第11話:暴走する信仰と、狩人の再始動
王宮の一角にある、豪奢な白亜のサロン。
本来ならば、高位貴族の令嬢たちが最新のドレスを見せ合い、優雅に扇を揺らしながら甘い菓子と噂話に花を咲かせる場所である。
しかし今日、そのサロンの空気は異様だった。
「皆様、どうか今一度、ご自身の胸に手を当ててお考えくださいませ」
サロンの中央に立ち、熱を帯びた声で語りかけているのは、ローゼンベルク伯爵令嬢のクロエだった。
彼女は、普段の引っ込み思案な様子からは想像もつかないほど堂々とした態度で、周囲の令嬢たちを見回している。
その手には、白金の土台に最高級の蒼玉があしらわれた、目も眩むようなブレスレットが握りしめられていた。
「わたくしは、この愚かな見栄の塊を、聖女様……エルリア・ヴァン・アシュレイ様にお捧げしようといたしました。しかし、あの方は何とおっしゃったか」
クロエは、感極まったように涙ぐみながらブレスレットを胸に抱いた。
「あの方はこれを受け取らず、『貴女の美しい心こそが、何よりの宝石です』とおっしゃったのです! ご自身はあのようにお慎ましやかな装いでいらっしゃるのに、他者の心を満たすためだけに言葉を紡がれる……! ああ、なんという無欲! なんという慈愛!」
「おお……」
周囲の令嬢たちから、感嘆と、そして深い懺悔の吐息が漏れる。
彼女たちの装いは、以前の茶会と比べて明らかに「地味」になっていた。
過度な宝石は外され、ドレスのフリルやレースの量も目に見えて減っている。
「クロエ様のおっしゃる通りですわ」
その同調の輪の中から、一人の令嬢が進み出た。
先日まで、エルリアを嘲笑っていたベアトリクスの取り巻きの一人、伯爵令嬢のカトリーヌである。
彼女の顔には、かつての傲慢さは微塵もなく、まるで何かの真理に目覚めた修行僧のような、澄み切った(あるいは思い詰めた)表情が浮かんでいた。
「わたくしは、かつての己の無知と浪費を恥じております。あの日、聖女様が教えてくださった『一滴の紅茶の裏にある、民の血と汗』。……わたくしたち高位の貴族は、それを知らなければならなかったのです!」
カトリーヌは両手を固く握り締め、力強く宣言した。
「わたくし、先月仕立てたばかりのドレスを三着、すでに処分いたしましたわ。その代金をすべて、領地の孤児院へ寄付いたしました。聖女様の御心に少しでも近づくために!」
「まあ! 素晴らしい覚悟ですわ、カトリーヌ様!」
「わたくしも! わたくしも明日、宝石商の予約をキャンセルいたします!」
「ああ、聖女様のお教えに従い、清廉に生きねば……」
サロンの空気は、完全に「エルリア教」とも呼ぶべき、狂信的な何かに支配されていた。
「聖女様ならどうされるか」。
それが彼女たちの絶対の行動基準となり、どれだけ質素に振る舞い、どれだけ余剰資金を寄付できるかを競い合う場と化している。
そして何より恐ろしいのは、この集団が強烈な「同調圧力」を持っていることだった。
もしこの輪の中で、少しでも着飾ったり、新しい贅沢品の話題を口にしたりする令嬢がいれば。
『まあ。貴女は聖女様の御心に反する、傲慢な浪費家ですのね』
という冷たい視線と共に、徹底的に社会的な弾劾を受けることになる。
エルリア自身が全く意図しないところで、王宮の令嬢たちの間に、恐るべき影響力を持つ「暴走する聖女派閥」が急拡大しつつあった。
***
一方、その頃。
王太子宮の執務室。
ジークヴァルトは、自身のデスクで書類を読みながら、ふっと面白そうに鼻で笑った。
「見事なものだな」
彼の手元にあるのは、財務省から上がってきた『アシュレイ領復興の特例パイロットプログラム』の進捗報告書である。
彼が王妃によって最高責任者を降ろされ、エルリアの名前が綺麗に消し去られた、あの事業の書類だ。
報告書によれば、優秀な財務官僚の指揮のもと、アシュレイ領の水路工事はこれ以上ないほど順調に、かつクリーンに進んでいるらしい。
「殿下。ご自分が王妃様にコテンパンに論破されて取り上げられた事業が、他人の手で真っ当に成功している報告書を見て、なにを嬉しそうに笑っておられるのですか」
執務室の奥で本棚の整理をしていたメイドのリーゼが、呆れたような声を上げた。
「負け惜しみの現実逃避ですか?」
「黙れ。私はただ、自身の敗因を冷静に分析しているだけだ」
ジークヴァルトは報告書を机に置き、深く椅子に背もたれた。
「前回は、私が焦って外堀を埋め忘れた。それだけのことだ。……有能な令嬢を逃がしたくない一心で、公金を使って密室に呼び出すなどという、母上に『公私混同』と突っ込まれる最大の隙を作ってしまった」
「ええ。世間ではそれを、盛大なる自爆と呼びます」
「だが、学習はした」
ジークヴァルトの金の瞳が、冷徹な狩人の光を取り戻して鋭く煌めいた。
「もう二度と、公私混同の隙は作らない。密室ではなく、公衆の面前。誰もが認める完璧な『公務』として、彼女を逃げられない盤上に引きずり出す」
「……また何か、悪巧みを思いついたお顔ですね」
リーゼが溜息をつきながら、新しい紅茶を机に置く。
