41.会う約束
「……アカネが言ったんですよね。自分の記憶を消してしまいたいって」
麗人が静かに告げる。そうだ。あの時、私は子供なりの意地で、記憶ごとこの世界のことを忘れたいと口にしてしまったのだ。
だけど――。
「おばあちゃんが止めたんですよね。『この記憶は大人になってから大切になるから、持っておきなさい』って」
「えぇ。そこで記憶を完全に消すのではなく、封じるという形に落ち着いたのです。チコの英断でしたね」
「……本当に。そのお陰で私はここに戻ってこられた。おばあちゃんのお陰です」
結果として、私の記憶は消えずに封じられたまま残った。今になって思えば、その判断の大きさに頭が下がる思いだ。
「そのお陰でまたアカネに会えて、そして星見亭も続いている。私は本当に嬉しいです」
「私も……大切な記憶がなくならなくて、本当に良かった。できることなら、もう少し早く思い出したかったですけど」
「それは仕方ありません。きっかけがなければ思い出せないものでしたから」
「まぁ、そのきっかけが……おばあちゃんの死だったのは、寂しいですけどね」
二人して言葉を飲み込み、静かにおばあちゃんの面影を思う。
本当に、おばあちゃんは私たちに数え切れないほどのものを残してくれた。そのお陰で、今も前を向いて生きていける。
「アカネはこれからどうするのですか?」
「これからは……のんびりと星見亭を続けていこうと思います」
「それも大切ですが――アリアのことは?」
「……」
その名を聞いた瞬間、胸の奥に沈めていた想いがざわめいた。異世界に来なくなった原因。大切な友達。アリアが今どうしているのか、知りたい気持ちは確かにある。
けれど、もう二十年近くも経ってしまった。相手には相手の人生があり、私には私の生活がある。別々の道を歩んできたのだから、今さら交わることなんてないのかもしれない。
そう頭で考えれば考えるほど、「どうにもできない」という思いが大きくなっていく。それでも……心の奥では、会ってみたい気持ちが少しずつ、確かに膨らんでいくのだった。
それだけ、子供の頃のアリアは私にとって特別な存在だった。
「……その顔。気になっているって、はっきり出ていますよ」
「えっ、そ、そんなに顔に出てましたか?」
「えぇ、出ていました。やっぱり、昔の友達のことは気になるものですね。私も久しぶりに、昔の友達に会いたくなってきましたよ」
「そうですよね……。でも、今どこにいるのかも分からない人に会うなんて、難しいですよ」
「いいえ、そんなことはありません」
「……え?」
はっきりと断言された言葉に、私は思わず首を傾げる。
「魔法を使えば、相手のところまで声を届けられます」
「魔法……。あっ、そういえばハイドさんも魔法で常連のお客さんに連絡を取ってましたね」
「そう。知っている相手であれば、魔法で声を届けることは可能です。……試してみてはどうですか?」
その一言に、心臓が大きく跳ねた。アリアと、連絡が取れる?
信じられないような事実が胸に広がって、思わず息を呑む。喜びと戸惑いが、同時に溢れ出した。
会える。
あの頃、突然離ればなれになってしまった友達に、もう一度。その事実に胸が震える。けれど同時に、怖さもあった。
二十年という時が過ぎてしまった。今さら声をかけて、アリアはどう思うだろう? 怒ってはいないだろうか。私を恨んではいないだろうか。それに、もう私なんか必要としていないんじゃないだろうか。
胸の奥がざわざわと騒ぎ立てる。嬉しさと緊張と不安が入り混じり、どうしていいのか分からなくなる。
それでも、心のどこかでは、ずっと会いたかった気持ちが確かに息づいていた。押し込めてきた感情が、今にもあふれ出しそうになっている。
逡巡する私の心を見透かしたように、麗人がふっと優しく微笑んだ。
「アカネ。迷っているのなら、なおさら声を届けてみるべきです」
「……でも……二十年ですよ? 今さら連絡して、迷惑じゃないですか?」
「それは、アリアにしか分かりません」
きっぱりとした声に、胸が強く揺さぶられる。麗人は続ける。
「大切な人に会いたいと思う気持ちを、恥じることなんてありません。たとえ年月が経っていても、その想いはきっと相手に届きますよ」
その言葉は、迷いで曇っていた心を真っ直ぐに貫いた。
そうだ。答えを決めるのはアリアであって、私じゃない。ただ、会いたいと思う気持ちは本物なのだから。
「……会いたいです。アリアに」
自然と口からこぼれた言葉に、自分でも驚いた。けれど、その瞬間、胸の奥にあった迷いがすっと消えていくのを感じた。
麗人は嬉しそうに頷いた。
「それでいいんです。その気持ちを信じて、伝えてみましょう」
私は大きく息を吸い込み、震える指先をぎゅっと握った。二十年の時を越えて、もう一度。今度こそ、失いたくない大切な友達に――声を届けるために。
麗人は指先から柔らかな光を放ち、その光に声を乗せると、そっと宙へ解き放った。光は一瞬にして消え、どこか遠い場所へと駆けていった。
「『星見亭でアカネが待っている』と伝えました。きっと、声が届いたはずです」
「……なんか、急に緊張してきました」
「大丈夫ですよ。アカネが会いたいと思っているなら、きっと向こうも同じ気持ちです。なにせ――大の仲良しだったんですから」
その言葉が胸に染み渡る。私はただ信じたいと思った。アリアも同じ想いでいてくれると。
そう考えているうちに、常連客たちが席を立ち始めた。時計を見ると、もう十時半を過ぎている。
「おや、もうこんな時間ですか。私も今日はこれで帰りましょう」
精算を済ませ、それぞれが帰路につく。みんな再開した星見亭を心から喜び、また来ると約束のような言葉を残して去っていった。
最後に残った麗人は、小枝のようなものを差し出した。
「私はお金を持っていませんので、代わりにこちらを。換金してお使いください」
「はい……ありがとうございます」
「次に伺った時、アカネの話を楽しみにしています」
軽く会釈をして、麗人は夜の闇へと消えていった。誰もいなくなった星見亭は、静寂に包まれ、今日の終わりを告げていた。
「アカネ、食器を片づけ終わりました。魔法で綺麗にしてください」
「あっ、うん……それ!」
「ありがとうございます。残りは私が片づけますね」
メルが手際よく片づけを進める。私は玄関の扉を開け、看板を裏返そうとした――その時。
目の前に突然、光が現れた。
「わっ!? な、なに……!?」
光はふわりと宙に留まり、そのまま私の前で震えるように輝いたかと思うと――
『明日の朝、絶対に行くから、待っていて!』
澄んだ声が響き渡り、光は音もなく掻き消えた。
胸の奥が大きく揺さぶられる。今の声、初めて聞いたはずなのに、懐かしさに胸が熱くなる。
「……まさか、アリア?」
その名を呟いた瞬間、心臓が高鳴り、全身を熱が駆け抜ける。長い年月を越えて、閉ざされていた扉がようやく開いたのだ。
明日の朝、アリアが来る。そう思うだけで胸がいっぱいになり、期待と不安と喜びが入り混じる。だけど、不思議と期待が大きくなっている自分がいた。




