第15話:群がる政敵と、毒入りの金貨
王家主催の大規模な就任式から、数日が経過した。
アシュレイ子爵家のこぢんまりとした居間のテーブルは、現在、異常な光景に支配されていた。
「お、お嬢様……! また王都の商会から、贈り物の箱が届きました! もう玄関に入りきりませんっ!」
侍女のマーサが、悲鳴のような声を上げながら分厚い書状の束を抱えて飛び込んでくる。
テーブルの上には、最高級の羊皮紙で作られた封筒や、宝石箱、珍しい東方の絹織物などが、文字通り山のように高く積まれていた。
「ご苦労様、マーサ。贈り物はリストを作って倉庫へ。お手紙はこちらへ置いてちょうだい」
エルリアは、居間のソファに優雅に腰掛けたまま、静かに微笑んだ。
『国家慈善事業の最高顧問』という、国庫の予算を動かせる巨大な実権。
そして、『聖女派閥』という、高位貴族の令嬢たちを束ねる強大な政治的後ろ盾。
その二つを同時に手に入れたエルリアに対し、これまで貧乏子爵家だと見向きもしなかった王宮の貴族たちが、こぞってすり寄ってきているのだ。
(まあ、なんて現金な方々かしら。昨日まで私のことを『泥に咲く雑草』だの『小賢しい田舎娘』だのと陰口を叩いていたくせに)
エルリアの内心は、冷ややかな嘲笑で満ちていた。
(でも、悪くないわ。これだけのご機嫌伺いの品々……売り払えば、領地の冬の備蓄がさらに潤うもの)
エルリアは、積まれた手紙の中から、一際豪華な金箔押しの封筒を見つけ出した。
封蝋に押された紋章を見て、エルリアの目がわずかに細められる。
(……ヴァルター公爵家。王宮の保守派を束ねる大貴族にして、ジークヴァルト殿下と真っ向から対立している敵対派閥の筆頭ね)
ペーパーナイフで慎重に封を切り、中身を取り出す。
流麗な文字で書かれていたのは、一見すると極めて丁寧で、エルリアの『聖女』としての功績を褒め称える言葉の羅列だった。
しかし、その中盤から、真の目的が露骨に顔を出していた。
『貴女様のような素晴らしい令嬢を、いつまでも子爵家に留めておくのは国家の損失。我が公爵家の分家の当主が、先妻を亡くし……』
(要するに、私を自分たちの派閥の身内に嫁がせて、私の持つ『世論の支持』と『慈善事業の予算権限』を丸ごと飲み込みたいわけね)
エルリアは無表情のまま、視線をさらに下へと滑らせる。
『また、貴女様には優秀な弟君がいらっしゃると伺っております。我が派閥が、弟君の王都での生活と最高峰の学費を全面的に支援し、ゆくゆくは我が派閥の有力な令嬢との婚約も……』
ピタリ、と。
エルリアの視線の動きが、完全に停止した。
(学費の全面支援……?)
エルリアの脳内で、凄まじい速度で算盤が弾かれる。
公爵家が後ろ盾になるということは、ルカの教育資金が莫大な規模で潤うということだ。
金額にすれば、目も眩むような利益である。
だが、次の瞬間。
エルリアの瞳から、欲の光が完全に消え失せ、絶対零度の冷たい怒りが宿った。
(……ふざけるな)
エルリアは、手にした手紙を握りつぶさんばかりに力を込めた。
(ただの善意なわけがない。これは、ルカを彼らの手元に置いて『人質』にするということ。彼らの派閥の令嬢と婚約させれば、ルカは一生、彼らの言いなりになる手駒として飼い殺しにされる)
お金は好きだ。
だが、ルカの自由と未来を犠牲にするなど、エルリアの辞書には存在しない。
(愛するルカの完璧な未来を、小汚い権力闘争の道具にするつもり!? 冗談じゃないわ、万死に値するわ!!)
