第14話:聖女の就任式と、黄金の裁量権
秋晴れの高く澄み切った空の下。
王宮の白亜の広場は、歴史的な瞬間を目撃しようとする高位貴族たちで埋め尽くされていた。
色とりどりの華やかなドレスや、威儀を正した軍服が波のように広がる中。
ローゼンベルク伯爵令嬢クロエは、ハンカチを両手で固く握りしめ、壇上から一瞬たりとも目を離せずにいた。
彼女の大きな瞳からは、先ほどから感動の涙がポロポロと溢れ落ちている。
(ああ……! わたくしたちの聖女様が、ついに王家にも認められた!)
広場の中央に設けられた、祭壇のように豪奢な壇上。
そこに立つのは、純白のドレスに身を包んだエルリア・ヴァン・アシュレイ子爵令嬢。
装飾を抑えたその清らかな姿は、秋の柔らかな陽光を受けて、まるで本当に神の国から舞い降りた天使のように神々しく輝いていた。
群衆の前に立つ第一王太子ジークヴァルトが、低く、しかし広場の隅々にまで響き渡る威厳に満ちた声で演説を行う。
「――この国を真に支えるのは、武力や権力だけではない。最も弱き者たちに手を差し伸べ、共に歩む清らかなる慈悲こそが、我が国の未来を導く光となる」
ジークヴァルトの金の瞳が、貴族たちを睥睨する。
「本日ここにおいて、王家主催の『国家慈善事業』の発足と……その象徴たる最高顧問への、エルリア・ヴァン・アシュレイ嬢の就任を公式に宣言する」
ワーッ、と。
広場を揺るがすほどの、盛大な拍手が巻き起こった。
クロエは感極まって、隣に立つカトリーヌと手を強く握り合った。
「カトリーヌ様、聞きましたか……! 殿下のお言葉、まさに聖女様への絶対の信頼の証ですわ!」
「ええ、クロエ様! わたくしたちの熱烈な嘆願が、ついに王家を、そして国を動かしたのですね!」
二人の目からは、滝のような涙が流れている。
壇上では、ジークヴァルトがエルリアに向き直り、任命証の入った豪奢な木箱を恭しく差し出していた。
エルリアがそれを受け取ろうと両手を伸ばした、その瞬間。
ジークヴァルトが一歩踏み出し、エルリアとの距離が限界まで縮まった。
背の高い彼が少しだけ身をかがめ、エルリアの耳元で何事かを囁きかける。
エルリアもまた、ふわりと美しい微笑みを浮かべたまま、唇をわずかに動かして何かを答えた。
――事実。
『君の強欲なお手並み、この特等席で見せてもらおうか』
『ええ。殿下から賜る海より深い御慈悲……領民を救うため、一滴の無駄もなく隅々まで注ぎ尽くしてみせますわ』
という、国庫の予算を懸けた、血で血を洗う威嚇の交酬であったのだが。
クロエの狂信的なフィルターを通したその光景は、まったく別の美しい絵画として映っていた。
(ああ、なんて美しい……っ!)
公衆の面前で寄り添い合い、熱を帯びた視線を交わす二人。
殿下の力強く独占欲に満ちた眼差しと、それを受け止める聖女様の儚くも凛とした微笑み。
(まるで身分差という過酷な試練を乗り越え、互いの愛と、国を背負う使命を誓い合っているかのようですわ! あれはもう、完全に『次期王妃様』のお披露目ではありませんか!)
「なんて、なんてロマンチック……っ!」
クロエの口から漏れた感嘆の溜息は、周囲の令嬢たちに瞬く間に伝播した。
「殿下のあの熱い眼差し……。聖女様以外には決して向けられないものですわ」
「お二人の崇高な愛と、領民を救う使命。……わたくしたちも、ただ見ているだけではいけません!」
クロエが、涙を拭って声を張り上げた。
「わたくしたちも寄付を! 聖女様と殿下の尊い事業のために、我らも持てる財を全力でお捧げしましょう!」
「ええ! わたくし、今月のドレス代を全額寄付いたしますわ!」
「わたくしは新しい宝石の予約をキャンセルして、全額をアシュレイ領のインフラ支援に!」
広場は、熱狂的な拍手と、慈善事業への支援を誓い合う異様な歓声に包まれた。
誰もが壇上の美しい二人に心を奪われ、疑いなく熱烈な支持を表明している。
子爵令嬢という身分差の壁が、世論という熱狂の波によって音を立てて崩れ去っていく。
歴史が動くその瞬間を、クロエは恍惚とした表情で、ただ胸の前で手を組み祈るように見つめ続けていた。
***
「…………終わったわ」
式典が終わり、王宮からアシュレイ家へと向かう帰りの馬車。
重厚な扉が完全に閉まり、車輪がガタガタと動き出した瞬間。
エルリアは、分厚い革張りのシートにそのままズルズルと崩れ落ち、うつ伏せに突っ伏した。
「私の、平穏な人生……。完全に、終わったわ……」
クッションに顔を押し付けたまま、エルリアは魂の抜けたような呻き声を上げた。
完璧な聖女の仮面を長時間維持し続けた反動で、顔の筋肉がピクピクと痙攣している。
だが、肉体的な疲労よりも、精神的なダメージの方が遥かに深刻だった。
(なんなのよ、あの空気! なんで私が『王太子の寵愛を一身に受ける、事実上の婚約者候補』みたいな目で見られてるの!?)
