第12話:使者の推察と、黄金の鎖
王宮とは、帝都の中央、最も高い丘の上にそびえ立つ権力の象徴である。
その白亜の城門を出発した一台の堅牢な馬車が、石畳の道を下っていた。
車内には、王宮の財務省に長年仕えるベテランの文官、クラウスが一人、背筋を伸ばして座っている。
彼の手には、王室の厳重な封蝋が施された、分厚い書状が握られていた。
窓の外の景色は、馬車が進むにつれて明確に変化していく。
丘の上に近い華やかな高位貴族の居住区を抜けると、徐々に建物の装飾は少なくなり、道幅も狭くなっていく。
帝都の外縁部——下位貴族たちが身を寄せるように暮らす居住区に入ると、滑らかだった石畳は途切れ途切れになり、代わりに土が剥き出しの道が続いた。
ガタガタ、と。
車輪が轍に取られ、馬車が大きく揺れる。
(……ひどい道だ。これでは雨の日は泥沼になるだろう)
クラウスは微かに眉をひそめながら、これから向かう先の「アシュレイ子爵家」の困窮ぶりを、この激しい揺れを通して体感していた。
彼が王太子ジークヴァルトから直接命じられたのは、他でもない、「帝都の聖女」と名高いアシュレイ子爵令嬢エルリアのもとへ、この「勅命」を届けることである。
(アシュレイ子爵家……。まさか、あの没落寸前の家の娘が、王宮の勢力図をここまで塗り替えることになるとは)
クラウスは、自身が長年身を置いてきた貴族社会の力学を思い返し、深い感嘆と戦慄を覚えていた。
本来、一介の子爵令嬢が王太子ジークヴァルトの正室(妃)に選ばれることなど、天地がひっくり返ってもあり得ない。
王妃イザベラが指摘した通り、最大の理由は「家格の低さ」と、「強力な政治派閥(後ろ盾)がないこと」だからだ。
王家に嫁ぐ以上、彼女を支え、同時に王家を支える強固な大貴族の支持基盤は絶対条件である。
しかし。
今、王宮の奥深くで、あり得ない「奇跡」が起きていた。
(王宮の令嬢たちの間で急拡大している『聖女派閥』。……あれはもはや、単なる令嬢たちの仲良しクラブなどではない)
クラウスは、財務省で日々目にする報告書を思い浮かべた。
侯爵家、伯爵家といった、王国の根幹を成す有力貴族の令嬢たちが、狂信的なまでにエルリアを支持し、彼女の教えである「清貧と寄付」を実践している。
そして重要なのは、その令嬢たちの背後には、娘を溺愛し、あるいは娘を通じて聖女の威光にあやかろうとする「大貴族の当主たち」が存在しているという事実だ。
つまり。
エルリアはただ清らかに微笑んでいるだけで、意図せずして「国内最大級の大貴族による政治派閥(後ろ盾)」を、自らの背後に形成しつつあるのだ。
(家格という物理的障壁が、世論と派閥の力によって完全に崩れ去ろうとしている……!)
クラウスは、手元の書状をぎゅっと握り直した。
ジークヴァルト王太子は、その政治的状況の変化を、誰よりも早く、そして冷酷に計算し尽くしていた。
(前回、殿下は公金を使って彼女を密室に呼び出そうとし、王妃様に『公私混同』と一蹴された。……だが今回は違う)
この書状の中身は、王家主催の『国を挙げた大規模な慈善事業』の発足。
そして、その象徴たる【最高顧問】への、エルリアの任命状である。
「令嬢たち(世論)の熱烈な支持」を受け、「王家の権威を高める公的な大舞台」で彼女を担ぎ上げる。
これは、国益にかなう完璧な大義名分だ。
これには、いかに厳格な王妃イザベラであっても、「公私混同」として却下することはできない。
却下すれば、それは慈善を否定し、民衆や聖女派閥の貴族たちを敵に回すことになるからだ。
(ジークヴァルト殿下は、ついに王妃様すら文句の言えない『完璧な鎖』を編み上げられたのだ……)
有能すぎる王太子の恐るべき執念に、ベテラン文官のクラウスすらも背筋を凍らせていた。
やがて、馬車はギシギシと悲鳴を上げながら、傾きかけた鉄柵の前で停車した。
「到着いたしました、クラウス様。こちらがアシュレイ子爵邸です」
御者の声に促され、クラウスは馬車を降りた。
目の前にあるのは、歴史こそ感じさせるものの、壁の塗装は剥げ落ち、屋根の瓦も所々欠けている、ひどく古びたあばら家だった。
(……本当に、このような場所に『聖女』が?)
