙の文面をよく読んでみろ」


公爵は、ヒゲを撫でながらその手紙をテーブルの中央に置いた。


『わたくしは現在、国家の慈善事業を預かる公的な立場にございます。ゆえに、特定の派閥様からの個人的なご支援や金銭の授受は、いかなる理由があろうともお受けできません』


「……なんだこれは。建前ばかり並べおって。ただの聖女の綺麗事ではないか」


「最後まで読むのだ。彼女はこう続けている」


公爵の口角が、ニヤリと吊り上がった。


『ですが、国の未来を憂う公爵家様の尊いお志には、深く共感いたします。ご支援の件は辞退させていただきますが……ぜひ今度、公爵家主催のお茶会に伺わせてくださいませ。有意義な語らいができますことを楽しみにしております』


手紙を読んだ重鎮たちが、一瞬きょとんとし、やがてその言葉の「真の意味」を理解して息を呑んだ。


「おわかりかな?」


ヴァルター公爵は、手元のブランデーグラスをゆっくりと揺らした。


「後ろ盾のない子爵令嬢が、公爵家からの申し出を無下に突っぱねればどうなるか。当然、我々の報復を受けて物理的・経済的に潰される。……だから彼女は、我々のお茶会には喜んで顔を出して、我々の『面子』だけを完璧に立ててみせたのだ。敵対する意思はない、とね」


公爵の瞳の奥で、老練な政治家としての鋭い光が煌めく。


「その上で、『国家の最高顧問』という立場を最大の盾にして金銭の受け取りを拒否し、我々に対する『負債(恩義)』を作ることだけは完璧に回避した。……見事なものだ。ただの純真な聖女のふりをして、これ以上ないほど老獪な政治的綱渡りをしてのけたのだよ、あの小娘は」


「なるほど……!」


「我々の面子を立てつつ、首輪は嵌めさせない、と。しかし、彼女がお茶会に来るとなれば、社交界には『聖女が我々保守派と懇意にしている』という絶大なアピールになりますな!」


重鎮たちの顔に、再び獰猛な喜悦の色が浮かぶ。

エルリアを完全に支配下には置けなくとも、彼女が自分たちの茶会に顔を出すという事実だけで、十分に王太子に対する強力な牽制になるのだ。


「ああ。彼女は、我が派閥すらも己のバランスを保つための『重り』として使ってみせた。本当に、恐ろしく賢く、そして強欲な女だ。……ジークヴァルト殿下が血眼になって独占したがるわけだ」


ヴァルター公爵は、深く座り直し、窓の向こうの王宮を見据えた。


「さあ、お茶会の準備を進めろ。彼女を最高の礼遇で迎え入れろ。……あの余裕ぶった若き王太子殿下が、どんな顔をして焦るのか、見物させてもらおうではないか」


***


数日後。

王宮の広々とした回廊を歩いていたヴァルター公爵の前に、漆黒の軍服に身を包んだ青年が立ちはだかった。


「これは、ジークヴァルト殿下。ごきげんよう」


公爵は、慇懃に、そして全く隙のない動作で頭を下げた。


「ヴァルター公爵」


ジークヴァルトの低く、氷のように冷たい声が響いた。

その金の瞳は、公爵を真っ直ぐに、射抜くように見据えている。


「聞いたぞ。近々、公爵家で大規模な茶会を開くそうだな」


「ええ。領地の豊穣を祝う、ささやかな催しでございます。……何か、問題でも?」


「国家の慈善事業・最高顧問を、そのような私的な茶会に招くとは。公爵も随分と暇を持て余しているようだな」


ジークヴァルトの言葉は、静かでありながら、上位者としての絶対的な威圧感と、隠しきれない刃が仕込まれていた。


(ほほう……)


長年、泥沼の政治闘争を生き抜いてきた公爵は、その瞬間、王太子の瞳の奥に、ほんのわずかな「焦燥」と、ドス黒い「独占欲」が混じっているのを見逃さなかった。


(あの令嬢を自分の盤上だけで孤立させて支配しようとしたが、彼女に逃げ道を作られて焦っているな?……若い、若いな殿下。恋情か執着か知らんが、感情が表に出すぎている)


公爵は内心で嘲笑しながらも、優雅に微笑んだ。


「暇などと、とんでもございません。アシュレイ嬢のような慈悲深く、そして『聡明』な方と国の未来を語り合うことは、何よりの有意義な時間かと存じます。……殿下も、そう思われませんか?」


「……ああ、そうだな。彼女の『聡明さ』には、いつも驚かされる」


ジークヴァルトは、感情を押し殺した声で短く答え、そのまま公爵の横を通り抜けていった。


その背中を見送りながら、ヴァルター公爵は口元に皮肉な笑みを浮かべた。


「狩り場を広げすぎましたな、殿下。獲物は思いのほか、足が速いようですぞ」


***


バタンッ!


王太子宮の執務室に戻るなり、ジークヴァルトは手にした書類の束を、乱暴にデスクの上に放り投げた。


「……くそっ」


ジークヴァルトは首元のクラヴァットを引き剥がし、ギリッと奥歯を噛み締めた。

彼の思考は、エルリアのあの勝ち気な微笑みへの苛立ちと、計算外の事態に対する焦りで完全に支配されていた。


(公爵家の圧力に耐えきれず、完全に孤立して私に泣きついてくるはずが……。まさか『金は断り、敵対派閥の茶会には出席する』という逃げ道を選ぶとは!)


