40.星見亭に来なくなった理由
「……仲直り、ですか?」
突然の言葉に頭が追いつかず、思わず聞き返してしまった。すると、麗人はハッとしたように目を見開いた。
「そうでしたね。アカネは記憶を封じられていたのでした。余計なことを……」
「いえ、気にしないでください。おばあちゃんから力を受け継いでから、少しずつこちらでの記憶が戻り始めているんです」
「あぁ、そうでしたか。それなら安心しました。急に口にして混乱させてしまったかと思いましたよ」
麗人は胸を撫で下ろし、ほっと息をついた。どうやらこの人は、過去の私のことをよく知っているらしい。
ハイドはずっと教えてくれなかった。けれど、もしかしてこれは、失われた記憶を取り戻す好機なんじゃないだろうか。
ちらりと横を見ると、ハイドは大きくため息を吐き、呆れた顔をしていた。
「もっと時間をかけて、少しずつ思い出してもらうつもりだったんだがな」
「そうだったんですか。私のことを忘れているままなのには、きっと理由があるのだろうと思っていましたが……。どうやら、私の方が先走ってしまいましたね」
「そんなこと言われたら、余計に気になります。私は大丈夫ですから、ぜひ色々教えてください」
「ふむ……ハイド、どうしますか?」
「早いとは思うが、ここまで話を切り出してしまっては、説明しない方が不自然だろう」
「そうですね。では、これからお話ししましょう。その前に、コーヒーを一杯いただけますか?」
ようやくハイドからの許しが出た。私はすぐにホットコーヒーを淹れ、砂糖とミルクを添えて麗人に差し出す。麗人は腕の中からメルを下ろし、慣れた手つきでカップを整えると、香りを確かめるようにゆっくり口をつけた。
「……うん。この味、数か月ぶりですね」
柔らかな微笑を浮かべた麗人は、カップをそっと置き、私を見つめた。
「さて、どこから話しましょうか。アカネは、どこまで思い出していますか?」
「最近思い出しているのは……幼い頃にここに来ていた記憶と、仲良しの誰かと一緒にいたことです」
「そこまで戻ってきているのですね。では、なぜアカネがこの世界に来なくなったのか、その理由は?」
「それは……全然思い出せないんです」
そう。私はかつて頻繁にこの世界を訪れていた。けれど、ある時を境にぱったりと足を運ばなくなった。その理由だけは、どうしても霞がかかったままだ。
麗人は懐かしむように目を細め、再びコーヒーを口に含んだ。
「あの頃、アカネさんはよく星見亭に顔を出していました。チコさんを手伝ってお客様に笑顔を振りまいて……まさに看板娘でしたよ」
「看板娘……メルみたいだったんですね」
「はい。それはもう可愛らしくて、お客様の評判も上々でした。その姿に惹かれて、近所の子供たちも遊びに来るようになったんです。その中に、アカネと大の仲良しになった子がいました。それが、アリアです」
その名を聞いた瞬間、心の奥で眠っていた記憶がふっと揺れた。無邪気に笑い合う子供たちの姿。手を繋いで駆け回る二人。
「二人は息がぴったりでした。遊ぶ時も、勉強する時も、いたずらする時も、喧嘩をする時でさえ。まるでお互いが傍にいるだけで、この世界が一番幸せだと信じられるような。そんな日々だったんですよ」
その話を聞いているうちに、胸の奥から少しずつ記憶が浮かび上がってくる。
一緒に遊んだ日々。難しい顔で机に向かい合った時間。おばあちゃんに仕掛けたいたずらを二人で笑い合ったこと。そして、大声を張り上げて言い合った喧嘩のこと。
どれも昨日のことのように鮮やかに思い出せた。忘れていたはずなのに、それは大切な宝物のようで、あの頃の気持ちまで一緒に蘇ってくる。
毎日が幸せだった。星見亭があったからだけじゃない。隣に、特別で大切な子がいてくれたからだ。
「だけど、そんな日々は突然終わったんです」
「……どうしてですか?」
「それは――アリアが聖女に選ばれたからです」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥から嫌な感情がこみ上げてきた。どこかで覚えのある感覚。そうだ、あの時も私は、同じ気持ちになったのだ。
記憶がさらに鮮明になる。アリアが聖女に選ばれ、教会に住むことになると告げられたこと。そして、もう星見亭には来られなくなると知らされたこと。
何の前触れもなく突きつけられた現実に、私はただ困惑していた。けれど、それで終わりではなかった。
「アリアが聖女に選ばれ、教会に召し上げられると決まった時……アカネは――」
「……そう。私、ひどく怒ったんですよね。それで、すごく大きな喧嘩になった」
蘇る記憶は、アリアと激しく言い争う光景だった。
それはもう、いつもの小さな口喧嘩なんかじゃない。本気で怒りをぶつけ合い、相手を傷つけるために言葉を投げつけてしまった、取り返しのつかない喧嘩だった。
周りの子供たちも、大人も慌てて仲裁に入った。けれど、私たちは誰の声にも耳を貸さず、ただ感情のままに怒鳴り合った。そして、ついに決定的な言葉を口にしてしまった。
「……それで、私たちは絶交したんです」
その瞬間、胸に穴が開いたような喪失感を覚えた。
「今までどんな喧嘩をしても絶対に言わなかった言葉を、あの時の私たちは言ってしまった。そしてそれを最後に……アリアは星見亭に来なくなったんです」
それでも、私の怒りは収まらなかった。悔しくて、悲しくて、どうしようもなくて。だから私は、この異世界に来ることをやめてしまった。
ただそれだけ。子供じみた理由で、私は大切な世界を手放してしまったのだ。
けれど、あの時の私にとっては、世界がひっくり返るよりも重大なことだった。アリアとの別れを、どうしても受け入れられなかったから。
……今振り返ると、子供って本当に大胆だと思う。
大人なら絶対に言えないような、怖い言葉を平気で口にしてしまう。けれど同時にその一言に、すべてを懸けてしまうくらい真剣でもある。
あの時の考えは幼くて、不器用で、それでもどこまでも真っ直ぐだった。だからこそ尊くて、眩しくて……胸が締めつけられるほど愛おしい記憶なのだ。