内心で激しい怒りの炎を燃え上がらせながらも。
エルリアの表情筋は、長年の訓練によって完全に制御されていた。
「……まあ。なんと過分な、そして恐れ多いお心遣いでしょう」
エルリアは、ひどく悲しげな、そしてこの世のすべての業を背負うような聖女の微笑みを浮かべ。
その豪華な手紙を、そっとテーブルの上に置いた。
***
同じ頃。
王太子宮の、豪奢な執務室。
ジークヴァルトは、窓辺に立ち、秋の空を静かに見下ろしていた。
「殿下。王宮の密偵より報告が上がっております」
デスクの横で書類の整理をしていた専属メイドのリーゼが、淡々とした声で告げた。
「ヴァルター公爵をはじめとする反王太子派閥が、こぞってアシュレイ子爵家に接触を図っているとのこと。莫大な資金援助と、複数の婚約の打診を持ちかけているようです」
その報告を聞いても、ジークヴァルトの表情は微塵も揺るがなかった。
「だろうな。あれほど強大な求心力(聖女ブランド)と予算権限を持った駒が盤上に現れれば、どの派閥も喉から手が出るほど欲しがる」
ジークヴァルトは窓辺から離れ、自身のデスクへとゆっくりと歩を進めた。
「殿下、のんびりとお茶を飲んでおられる場合ですか?」
リーゼが、呆れたような声を上げた。
「殿下が手塩にかけて表舞台に引きずり出した有能な令嬢が、敵対派閥にそっくりそのまま引き抜かれてしまいますよ。早く助け船を出さなければ」
「助け船を出す必要などない。あの計算高い守銭奴が、あんな露骨で不自由な『毒入りの金貨』を、やすやすと飲み込むはずがないからな」
ジークヴァルトの金の瞳が、獰猛な肉食獣のように細められる。
「彼女の最も重要な行動原理は『損得と身内の安全』だ。政敵たちが彼女の弟を人質にとろうとする条件など、彼女にとっては最大の『損失』でしかない。彼女は絶対に拒絶する」
「ですが、相手は公爵家ですよ?」
リーゼが、冷静に事実を指摘する。
「ただの子爵家が、公爵家からの申し出を無下に断れば、物理的・経済的に徹底的に潰されます。彼女がどれほど賢くとも、身分の壁と権力の暴力の前には……」
「だからこそ、面白いのではないか」
ジークヴァルトの口角が、妖しく吊り上がった。
「もし彼女が公爵家の圧力に耐えきれず、完全に孤立して私に泣きついてくれば。私は最大の恩を売り、彼女を完全に私の手駒として支配することができる」
彼は、自身の盤上を俯瞰するように両手を組んだ。
「逆に、彼女が自力で政敵の罠を破れば、それはそれで我が陣営の大きな利益となる。……どちらに転んでも、私には都合が良い」
「相変わらず、性格がねじ曲がっておいでですね」
リーゼが、心底呆れたように溜息をつく。
「執着しているご婦人が窮地に立たされているというのに、それすらも観察の対象にして楽しむなんて。本当に、救いようのないお方です」
「黙れ。私は王国の未来にとって最も合理的な選択をしているだけだ」
ジークヴァルトは、悪びれることなく言い放ち。
アシュレイ家の方角へと思いを馳せ、静かに笑みを深めた。
「さあ、どうする、エルリア・ヴァン・アシュレイ。君が私のもとへ逃げ込んでくるのを、両手を広げて待っていてやろう」
***
アシュレイ家、エルリアの自室。
エルリアは、机の上に置かれたヴァルター公爵家からの手紙を、腕を組んでじっと睨みつけていた。
(敵対派閥からの申し出を無下に断れば、アシュレイ家は彼らの力で徹底的に潰される。かといって、金を受け入れればルカが彼らの手駒にされる)
王宮の派閥争いの恐ろしさは、彼女もよく理解している。
ここで公爵家を完全に袖にすれば、間違いなく痛い報復が待っているだろう。
(でもね……よく考えなさい、私。そもそも、ルカの教育資金はもう焦って集める必要はないのよ)
エルリアは、ふっと冷静さを取り戻した。
あの腹黒王太子が承認し、有能な王妃が調整してくれた『アシュレイ領の特例事業』。
あれによって、ルカの将来の教育資金は、すでに国庫から合法的に支払われることが確定しているのだ。
(そうよ。私には今、リスクを犯してまで公爵家の『毒入りの金貨』を飲み込む理由なんて、一デナリも存在しない!)
