第13話:王妃の決断と、狂信者の園
王妃宮の奥深くに位置する、イザベラの私的な執務室。
磨き上げられた大理石の机の上には、二つの重要な書類が並べられていた。
一つは、財務省から上がってきた『アシュレイ領におけるインフラ支援と人材育成の予算案』。
そしてもう一つは、王宮の密偵たちがまとめ上げた『聖女派閥に参加している令嬢とその背後関係の名簿』である。
イザベラは、その名簿のページをゆっくりと捲りながら、深い思考の海に沈んでいた。
(……ロシュフォール侯爵家を除けば、王国の根幹を成す大貴族の令嬢たちが、ほぼ網羅されている)
名簿に連なる名前は、ただの社交界の流行り廃りなどという軽いものではなかった。
あの大胆な書類修正の裁定を下してから、一ヶ月あまり。
エルリア・ヴァン・アシュレイという存在への令嬢たちの熱狂は、冷めるどころか、この数週間のうちに完全に強固な『派閥』として王宮内に定着してしまったのだ。
筆頭のローゼンベルク伯爵家をはじめ、公爵家、侯爵家、伯爵家といった高位貴族の令嬢たちが、狂信的なまでにエルリアを支持し、彼女の言葉を「神の啓示」のように崇め奉っている。
令嬢たちの熱狂は、それ単体であればただの「少女たちのお茶会の延長」で済む。
だが、問題は彼女たちの背後にいる「親(当主)たち」の存在だ。
(娘を溺愛する父親や、娘を通じて『聖女の威光(民衆からの絶大な支持)』を利用しようと企む大貴族たちが、すでにこの派閥を強力な政治基盤として認識し始めている)
イザベラは、羽ペンを手に取り、名簿の余白にコツコツと音を立てた。
一介の子爵令嬢が王太子妃になれない最大の理由は、「家格の低さ」と「強固な政治的後ろ盾(派閥)がないこと」である。
しかし今、エルリアは、ただ清らかに微笑み、領民のパンを案じる言葉を紡いだだけで、意図せずして、国内最大級の大貴族たちを巻き込んだ『巨大な政治的後ろ盾』を、自らの背後に完成させつつあるのだ。
「……あの子の執着には呆れるけれど」
イザベラは、静かな執務室で小さく独り言をこぼした。
「令嬢たち(世論)の熱狂を『公的な慈善事業』にすり替え、私に反対させない完璧な大義名分を作って彼女を公の場に引きずり出した手腕は、見事ね」
前回のように、公金を使って密室に囲い込もうとすれば、イザベラは何度でも書類を破り捨てるつもりだった。
だが今回は違う。
令嬢たちの熱烈な推薦を受け、王家の権威を高めるための公式な慈善事業の【最高顧問】として担ぎ上げる。
これを「公私混同だ」と却下すれば、王室が慈善を否定し、民衆と大貴族たちを同時に敵に回すことになる。
「……あの不器用な狩人は、ついに私すら文句の言えない『完璧な鎖』を編み上げたというわけね」
「まったくだ。私も報告を聞いて肝を冷やしたよ」
不意に、執務室の扉が開き、重厚な足音と共に一人の男が姿を現した。
この国の頂点に立つ者、国王フリードリヒである。
彼は長時間の公務の疲れを見せつつも、その瞳には王としての鋭い光を宿していた。
イザベラは席を立ち、恭しく頭を下げた。
「陛下。ごきげんよう」
「堅苦しい挨拶はよい、イザベラ。……それで? あの子爵令嬢をどう見る」
フリードリヒは、机の上の名簿に視線を落としながら問いかけた。
「ただの子爵令嬢として切り捨てるには、もはや彼女の影響力は危険なほどに大きすぎます」
イザベラは、王の問いに一切の躊躇なく、冷徹な事実を告げた。
「もし対立派閥が彼女を『神輿』に担ぎ上げれば、王室にとって厄介な脅威となるでしょう。彼女の持つ『民衆の支持』と『大貴族の同調』は、一過性の流行で済ませられる次元を超えています」
「ならば、ジークヴァルトの好きにさせるか?」
「……ええ」
イザベラは、少しだけ目を細め、静かな決意を口にした。
「彼女の『真の顔』と『器』を、この王家主催の事業を通して徹底的に見極めましょう」
これはもはや、息子の初恋や執着といった生易しい問題ではない。
「もし彼女が、あの派閥をただの偶然ではなく、意図して操るだけの冷徹な計算と才覚を持っているのなら。……そして、この国の未来を背負うだけの『器』があるのなら」
イザベラは、国王の目を真っ直ぐに見つめ返した。
「身分差という前例を覆すことも、視野に入れねばなりません」
フリードリヒは、深く息を吐き出し、ゆっくりと頷いた。
「わかった。ジークヴァルトの行動を、単なる『恋の暴走』から、『次期王妃の選定試験』として公式に容認しよう」
王室のトップである二人の決断が下された。
エルリアはもはや、「排除すべき身分不相応な小娘」ではなく、「国を預けるに足る人物かを見極められる対象」へと、明確に格上げされたのだ。
***
(なんで私がこんな目にぃぃぃぃぃっ!!)