ジークヴァルトは、王宮内の密偵から上がってきている別の報告書――サロンで暴走する「聖女派閥」の動向をまとめた紙を指先で弾いた。
「今、王宮の令嬢たちの間で、彼女を神格化する異様な派閥が形成されている。彼女の求心力は、もはや一介の子爵令嬢の枠を完全に超えた」
ジークヴァルトの口角が、妖しく吊り上がる。
「ならば、それを利用しない手はない。王家主催の『国を挙げた大規模な慈善事業』を立ち上げる。そして、その象徴たる最高顧問として、公衆の面前で彼女を大々的に担ぎ上げるのだ」
「……はあ。今度は密室での個別監査ではなく、表舞台での象徴ですか」
「そうだ。王家の権威を高め、貴族たちから寄付を募るための完璧な大義名分だ。これなら母上も、国益を考えれば承認せざるを得ない。職権乱用という批判も完全に封じられる」
「なるほど」
リーゼは、カチャカチャとティーセットを片付けながら、主人の顔をまじまじと見つめた。
「そこまで手の込んだ、絶対に断れない『公式プロポーズ(物理)』の準備をするなんて。本当に健気なことですわ」
「プロポーズではない。有益な人材の確保だと言っているだろう」
「はいはい。今度は王妃様に書類を破られないと良いですね。頑張ってくださいませ、不器用な狩人様」
リーゼはクスクスと笑いながら執務室を退出していった。
一人残されたジークヴァルトは、窓の外の帝都の空を見つめた。
(このまま逃げ切れると思うなよ、守銭奴。君が欲しがる実利(金)と、君が一番嫌がる公式な舞台(鎖)。……次こそ、完璧な形で同時に首にかけてやろう)
***
そんな王宮のドロドロとした陰謀や、自身が教祖扱いされている狂信的な派閥の存在など露知らず。
アシュレイ家のボロボロの屋敷には、平和と歓喜の空気が満ち溢れていた。
「ふふっ……ふふふふふっ!」
自室の机に向かうエルリアのペン先は、まるでワルツを踊るように軽やかに帳簿の上を滑っていた。
(完璧! 完璧よ! 『週二回の呼び出し義務』は王宮の有能な大人たちの手によって見事に消滅し、ルカの学費と特待生枠だけが、国の事業として無傷で確定した!)
エルリアにとって、これ以上ない完全勝利だった。
面倒な王太子との関わりを断ち切りながら、目的であった「弟の未来の教育資金」という莫大な実利だけを国庫から引き出すことに成功したのだ。
「手柄なんていらないわ。名誉もいらない。欲しいのは現金と確約だけよ!」
エルリアは帳簿に「黒字」の太い線を力強く引き、満足げに立ち上がった。
そして、浮き立つような足取りで一階の食堂へと向かう。
「お父様! ルカ!」
食堂の扉を開けると、そこには初老の父アルベルトと、天使のように愛らしい弟のルカが、すでに席についていた。
「どうしたんだい、エルリア。今日はなんだかとても機嫌が良いね」
アルベルトが不思議そうに微笑む。
「ええ! 実は今日、王宮からの支援事業が正式に動き出したという通知を受け取りまして。我がアシュレイ領の未来は明るいですわ!」
(主にルカの未来がね!)
エルリアは内心でガッツポーズをしながら、自身の席についた。
「そして……今日は、特別よ」
エルリアが合図をすると、侍女のマーサが恭しく大皿を運んできた。
テーブルの中央に置かれたのは、いつもの茹でたジャガイモ。
しかし、今日の大皿には、ある「奇跡」がトッピングされていた。
「こ、これは……っ!?」
アルベルトが目を剥いて立ち上がった。
ルカも、信じられないものを見るようにエメラルドグリーンの瞳を大きく見開いている。
ジャガイモの上に鎮座していたのは、こんがりと焼かれ、芳醇な肉の脂と香りを漂わせる「厚切りのベーコン」だった。
「お姉様……! ベ、ベーコンが乗ってるよ!? しかも、一人二枚も……!」
ルカの声が、感動で震えている。
「ええ、ルカ。これは神様からの……そして、アシュレイ家の輝かしい未来への祝福の証よ」
(クレメント伯爵家から毟り取った慰謝料の一部だけどね!)
エルリアは、聖母のような慈愛に満ちた微笑みで、愛する家族たちを見つめた。
「さあ、冷めないうちに召し上がれ」
「おお……! なんて芳醇な香りだ。エルリア、お前が頑張ってくれているおかげで、こんな贅沢が……っ!」
「お姉様、ありがとう! 僕、一生忘れないよ!」
ベーコンの油を口いっぱいに頬張りながら、ボロボロと感動の涙を流す父と弟。
(ああ、可愛い。尊い。ベーコン二枚でこんなに喜んでくれるなんて。……この笑顔と平和を守るためなら、私、どんな計算でも嘘でもやってみせるわ)
エルリアもまた、久しぶりの肉の味を噛み締めながら、至福の溜息を吐いた。
「平和だわ……」
エルリアは、夕日に照らされるボロボロの食堂を見回し、心から安堵の笑みをこぼした。
「このまま何事もなく、領地が豊かになって、ルカが立派に育ってくれれば……。私の人生は、完璧よ」
この時のエルリアは、まだ気づいていなかった。
彼女の背後、遥か遠くの王宮で。
決して逃れられない「公式な大舞台」への分厚い招待状(罠)が完成し、王宮の使者がいま、アシュレイ家に向けて馬車に乗り込もうとしていることに。
聖女と腹黒王太子の、本格的な化かし合いの第二幕は、すぐそこまで迫っていた。




