第10話:王妃の粛清と、策士の誤算
王妃宮の奥深くに位置する、豪奢でありながらも極めて実務的に整えられた執務室。
第一王太子ジークヴァルトは、部屋の中央に置かれた重厚なマホガニーの机を挟み、沈黙の中で真っ直ぐに立っていた。
彼の目の前には、優雅に背もたれに寄りかかりながら、氷のように冷たい視線を向けてくる母——王妃イザベラの姿があった。
「……さて、ジークヴァルト。私に何か言うことはあるかしら」
イザベラの白魚のような指先が、机の上に無造作に放り出された数枚の書類を、トントンと軽く叩く。
それは、昨日ジークヴァルトが強引に決裁のサインをねじ込んだ、『アシュレイ領復興の特例パイロットプログラム』の申請書だった。
「ご報告した通りです、母上。アシュレイ領のインフラ整備と、次世代を担う人材育成を絡めたこの計画は、長期的な国益に必ずや貢献するものと確信しております」
ジークヴァルトは、完璧な無表情を保ったまま、澱みなく答えた。
イザベラは、その言い分を聞いて、ふっと小さく鼻で笑った。
「ええ、そうね。この『治水工事と、それを管理する未来の優秀な人材への特別教育支援』という事業計画自体は、非常に優秀だわ。よく練られているし、予算の振り分けも見事。発案者の極めて現実的で、ある意味で強欲なまでの『無駄のなさ』が透けて見える、素晴らしい事業案ね」
王妃は、書類の「中身」そのものは高く評価した。
だが、次の瞬間、彼女の鋭い金の瞳がスッと細められ、室内の温度が急激に下がった。
「……しかし、この『人事』は何?」
イザベラは、書類の最終ページ、責任者の欄を指先で強く弾いた。
「この莫大な国庫の予算を動かす事業の『王室特別顧問』に、一介の子爵令嬢を任命? しかも、その公金の使途について、週に二回、王太子の執務室へ直接報告に来る義務を課す?」
イザベラは、深く、それは深く、呆れ果てたというように溜息をついた。
「冗談は、その整った顔だけにちなさい、ジークヴァルト」
「……母上、彼女は現地の状況を誰よりも把握しており、何より民衆の支持を集める『聖女』としての求心力があります。彼女がこの事業の旗振り役となることで——」
「言い訳は不要よ」
王妃の冷酷な声が、ジークヴァルトの言葉を容赦なく一刀両断した。
「公金を使って、個人的に執着している娘を合法的に自分の手元へ囲い込もうなど……公私の混同も甚だしい。あなたともあろう者が、これほど露骨で、浅はかで、隙だらけの手段に出るとはね」
「……っ」
ジークヴァルトの喉が、微かに引きつった。
反論の言葉が見つからなかった。
自分でも、この手があまりにも「強引すぎる」ことは百も承知だったのだ。
しかし、昨日あの茶会で、彼女が提示してきた「特定の優秀な個人(=弟)に向けた教育支援の要求」を見た瞬間。
彼女を公的な鎖で縛り付け、自分の目の届く場所に永遠に閉じ込めてしまえるという「絶好の隙」に、彼は理性を失ってしまったのだ。
「いいこと、ジークヴァルト」
イザベラは、ペンを取り、ジークヴァルトの目の前でその書類に無慈悲な修正を加え始めた。
「事業の最高責任者ならびに監査役は、財務省のベテラン官僚でチームを再編します。『王室特別顧問』という、あなたのご都合主義の役職は廃止」
カリカリ、とペンが紙を削る音が、ジークヴァルトの敗北を告げるカウントダウンのように響く。
「そして、発案者である『エルリア・ヴァン・アシュレイ』の名前は、この書類から一切削除しなさい。……彼女には、この事業に一切関わらせません」
「な……っ」
ジークヴァルトは思わず一歩踏み出しそうになり、すんでのところで踏みとどまった。
「不満かしら? 当たり前でしょう。これほど莫大な公金を動かす事業に、特定の未婚の令嬢の名前など残しておけば、不要な憶測と嫉妬を生むだけです。……これは、他ならぬ彼女自身の体面を守るための最低限の処置よ」
イザベラは修正を終えた書類をジークヴァルトに突き返した。