同じ頃。
王宮へと向かう豪華絢爛な馬車の中で、エルリアは分厚いクッションに顔を埋めて盛大に毒づいていた。
馬車の外装には、王室の紋章がこれでもかと輝いている。
彼女が身に纏っているのは、王室から支給された純白の式典用ドレス。
最高級のシルクと、控えめながらも計算し尽くされたレースがあしらわれたそのドレスは、彼女の「聖女」としての清らかさを極限まで引き立てる特注品だった。
(私はただ! 誰の目にも止まらずにルカの学費と領地の水路の工事費をもらえれば、それでよかったのに!!)
クッションから顔を上げ、エルリアは血走った目で馬車の天井を睨みつけた。
(なんで『国を挙げた大規模な慈善事業の最高顧問』なんていう、絶対に逃げられない、そして目立ちすぎる役職を押し付けられなきゃいけないのよ!!)
王妃様が私の書類から名前を消してくれたあの奇跡の大勝利から、一ヶ月あまり。
平和なジャガイモとベーコンの日常は、音を立てて崩れ去った。
あの腹黒王太子は、前回の敗因を学習し、今度は「公衆の面前での公式な就任式」という、王妃ですら文句の言えない完璧な罠を仕掛けてきたのだ。
(くそっ、くそっ……! このまま、大人しく腹黒王太子のオモチャにされてたまるもんですか!)
エルリアは、ドレスの裾をギュッと握り締め、深く深呼吸をした。
落ち込んでいても、怒り狂っていても、金にはならない。
相手が盤上を用意したというのなら、その盤上ごと食い尽くしてやるのがアシュレイ子爵家の流儀だ。
(こうなったら、あの慈善事業の巨大な予算から、ルカの未来とアシュレイ領の防壁強化のために、いかに自然な形で経費を『中抜き』するか……いえ、正当な報酬として合法的に引き出すか、その算段を立てるしかないわ!)
エルリアの頭の中で、猛烈な勢いで算盤が弾かれ始める。
慈善事業のイベント運営費、各領地への支援金の分配ルート、最新の灌漑設備の調達先……。
(すべての発注を、私に恩を売っている王都の商会に回し、その見返りとしてアシュレイ領への物資支援を二割増しで要求する。完璧よ。慈善事業の看板を使えば、商人たちも喜んで私にすり寄ってくるはず!)