それは、エルリアがジークヴァルトの庇護を必要とせず、自らの政治的バランス感覚だけで見事に泳ぎ切ってみせたという証明だった。

しかも、敵対派閥をジークヴァルトに対する「牽制のカード」として利用するという、最高に腹立たしく、そして見事な手腕で。


「……随分と苛立っておいでですね、殿下」


部屋の隅で、静かにお茶の準備をしていた専属メイドのリーゼが、呆れ顔で声をかけた。

彼女は、主人の荒れた様子を見ても全く動じず、淡々とティーカップをデスクに置く。


「余裕ぶって高みの見物を決め込んだ結果が、この有様ですか。見事なまでの自業自得ですわね」


「黙れ、リーゼ。私はただ……」


「ただ? ただの誤算ですか? 彼女が公爵家に泣きつくこともなく、かといって殿下に泣きつくこともなく、見事に自力で綱渡りをやってのけたことが、そんなに悔しいですか?」


リーゼの容赦のない言葉のナイフが、ジークヴァルトのプライドをグサグサと刺し貫く。


「いいですか、殿下。彼女はただの子爵令嬢なのです。公爵家からあのような圧力をかけられて、無下に断ることなどできるはずがないでしょう。お茶会に出るしか道はなかったのですよ」


リーゼは、冷ややかな目で主人を見下ろした。


「殿下が、彼女に『公式な庇護』を与えずに、中途半端なゲームを楽しんでいたからです。彼女を不安定な場所に立たせたまま放置した結果、敵対派閥に利用される隙を作った。……殿下の完敗です」


「……っ」


ジークヴァルトは反論できなかった。

事実、その通りだったからだ。


「その通りね、リーゼ」


不意に、執務室の扉が開き、凛とした声が響いた。

現れたのは、王妃イザベラだった。


「母上……」


ジークヴァルトは慌てて立ち上がり、姿勢を正した。


イザベラは、ジークヴァルトの散らかったデスクを一瞥し、冷酷なまでに理知的な瞳で息子を見据えた。


「私も事態は把握しています。あの子爵令嬢が、ヴァルター公爵の茶会に出るそうね。金を受け取らず、面子だけを完璧に立てる。……後ろ盾のない子爵家の娘として、公爵家に潰されないための、これ以上ないほど完璧な生存戦略だわ。実に賢い」


王妃は、エルリアの政治的判断を高く評価した。

そして、その評価はそのまま、息子への強烈な叱責へと反転した。


「だが、彼女をあのような不安定な綱渡りの状況に置いているのは、あなたの責任よ、ジークヴァルト」


イザベラの声が、一段低く、冷たくなる。


「あなたが中途半端な執着で彼女を囲おうとするから、彼女は敵派閥から目をつけられることになった。このまま彼女が敵対派閥の『神輿』として完全に取り込まれれば、それは王室にとって見過ごせない損失となる」


「……わかっています」


「わかっているなら、なぜ動かないの?」


イザベラは、ジークヴァルトの目の前に立ち、その金の瞳で息子を射抜いた。


「いいこと、ジークヴァルト。もしあなたが彼女を正式に守りきれない……自分の陣営に完全に引き込めないと言うのなら」


イザベラは、国を背負う王妃としての、最も冷酷で合理的な最後通牒を突きつけた。


「王室の利益のため、私が直接介入して彼女を『回収』するわよ」


「……回収、とは」


「簡単なことよ。私から国王陛下に進言し、彼女を王家絶対忠誠の有力貴族――例えば、東部の辺境伯の嫡男あたりと政略結婚させる。そうすれば、彼女の持つ『聖女の威光』と『予算権限』は王室のものとして完全に固定化され、保守派閥に取り込まれるリスクも消える」


それはつまり。

王妃の手によって、エルリアを別の男の妻とし、ジークヴァルトの手から永遠に取り上げるという、政治的な死刑宣告だった。


「……っ!!」


ジークヴァルトの瞳が、限界まで見開かれた。

心臓が、今まで経験したことのないほどの激しい警鐘を鳴らす。


エルリアが、他の男の腕の中に抱かれ、他の男のためにその強欲で愛らしい微笑みを向ける。

自分とは永遠に手の届かない、別の盤上へと連れ去られてしまう。


(そんなことは……絶対に許さない)


ジークヴァルトの全身から、「余裕」や「ゲームを楽しむ観客」としての温度が完全に消え去った。


「……母上の手を煩わせる必要はありません」


ジークヴァルトの声は、地を這うように低く、そして恐ろしいほどの熱を帯びていた。


「彼女は、私が必ず……私の盤上に引きずり戻します」


「そう。なら、せいぜい急ぐことね。時間はそれほど残されていないわよ」


イザベラはそれだけ言い残し、冷ややかな足音を立てて執務室を去っていった。


残されたジークヴァルトは、デスクの上に両手をつき、深く息を吐き出した。


(私を牽制し、絶妙な距離を保てば逃げ切れると思ったのだろうか? ……もしそうなら、君は私という男の執着を甘く見すぎだ。)


ジークヴァルトの金の瞳が、獰猛な肉食獣のそれへと完全に変貌する。

もはや、余裕ぶった手加減はしない。


「本気の狩人」として動き出す決意を固めた王太子の執着の炎が、王宮の奥深くで音を立てて燃え上がっていた。

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