「どうしても彼女に『愛人』のレッテルを貼って、社交界の泥沼に引きずり込みたいと言うのなら、好きになさい。……ですが、この国の王太子として、公金を私物化するような真似は、私が絶対に許しません」
完璧なる正論。
そして、王家の秩序とエルリアの尊厳を同時に守る、一切の隙もない「王妃の粛清」だった。
ジークヴァルトは、突き返された書類を強く握り締め、深く頭を下げることしかできなかった。
***
「……くそっ」
王太子宮の自室に戻ったジークヴァルトは、首元のクラヴァット(ネクタイ)を乱暴に引き剥がし、そのまま長椅子へと深く沈み込んだ。
手には、先ほど王妃によって完膚なきまでに修正された書類が握られている。
(浅はか……。ああ、その通りだ。公務という名目で彼女を呼びつけるなど、母上の目をごまかせるはずがないことくらい、少し考えれば分かったはずなのに)
冷静な自分であれば、もっと時間をかけ、周りを固め、誰も文句のつけようのない完璧な外堀を埋めてから彼女を追い詰めたはずだ。
だが、あの時の自分は、彼女が手の中から逃げ出そうとする気配を感じただけで、焦り、衝動的に「最も悪手である強行突破」を選んでしまった。
「……お疲れのようですね、殿下」
不意に、部屋の扉が開き、専属メイドのリーゼが銀のトレイに乗せた紅茶を運んできた。
彼女は、長椅子にぐったりと寄りかかる主人の珍しい姿を見て、わざとらしく目を丸くした後、口元を隠してクスクスと笑い声を漏らした。
「王妃様に、完膚なきまでに論破され、お小言を頂戴してきたというお顔ですね。……まあ、無理もありません。誰がどう見ても、あれは職権乱用と公金の私物化による、盛大な『囲い込み』でしたから」
「……リーゼ。お前は本当に、私の神経を逆撫でするのが上手いな」
ジークヴァルトは腕で目を覆い、重い溜息を吐いた。
リーゼは少しも怯むことなく、カチャリとティーカップをテーブルに置いた。
「だから申し上げたではありませんか。世間ではそれを『恋』と呼ぶのだと。……あの常に完璧で冷静沈着なジークヴァルト殿下が、有能な令嬢を手元に置きたいあまりに判断力を失い、王妃様にこってりと絞られる。完全に『恋は盲目』ですね」
「……黙れ。私はただ、あの有能な駒を……」
「はいはい。有能な駒の未来を縛り付けて、週に二回も執務室で二人きりでお茶を飲む理由を作りたかったのですよね。見事なまでの、初恋の重症患者ですわ。お薬、出しておきましょうか?」
リーゼの容赦のない毒舌が、ジークヴァルトの胸の傷口に、これでもかと塩を擦り込んでいく。
だが、彼はもはや反論する気力すら湧かなかった。
(……ああ、認めざるを得ないな)
腕で目を覆ったまま、ジークヴァルトの口元に、自嘲気味な笑みが浮かぶ。
自分の行動が、第三者から見ても、そして有能な母から見ても、完全に「理性を失った男の執着」であったという事実。
あの、愛らしい微笑みの裏で一デナリの損得を計算し、自分をどこまでも出し抜こうとする、強欲で賢い子爵令嬢。
彼女を手に入れるためなら、自分はこれほどまでに不格好に足掻いてしまうのだ。
「……このまま逃がすと思うなよ、守銭奴」
ジークヴァルトは、覆っていた腕をどけ、天井の豪奢なシャンデリアを鋭く睨みつけた。
今回の敗北は、手痛い。
だが、この敗北によって彼は完全に自覚した。
次からは、決して公私混同の隙を見せない。
王妃にも、社交界にも、そして何より彼女自身にも一切の言い逃れを許さない、より洗練された完璧な手段で、必ず彼女をこの腕の中に引きずり込んでやる、と。
策士の胸の奥で、さらに黒く、そして熱い執着の炎が静かに燃え上がり始めていた。
***
一方、その頃。
帝都の片隅にある、アシュレイ子爵家のボロボロの屋敷にて。
「お、お嬢様! 王宮から……王宮の財務省から、正式な通達の書類が届きましたっ!」
侍女のマーサが、血相を変えてエルリアの自室へと飛び込んできた。
机に向かって領地の帳簿をつけていたエルリアの肩が、ビクゥッ!と大きく跳ねる。
(来た……っ! ついに来たわ、あの悪魔の契約書が……!)
