35.おばあちゃんの遺品(1)
「んー! 美味しいです!」
「この味、久しぶりに食べたなー。相変わらず、美味い!」
「喜んでもらえて、良かったよ」
三人でカウンターに並び、湯気の立つ朝食を囲む。今日の献立は、香ばしく焼き上げた鮭、ふんわりと甘い卵焼き、豆腐と油揚げの味噌汁、そして炊き立ての白いご飯。湯気と香りが一日の始まりをやさしく彩ってくれる。
思わず、昔を思い出した。
社畜として働いていた頃の朝といえば、焼きもせず袋から取り出した食パンをかじり、味気ないボトルコーヒーで流し込むだけ。眠気と疲れで頭はぼんやり、腹を満たすというより「とりあえず動ける燃料を入れる」だけの作業だった。味わう余裕なんて、どこにもなかった。
それが今はどうだろう。
目覚ましに追い立てられることもなく、ゆっくりと布団を抜け出し、台所に立つ。鮭を焼きながら、味噌汁の香りを楽しみ、卵焼きがきれいに巻けるとちょっと嬉しくなる。そうして用意した食卓を仲間と囲み、笑顔を交わしながら一口ひとくちを味わえる。
ただそれだけのことなのに、胸の奥からじんわりと満たされていく。かつて失っていた普通の時間が、ようやく自分のものに戻ってきたのだ。
「そういえば、今日はどうするんですか? お店は休みですけど……」
「今日はみんなで町を散策しに行こうか。この間は出来なかったから、改めてって感じで」
「それはいいな。町を歩いて、食い倒れと行こうじゃないか!」
……やっぱり、ハイドの頭の中は食べ物でいっぱいだ。
「もう……ハイドは食べ物のことばかりね」
「食い倒れ……」
メルがぽつりと呟いた。その目は期待で少し輝いている。
「ほら、見ろ! メルも賛同しているじゃないか! というわけで、食い倒れで決定だ!」
結局、ハイドの勢いに押される形で決まってしまう。けれど……なんだかんだ言いながら、みんな楽しみにしているのが分かった。
この町にどんな食べ物があるのか、まだ全部を知ったわけじゃない。だから考えるだけで自然と胸が弾み、心がワクワクしていた。――ちょうどその時。
『アカネ、聞こえるか! アカネ!』
「わっ!? な、何っ!?」
突然、頭の奥に響く声に、思わず椅子から飛び上がりそうになる。
『よかった、起きておったか。我じゃ我、ヴァルヘルムじゃ!』
「あっ……もしかして、銀行にいるドラゴンの」
『そうじゃ、その我じゃ! 今、暇であろう?』
「ま、まぁ……仕事は休みですけど」
まさかこんな形で連絡を寄越すとは。心臓がどきどきして落ち着かない。そんな私の返答に、切羽詰まった声が重なった。
『チコの宝が煩くてかなわんのじゃ! だから今すぐ来て、どうにかしてくれー!』
「宝が……煩い?」
『とにかく、早う! 頼む!』
意味不明な言葉を残し、ヴァルヘルムとの通信は一方的に途絶えた。呆然と固まっていると、隣のハイドが大きくため息を吐く。
「……奴からの連絡か?」
「えっ、分かるの?」
「そりゃあな。長い付き合いだから、どうせまた『助けてくれー』だろうと予想はつく」
ハイドは肩を竦め、さらにもう一度ため息を落とした。
「じゃあ、行くんだな」
「うん。助けを求められた以上、放ってはおけないし」
「今日の予定はキャンセルか……。まったく、奴に貸しを作ったのはこれで何度目だ?」
ぼやきながらも結局は従うしかないハイド。その顔に浮かぶ呆れと諦めの混じった表情が、なんだか妙に板についていた。
◇
「ごめんね、メル……。急用ができちゃって……」
「全然、大丈夫です! 楽しみが後になっただけですから!」
「メルは優しいな。そんなメルには、こうだ!」
「きゃっ! くすぐったい!」
ハイドが私の腕からひょいと飛び移ると、メルの頬に顔をすりすりと押しつける。くすぐったそうに笑いながら、メルの耳がぴくぴくと揺れ、しっぽが楽しげに振られる。
もふもふ同士のじゃれ合い。見ているだけで頬が緩むし、正直、混ざりたくなるくらい微笑ましい。
そんな和やかな気分もつかの間、銀行に到着してしまった。中に入って貸金庫の手続きを済ませると、担当者が現れ、私たちを奥へと案内する。そして、あの日見た重厚な扉の前に辿り着いた。
「お待たせいたしました。私は外で待機しておりますので、ごゆっくり」
扉を開けた瞬間、耳をつんざくようなけたたましい鈴の音が飛び込んでくる。
「わっ……うるさい! 一体どうなってるの?」
「これは……また派手な騒ぎだな」
「誰かが鳴らしているんでしょうか?」
思わず耳を塞ぎながら中へと入ると、その騒がしさがさらに強まった。棚の奥で巨大な影が体を丸めている。
「あの……来ましたけど?」
声を掛けると、その山のような影がもぞりと動く。両手――いや、両の爪で耳を塞ぎながら、情けない顔でこちらを見た。
「えっ……ド、ドラゴン!?」
その威容を目にした瞬間、メルが全身の毛を逆立てて跳ね上がる。怯えたように体を小さく縮める彼女のそばに、ハイドがすぐ寄り添った。
「大丈夫だ。奴は危害を加えない」
「ほ、本当ですか?」
「あぁ、間違いない」
その声に安心したのか、メルの肩から力が抜けていく。ようやく落ち着いたのを見て、ヴァルヘルムが訴えかけるように口を開いた。
「おぉ、来たか。原因は分かるであろう。この鈴の音じゃ! どうにかしてくれぇ!」
しょんぼりと情けない顔で懇願する巨竜。その姿に思わず苦笑しながら頷き、私は棚の間を音を頼りに進む。
やがて視線がある棚で止まった。そこに、ひときわ強く震える金色の鈴があった。小刻みに揺れて、まるで自ら鳴き叫んでいるかのように音を撒き散らしている。
私はその鈴を手に、ヴァルヘルムの前へ差し出した。
「どうやら、原因はこの鈴のようです」
「ふむ……これは呪いを受けた形跡があるな」
「えっ、呪い!?」
思わず声が裏返り、鈴を落としそうになる。
「安心せい。今はすでに浄化されておる。我がここにおるおかげじゃな」
「は、はぁ……」
どうしてヴァルヘルムがいるだけで浄化されるのか、不思議でならない。私が首をかしげると、ヴァルヘルムは続けた。
「ただし、我の近くにあったせいで、鈴は別の力を宿したようだ。……しかも、わずかではあるが自我も芽生えておる。どれ、試しに声を聞いてみよ」
「わ、私が……ですか? でも、どうすれば……」
「チコの力を継いだのじゃろう? なら、物に声を与える魔法くらい出来るはずじゃ」
「声を……与える魔法……」
そんなことが出来るなんて――でも、おばあちゃんに出来たのなら、きっと私にも出来るはず。
私は目を閉じ、意識を集中させた。物が言葉を持つように。想いが音になるように。イメージを強く描き、魔力を流し込む。
次の瞬間、鈴がふわりと光を帯びた。
そして――。
「ここじゃ嫌だ! もっと、俺の音を響かせてほしい!」
澄んだ声が、確かに鈴から聞こえてきた。




