37.親代わり
「ここに来たのは数か月ぶりじゃな!」
星見亭に足を踏み入れたヴァルヘルムは、懐かしむように店内をぐるりと見渡した。目を細め、ひとつひとつを確かめるように眺めると、満足げに頷き、堂々とカウンター席に腰を下ろす。
「アカネ、早速コーヒーじゃ! 我がアカネのコーヒーの味を、改めて確かめてやる!」
「……分かりました」
カウンターを軽く叩いて催促する様子は、まるで子供のようで、つい笑いそうになってしまう。私は奥へと歩きながら、ちらりと仲間たちを見やった。ハイドはいつもの定位置に座り、メルは珍しそうにヴァルヘルムの傍でじっと観察している。
「しっかし、この間はこんなちっこいのは居なかったはずだが?」
「あっ、えっと……メルといいます! 先日からここで働かせてもらっています!」
「ほう! そうかそうか! 星見亭にもとうとう新しい従業員が出来たか! チコは頑なに雇わなかったからなぁ……いやぁ、めでたい、めでたい」
ヴァルヘルムは嬉しそうに目を細めると、メルを手招きして膝の上に抱き上げた。
「アカネも、こんなに小さかった時があったんだぞ。もう二十年近くも前になるか……」
メルの髪を優しく撫でながら、懐かしむように口にする。
「私と……面識があるんですか?」
「あるとも。小さい頃はよく面倒を見てやったじゃないか。我の姿を思い出せんか?」
思いもよらぬ言葉に、私は息を呑んだ。ヴァルヘルムと会っていた? 私はコーヒーを淹れながら、曖昧な記憶を必死に辿る。
確かに、この店にいた。幼い私が、ここで食事をしていた光景が浮かぶ。そして、その時……傍に必ず誰かがいた。仲の良い子と一緒に遊んでいた。
さらに奥を探れば、黒く長い髪の女性の姿が見える。おばあちゃんが忙しい時に、代わりに私の相手をしてくれた人だ。
断片が繋がるにつれ、心の奥底に眠っていた思い出が堰を切ったように溢れてきた。
その人と町を歩いた記憶、手を繋いで駆けた道、一緒に遊んで笑った声。机に向かって、拙い字を教えてもらった日々。
ああ、どうして忘れていたのだろう。胸の奥が熱くなるほど、そこには確かに数え切れないほどの思い出があったのに。
「……やっぱり、面識があったみたいですね」
「ふふっ、ようやく思い出したか。魔法で封じておった記憶じゃからな。きっかけさえあれば、自然と戻ってくるはずじゃった」
胸の奥から懐かしい想いがあふれ出し、じんわりと温かさに包まれる。
「……ドラゴンの姿が強烈すぎて、全然気づきませんでした」
「無理もない。小さなアカネの前で見せておったのは、ずっとこの姿ばかりじゃったからな。ドラゴンの姿など、一度も見せておらんかったはずじゃ」
穏やかなやり取りをしているうちに、コーヒーがちょうど入れ終わる。温めておいたカップに香り高い液体を注ぎ、砂糖とミルク、スプーンを添えてそっとヴァルヘルムの前に差し出した。
「……この香り、間違いない。チコが淹れてくれたコーヒーと同じだ」
ヴァルヘルムは目を細め、懐かしむように鼻先で香りを吸い込むと、付属品を加えて静かにスプーンを回した。カップを持ち上げ、一口、ゆっくりと口に含む。
「……あぁ、この味だ」
深く息を吐くように言葉をこぼし、ヴァルヘルムは目尻に柔らかな皺を寄せた。
「アカネ、お前は確かにチコの味を受け継いでおる。……いや、それ以上にお前のものにしておるな。なんとも、嬉しいものじゃ」
幸せそうな笑みを浮かべ、しみじみとそう呟く姿は、懐かしさと喜びが混ざり合った、実に温かなものだった。
「それで、どうじゃ? 星見亭を開けてみて、感想はどうだ?」
「とても楽しいです。色んなお客さんが来て、それぞれ違う顔を見せてくれて、たくさんお喋りをして……ここが、こんなに温かい場所になるなんて思っていませんでした」
「ほう、そうか。そうか。それが分かれば我もうれしい。ここは本当に人が集まる場所じゃからな。皆が惹かれて通いたくなる、そういう所なんじゃよ」
私の言葉にヴァルヘルムは満足そうに頷き、目じりが自然と下がっていく。どことなく誇らしげで、それが私の胸まで温めてくれた。
「何か困ったことはないか? 遠慮せずに言うがよい。力になろう」
「えっ、急にどうしたんですか?」
「どうしたもなにも、我はアカネの親代わりだからな! 親が子を気にかけるのは当然のことじゃ」
「えっ、いつの間にそんなことを……」
「そりゃあ、小さい頃からじゃ。忘れたのか?」
親代わり。その言葉がぽんと胸に当たった。くすぐったくて、でもどこかあたたかい。私の親はもうこの世にいない。ずっとおばあちゃんが私を守ってくれていたけれど、そのおばあちゃんもいなくなった。だから、これからは一人でやっていくしかないと思っていたのだ。
それなのに、思いがけずここでまた親代わりが現れるなんて、考えたこともなかった。ハイドとは違う種類の安心感。言葉にせずとも守ってくれそうな強さと、気ままに笑ってくれる優しさが同居している。
ヴァルヘルムの真剣な瞳を見ていると、心に残っていた小さな不安が静かに溶けていくのが分かった。頼れる人がもう一人増えただけで、世界が少しだけ軽くなる。そんな些細な救いが、じんわりと有り難く思えた。
「メルも、我を頼ってくれていいんじゃぞ」
「わ、私もですか?」
「そうじゃ! メルも我の子供みたいなものじゃからな!」
ヴァルヘルムは豪快に笑いながらそう言った。その言葉にメルは顔を赤らめ、慌てて俯いてしまう。小さく握った手が、少しだけ震えているのが見えて、なんだか守ってあげたくなった。
その時、カウンターの端から聞こえてきたのは、ハイドの大きなため息だった。
「……まったく、何が親代わりだ。四六時中寝てばっかりのくせに」
「ふははっ! いやいや、こういうのは存在するだけでも違うものなんじゃ。人はそれを“心の支え”と言うんじゃろうなぁ」
「お前のどこが心の支えになるんだ。だったら少しは星見亭の役に立つことをしろ」
「星見亭のため、か……。では、我の知人をここに呼んでやろうか?」
「やめろ! どうせ厄介事しか持ち込まんだろ!」
「いやいや、賑やかになって楽しいと思うぞ?」
呆れ顔のハイドと、どこ吹く風で笑うヴァルヘルム。その掛け合いは、見ているだけで妙に心が軽くなってくる。メルもくすくすと笑い始め、自然と私も頬が緩んでしまった。
その後も、他愛もない話題で盛り上がりながら、四人で賑やかに時間を過ごした。笑い声とコーヒーの香りが店いっぱいに広がり、外の喧騒とは違う、柔らかな安らぎに包まれる。
こうして過ごすひとときが、何よりも大切で、何よりも楽しい。
今日は、本当に良い休日になった。