式典の最中、広場を埋め尽くした貴族たちの視線。
特に、クロエたち派閥の令嬢たちのあの尋常ではない熱狂ぶり。
自分と王太子が言葉を交わすたびに、「きゃああっ」という黄色い悲鳴が上がり、祈るような手が組まれていた。
(王妃様に目をつけられ、腹黒王太子には逃げ場を完全に塞がれ、狂信者たちの教祖として神輿に担ぎ上げられてしまった。……もう、田舎の裕福な商人の家に普通のお嫁に行くなんていう、私のささやかな夢は絶対に叶わないじゃない!)
絶望。
圧倒的な、完全なる絶望である。
「はぁ……」
体を起こし、乱れたプラチナブロンドの髪を乱暴にかき上げる。
馬車の中は防音が行き届き静かで、外の喧騒が嘘のようだ。
(でも……)
エルリアの視線が、ふと、隣の座席に置かれたものに吸い寄せられた。
それは、先ほどジークヴァルトから直接手渡された、王室の紋章が刻まれた豪奢な木箱だった。
(……落ち込んでいても、金にはならないわ)
エルリアは姿勢を正し、ゆっくりと手を伸ばして木箱の蓋を開けた。
中には、最高級の羊皮紙で作られた『国家慈善事業・最高顧問』の任命証。
そして。
その隣に鎮座する、純金と象牙で設えられた、重厚な一つの『決裁印』。
それを見た瞬間、エルリアの瞳から絶望の色がスッと消え去った。
代わりに、ギラギラとした「冷徹な商人」の光が、静かに、しかし確実に灯り始める。
(この決裁印の意味……。あの腹黒王太子は、私を公の場に縛り付けるために、実務の権限もセットで渡してきた)
それはつまり。
この決裁印一つあれば、莫大な国家予算を動かす事業の『発注先』や『資金配分』を、合法的に自分の裁量で決められるということだ。
(アシュレイ領の治水工事。資材の調達先は、私に一番恩を売っている王都の商会に指定する。その代わり、工事の品質は最高レベルを要求しつつ、仲介手数料を還元させて領地の別事業に予算を回す)
脳内で、凄まじい速度で算盤が弾かれ始める。
(そして一番肝心な、ルカの教育支援金。これは『次世代の領地管理者の育成』という名目で、事業の関連必須項目として絶対に予算を通す。この決裁印がある限り、誰にも文句は言わせない)
エルリアは、決裁印をそっと手に取った。
ずしりとした黄金の重みが、手のひらを通して伝わってくる。
「……ここまで私を表舞台に引きずり出したこと、後悔させてあげるわ」
エルリアは、決裁印を愛おしそうに頬にすり寄せた。
王宮の陰謀も、王妃の警戒も、令嬢たちの熱狂も、今の彼女にとってはすべて「利用できる背景」でしかない。
「この国家事業の看板と、莫大な予算の裁量権を最大限に利用して。……私のルカの完璧な未来と、アシュレイ領の財政を、国庫から合法的に潤し尽くしてやる!」
先ほどまでの絶望はどこへやら。
馬車の薄暗い車内で、エルリアは決裁印を握りしめ、獲物を前にした狩人のような、ドス黒くも美しい笑みを浮かべていた。
平穏は消え去った。
だが、その代償として、彼女は最強の「黄金の裁量権」を手に入れたのだ。
聖女と王太子による、国庫と未来を懸けた化かし合い。
公的な表舞台という名の新しい盤上で、本格的な戦いが今、幕を開けた。