エルリアの瞳に、冷徹な政治家としての鋭い光が宿る。
(資金は要らない。でも、公爵家を完全に敵に回すのも得策じゃない。……もしここで彼らを突っぱねて孤立すれば、私は結局、ジークヴァルト殿下の庇護下に入るしかなくなって、あの腹黒男の思い通りになってしまうわ)
それは、エルリアのプライドが最も許せない展開だった。
(どうやって、相手からの実利(金)の申し出だけを角を立てずに断りつつ、ジークヴァルト殿下を牽制するための『政治的な距離感』だけをキープするか……)
エルリアの視線が、机の隅に置かれた『国家慈善事業・最高顧問の決裁印』に留まる。
「……そうね。この『役職』を、最高の盾にさせてもらうわ」
エルリアは、最高級の便箋を引き寄せ、流麗な文字で返信をしたため始めた。
(まずは、こう書くのよ。『わたくしは現在、国家の慈善事業を預かる公的な立場にございます。ゆえに、特定の派閥様からの個人的なご支援や金銭の授受は、いかなる理由があろうともお受けできません』ってね)
聖女の高潔な義務感と、公的な役職を理由にすれば、公爵家も「それなら仕方がない」と引き下がるしかない。
これで、ルカが彼らの借金漬け(恩義の対象)になる未来は完全に消滅する。
(でも、ここで終わらせては三流よ。相手の面子を立てつつ、私の『手札』として残しておかなきゃ)
エルリアのペン先が、さらに滑らかに踊る。
(『ですが、国の未来を憂う公爵家様の尊いお志には、深く共感いたします。ご支援の件は辞退させていただきますが……ぜひ今度、公爵家主催のお茶会に伺わせてくださいませ。王国の未来について、有意義な語らいができますことを楽しみにしております』……これでどう!?)
エルリアは、書き上げた手紙を見下ろして、完璧な悪巧みの笑みを浮かべた。
「金は一デナリも受け取らない。公爵家への政治的な恩義(負債)はゼロ」
エルリアは、ペンを置き、腕を組んで深く頷いた。
「でも、私が公爵家のお茶会に顔を出すことで、『聖女は敵対派閥とも良好な関係を築いている』という事実が社交界に知れ渡る」
それはつまり。
一番焦るのは、エルリアを自分の盤上だけで孤立させてコントロールしようと目論んでいた、ジークヴァルトその人である。
「私を自分の手駒(愛人)にして、逃げ道を塞いだ気になっているんでしょうけれど……甘いわ、殿下」
エルリアは、王宮のある方角の窓を見つめ、不敵に目を細めた。
「私には『敵対派閥に乗り換える』という強力な選択肢があるのよ。あんまり調子に乗って私を不自由にさせるなら、いつでもそっちの派閥とお茶を飲んで牽制してあげるわ」
薄暗い自室の中で。
エルリアは、公爵家からの手紙と自身が書いた返信を見比べ、獲物を前にした狩人のような、ドス黒くも極めて美しい笑みを浮かべていた。
金の力にも権力にも屈せず。
王太子すらも己の政治的バランスを保つための「重り」として利用する。
聖女の皮を被ったしたたかな政治家の、鮮やかなカウンターが今、王宮に向けて放たれようとしていた。