クラウスが半信半疑で玄関のベルを鳴らそうとした、その時。
ギィ、と重い音を立てて扉が開き、一人の少女が姿を現した。
「まあ。王宮の使者様が、このようなむさ苦しい所へ。……ようこそおいでくださいました」
「っ……!」
クラウスは、思わず息を呑んだ。
逆光の中に立つ彼女は、装飾の少ない水色のドレスに、エプロンという出で立ちだった。
しかし、そのプラチナブロンドの髪は夕日を受けて天使の輪のように輝き、朝露のように澄んだ瞳は、このボロボロの屋敷にあっても少しも曇ることなく、真っ直ぐにクラウスを見つめていた。
(おお……。なんという清らかさ。なんという気高さだ)
まるで、泥水の中に咲き誇る一輪の白百合。
クラウスは、彼女がまごうことなき「本物の聖女」であることを、一瞬にして確信した。
「突然の訪問をお許しください、エルリア様。私は王宮財務省のクラウスと申します。本日は、ジークヴァルト王太子殿下より、重要な『勅命』をお持ちいたしました」
クラウスは姿勢を正し、恭しく、両手で分厚い書状を差し出した。
「わたくしに、殿下からの勅命……?」
エルリアは不思議そうに小首を傾げながら、その書状を受け取った。
「はい。王家主催による『国を挙げた大規模な慈善事業』の発足。そして……エルリア様を、その象徴たる【最高顧問】に任命する旨の、公式な招待状でございます」
クラウスが誇らしげに告げた、次の瞬間だった。
ピタリ、と。
書状を見つめるエルリアの動きが、完全に止まった。
その美しい瞳が限界まで見開かれ、華奢な肩が、小刻みに、わなわなと震え始めたのだ。
(……ああ。無理もない)
クラウスは、その反応を見て深く感動していた。
(一介の子爵令嬢が、王家の慈善事業の最高顧問に選ばれるなど、前代未聞の大抜擢だ。彼女は今、身に余る大役に打ち震え、神と王家からの重責に言葉を失っているのだ。……なんと謙虚で、純粋な方なのだろう)
「エルリア様。どうか、ご安心ください。王宮の我々も、全力で貴女様をサポートいたします」
クラウスが優しく声をかけると。
エルリアは、ゆっくりと顔を上げた。
その表情は、すべてを受け入れるような、ひどく悲しげで、そして慈愛に満ちた(クラウスの目にはそう見えた)微かな微笑みだった。
「……身に余る光栄でございます。謹んで……お受けいたしますわ」
深く、深く頭を下げる聖女の姿に。
クラウスは胸の奥が熱くなるのを感じながら、深々と一礼し、屋敷を後にしたのだった。
***
ガタガタ、と。
王宮へと戻るクラウスの馬車の音が、完全に遠ざかり、角を曲がって見えなくなった瞬間。
バタンッ!!
エルリアは、玄関の重い扉を乱暴に閉め。
そのまま、その場にズルズルと崩れ落ちた。
「…………は?」
エルリアの口から、乾いた、一切の感情が抜け落ちたような声が漏れた。
震える手で、握りしめた書状の封を乱暴に引きちぎる。
(最高顧問? 大規模な慈善事業!? なにそれ、聞いてない! 私はただ、ルカの特待生枠と学費を無傷でゲットして、あの腹黒王太子とは永遠にサヨナラしたはずなのに!!)
書状の文面を、血走った目で追いかける。
そこには、豪華絢爛な言葉で飾られた、逃げ道のない役職名。
さらに、ご丁寧にも『公衆の面前での大規模な就任式』が王宮の広場で予定されていることまで、しっかりと明記されていた。
(公衆の面前での就任式!? つまり、王妃様や他の貴族たちが全員見ている前で、私を公式に担ぎ上げるってこと!? それじゃあ、誰も反対できないじゃない!!)
エルリアの優れた頭脳が、ジークヴァルトの張り巡らした罠の「意図」を完全に理解していく。
前回は、密室への呼び出しという「公私混同」で王妃に潰された。
だから今回は、誰もが認める「公の場」で、「国の事業」という絶対的な大義名分を使って、自分を捕獲しにきたのだ。
(あの腹黒王太子……っ! 失敗から学習して、さらに厄介に進化してるじゃないのよ!!)
だが、エルリアを最も絶望させたのは、その就任の「理由」として書かれていた一文だった。
『——王宮の貴族令嬢たちからの、熱烈な推薦を受け。令嬢たちの手本たる貴女こそが、この事業の象徴にふさわしい』
「…………はぁ!?」
エルリアは、玄関の冷たい床の上で、信じられないものを見るように書状を睨みつけた。
(令嬢たちからの推薦!? なんで私が勝手に持ち上げられてるの!? 私がいつ派閥なんて作ったのよ! 誰もそんなこと言ってなかったじゃない!)
彼女が全く預かり知らないところで。
彼女を崇拝する狂信的な「聖女派閥」が、王太子に最高の口実を与え、彼女の逃げ道を外側から完璧に塞いでいたという事実。
(外堀が……完全に埋められてる……っ!!)
先ほどまで、夕食の「ジャガイモと厚切りベーコン」の余韻に浸り、愛する家族たちと平和な時間を過ごしていたというのに。
その平和な日常が、音を立てて完全に崩壊したことを悟ったエルリアの目から、本物の絶望の涙がポロリとこぼれ落ちた。
「……お姉様? どうしたの、床に座り込んで」
奥の部屋から、ルカが不思議そうに顔を出した。
「っ!」
エルリアは慌てて涙を袖で拭い、立ち上がった。
そして、愛する弟に向かって、この世のすべての苦難を背負い込むような、完璧な聖女の微笑みを向けた。
「なんでもないわ、ルカ。ただ少し……神様から、大きなお仕事をいただいただけよ」
(このまま、タダで捕まってたまるもんですか……っ!)
エルリアは、手の中の書状を握りつぶさんばかりに力を込めた。
(こうなったら、あの慈善事業の予算から、ルカのために何としてでも合法的に……莫大な利益を中抜きしてやるわ……っ!!)
血の涙を流しながらも。
決して屈することのない、守銭奴としてのドス黒い闘志を燃やし。
エルリアは、自分を待ち受ける王宮の「公式な大舞台」へと、重い足取りで向かう覚悟を決めたのだった。