エルリアの顔から血の気が引いていく。
数日前の茶会で強引に結ばされた、週に二回、王太子の執務室へ出向くという恐るべき公務の義務。
ついにその「呼び出し」の正式な命令が下されたのだと、彼女は覚悟を決めた。
「……貸しなさい、マーサ」
エルリアは震える手で封筒を受け取ると、ペーパーナイフで慎重に封を切った。
中から出てきたのは、王室の正式な紋章が押された、分厚い決裁書類の写しだった。
(さあ、何曜日の何時に来いって書いてあるのよ。どうせ私の都合なんて一切無視した、理不尽なスケジュールなんでしょう……?)
エルリアは、薄目を開けて、恐る恐る書類の文面に目を通し始めた。
『アシュレイ領におけるインフラ支援、ならびに次世代人材育成の特例パイロットプログラムについて。本事業を国庫の予算にて正式に採択し……』
(よし。ここまでは茶会の通りね。ルカの教育支援金はしっかり確保されてるわ)
エルリアの視線が、さらに下へと滑っていく。
そして、事業責任者と、監査役の欄に差し掛かった。
『……本事業の最高責任者ならびに監査役は、財務省筆頭次官〇〇・〇〇がこれを務める』
「……え?」
エルリアの目が、点になった。
(王室特別顧問は? どこ? 私の名前は?)
エルリアは書類を一枚一枚、裏の裏まで、穴が開くほど見返した。
しかし、どこを探しても「王室特別顧問」という役職名も、そして何より「エルリア・ヴァン・アシュレイ」という彼女の名前すら、ただの一文字も記載されていなかったのだ。
つまり。
彼女の発案した「ルカのための特別教育支援」を含む莫大な予算の事業は、国の事業として正式に承認され、予算が下りることが確定した。
しかし、その事業の運営はすべて国の優秀な官僚が引き継ぎ、発案者であるエルリアは「事業から完全に切り離された」のである。
「週に二回、王太子に進捗を報告する義務」などという悪魔の条件は、書類のどこにも存在しなかった。
「…………っ」
エルリアは、書類を持ったまま、完全にフリーズした。
一秒。
二秒。
三秒。
エルリアの優れた頭脳が、この書類の持つ意味と、その裏で起きたであろう「政治的力学」を完全に理解した。
(……勝った)
エルリアの全身の細胞が、歓喜の震えを上げ始めた。
(勝ったぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!)
エルリアは、手にした書類を胸に抱きしめ、天を仰いだ。
(間違いなく、あの腹黒王太子の不自然な人事に対して、上の立場の誰かが——国王陛下か、宰相閣下か、あるいは財務省のトップが横槍を入れて、全否定してくれたんだわ!! 常識ある王宮の大人たち、本当にありがとう!! 私、一生この国についていきます!!)
これ以上ない、最も完璧な、そして理想的な大勝利だった。
名誉も、手柄も、役職も、そんなものは一デナリの価値もない。
一番欲しかった「実利(ルカの未来の教育資金と、領地の安全)」だけを無傷で手に入れ、そして一番避けたかった「王太子との関わり(密室での週二回の公務)」は完全に消滅したのだ。
「お、お嬢様……? 大丈夫ですか? なんだか、肩が小刻みに震えておられますが……」
心配そうに覗き込んでくるマーサの前で。
エルリアは、もう我慢の限界だった。
「マーサっ!!」
「ひゃっ、はいっ!?」
エルリアは勢いよく立ち上がると、ドレスの裾を握り締め、その場でピョンピョンと飛び跳ね始めた。
「今日の夕食は、特別よ! 領地から送られてきた一番良いジャガイモに、なんと……なんと、ベーコンを二枚乗せましょう!! お父様とルカには内緒のサプライズよ!!」
「べ、ベーコンを二枚も!? お嬢様、何か素晴らしいことでもあったのですか!?」
「ええ! ええ、あったわ! 神様と、見知らぬ有能なお役人様の素晴らしい御加護がね!!」
アシュレイ家の自室で、歓喜のガッツポーズをして謎の舞を踊り狂うエルリア。
彼女はまだ知らない。
この圧倒的な勝利が、王太子ジークヴァルトの「執着」という名の導火線に、決定的な火をつけてしまったということを。
「逃げ切った」と歓喜する強欲な聖女と。
「次こそは逃がさない」と暗い炎を燃やす腹黒王太子。
二人の、決して後戻りできない本格的な化かし合いの第二幕は、ここから静かに幕を開けるのだった。