ドス黒い事業計画(合法)を練り上げ、エルリアはようやく少しだけ気合を取り戻した。
「到着いたしました、エルリア様」
御者の声と共に、馬車がゆっくりと停止する。
扉が開き、秋の冷え込みを感じさせる澄んだ空気が馬車の中に流れ込んできた。
(さあ、行くわよ。この式典を無難に乗り切って、実利だけをかっさらってやるわ)
エルリアは、鏡で「完璧な慈愛の微笑み」を作り上げ、優雅な足取りで馬車を降りた。
その瞬間だった。
「ああ、聖女様!!」
「本日のお姿も、神々しくあらせられる……!」
王宮の広場に降り立ったエルリアの視界を、色鮮やかなドレスの波が埋め尽くした。
ローゼンベルク伯爵令嬢のクロエを先頭に、カトリーヌたち数十名の高位貴族の令嬢たちが、感極まった顔で押し寄せてきたのだ。
「皆様……」
エルリアは内心でビクッと後ずさりしそうになるのを必死に堪え、静かに微笑んだ。
「わたくしたちの熱烈な推薦に、ご慈悲をもってお応えくださり、本当にありがとうございます!」
クロエが、涙ぐみながらエルリアの手を両手で包み込む。
「わたくしたちの『聖女様をこの国の慈善の象徴に』という嘆願書が殿下に届き、このような素晴らしい事業が立ち上がったのです! これもすべて、神の、そして聖女様のお導きですわ!」
「……え?」
エルリアの微笑みが、ピキリと音を立てて硬直した。
(推薦? 嘆願書……?)
エルリアの優れた頭脳が、点と点を繋ぎ合わせ、最悪の事実を導き出す。
(あんたたちが余計なことしたせいで、私はあの腹黒王太子に完璧な口実(大義名分)を与えて、逃げられない舞台に引きずり出されたの!?)
王太子の罠の「外堀」を埋めたのは、他でもない、目の前で涙を流して自分を崇拝している、この純真な狂信者たちだったのだ。
「……皆様の愛と導きに、心より感謝いたしますわ」
エルリアは、声の震えを必死に殺し、完璧な聖女スマイルで応えた。
「もったいないお言葉! ああ、聖女様のために、わたくしたちもこの事業に全力で寄付を……!」
「わたくしも! 今月のドレス代をすべてお捧げいたします!」
周囲の令嬢たちが、エルリアの言葉一つで涙を流し、競うように清貧と寄付を誓い合う。
その異様な熱狂と、逃げられない「教祖」としての同調圧力の凄まじさに、エルリアは背筋が凍るような恐怖を覚えた。
(駄目だ、この人たち、完全に仕上がってる……。私が少しでも『お金が欲しい』なんて素振りを直に見せたら、この信仰が一気に反転して社会的に殺されるわ)
意図せず作り上げてしまった狂信の園の中で、エルリアは孤独な絶望を噛み締めていた。
パパァァンッ!!
その時、広場に荘厳なファンファーレが鳴り響いた。
一瞬にして令嬢たちのざわめきが止み、全員がその場に深く跪く。
広場の奥から、近衛騎士の隊列を従えて、式典の主催者である第一王太子ジークヴァルトが姿を現した。
漆黒の正装に身を包んだ彼は、圧倒的な威厳を放ちながら、赤絨毯の上をゆっくりと歩いてくる。
その鋭い金の瞳は、真っ直ぐに、ただ一人だけを見据えていた。
ジークヴァルトは、跪く令嬢たちの列を抜け、エルリアの目の前でピタリと足を止めた。
「面を上げよ、エルリア・ヴァン・アシュレイ」
低く、響く声。
エルリアがゆっくりと顔を上げると、ジークヴァルトは誰にも見えない角度で、妖しく、そして獰猛な笑みを浮かべていた。
それは、逃げ場のない表舞台に獲物を完全に引きずり出した、狩人の歓喜だった。
ジークヴァルトが、エルリアにだけ聞こえる微かな声で囁く。
「素晴らしい景色だろう? ……これが、君が立つ新しい盤上だ」
エルリアは、ドレスの裾を強く握り締めながらも、完璧な微笑みを崩さずに彼を見つめ返した。
「逃げられると思うなよ、聖女殿」
「殿下こそ……」
エルリアもまた、唇の動きを最小限に抑え、彼にだけ聞こえる声で囁き返した。
「わたくしの慈悲(強欲)を、見くびらないでくださいませ」
(上等よ。その盤上ごと、貴方の財布を空っぽにして差し上げますわ)
二人の視線が、空中で激しく、そして熱く交錯する。
公衆の面前、王家主催の華やかな式典という名の大舞台で。
聖女と腹黒王太子による、「国庫」と「未来」を懸けた大規模な化かし合いの幕が、今、高らかに切って落とされたのだった。




