33.看板娘メル、誕生!(1)
時計の針が午前七時を指す。それを確認すると、私はエプロンの紐をキュッと結び直して気合を入れた。
「じゃあ、開店するわよ。準備はいいかしら?」
ハイドに視線を向けると、彼は無言でしっぽをひと振り。それが「任せろ」という返事だと分かって、思わず笑みがこぼれる。
一方で、メルはというと――。
「は、はいっ! よ、よろしくお願いします!」
小さな体をピンと伸ばして、やけに気合が入りすぎている。その姿は微笑ましいけれど、この緊張もいずれいい具合に抜けていくだろう。
メルは意を決したように扉の前へ歩いていく。深呼吸をひとつして、震える手で取っ手を握った。
「……い、いらっしゃいませ! 星見亭へようこそ!」
店内に元気な声が響き渡る。
すると、扉の向こうから人の話し声が返ってきた。何を言っているかまでは分からないけれど、メルは一生懸命に受け答えしている。
やがて扉が大きく開かれ、お客さんが中へと足を踏み入れる。
「ア、アカネ!? こ、これは一体どういうことニャ!?」
大きな声をあげたのはチャルカだった。その後ろからは、一昨日の三人組が戸惑い気味にぞろぞろと入ってくる。
「いらっしゃいませ。新しい従業員を雇ってみたんです」
私がさらりと説明すると、四人はきょとんとした顔。だけど、納得できないといった様子で、そのままカウンター席に腰を下ろす。
「ちょ、ちょっと待つニャ。昨日までは何も言ってなかったニャ」
「そうよねぇ。そんな素振り、これっぽっちもなかったわ」
「まさかこんな可愛らしい子を雇うとは……うむ、予想外だ」
「で、で? 一体昨日、何があったんじゃ?」
四人の視線が一斉に私へ突き刺さる。まるで「説明するまでは注文しないぞ」と言わんばかりだ。
横を見ると、メルがオロオロと所在なさげに立ち尽くしている。その姿が可愛くて助け舟を出したくなるけれど……いや、今は四人の詰問に答える方が先だろう。
「実はですね――」
だから、私は先に事情を説明した。順を追って話すうちに、四人の表情が少しずつ和らいでいく。
「あの後にそんなことがあったのかニャ」
「ははっ……良かったなぁ、本当に」
「それなら雇って正解ね。間違いないわ」
「ふむ、これも神の導きかもしれんのぅ」
それぞれが納得したように言葉を重ね、深く頷いてくれる。胸の奥がじんわりと温かくなった。
「――というわけで、ウチの看板娘をよろしくお願いします」
改めて頭を下げると、四人は声を揃えるように「うむ」と頷いてくれた。
「あ、あのっ!」
その時、不意にメルが大きな声を上げる。全員の視線が一斉に向く中、彼女は小さな手に伝票をぎゅっと握りしめ、真剣そのものの表情を浮かべていた。
「ご、ご注文を……お伺いします!」
すると、四人は表情を和らげて、普段はしない注文を次々とメルに伝えていく。メルは一つひとつ真剣に伝票へ書き込み、最後に丁寧に復唱した。
「――以上でよろしいですか?」
「合っているニャ」
「間違いないな」
「ええ、大丈夫よ」
「そうじゃ」
「ありがとうございます! 少々お待ちください!」
四人から賛同の声をもらった瞬間、メルはぱぁっと笑顔を咲かせて深々とお辞儀をした。そして小さな足で駆け寄り、私のところへ来る。
「アカネ! 注文、ちゃんと聞いてきました!」
弾けるような笑顔で伝票を差し出す。その耳はぴこぴこと忙しなく動き、しっぽは嬉しさを隠せずに揺れている。そんな姿があまりに可愛らしくて、思わず頬が緩んだ。私はそっとその頭を撫でる。
「うん、偉い! よくやったね!」
「え、えへへ……」
少し大げさに褒めてやると、メルは恥ずかしそうに身を縮めながらも、心から嬉しそうにはにかんだ。
「ちっちっちっ、それじゃ褒めたうちに入らねぇな」
わざとらしい声が割って入る。振り向くと、カウンターの上からハイドが得意げにこちらを見ていた。
「えっ、じゃあハイドはどうやって褒めるの?」
「俺か? こうだ!」
勢いよくカウンターから飛び降りたハイドは、メルに両手を広げて抱っこをせがむ。戸惑いながらも抱き上げると、ハイドはすかさず顔や体をすりすりと押し付けた。
「よくやったぞメル! 偉い偉い! ご褒美に俺のセクシーゴロゴロをくれてやる!」
そう言って、腕の中でゴロゴロ喉を鳴らしたり、お腹を見せて転がったり、挙句の果てにはくるくる回り出す。
「ふふっ、ハイド、くすぐったい!」
「どうだ、嬉しいだろ!」
「うん、とっても嬉しいです!」
「ほら見ろ! 俺の褒め方の方が最高だろう!」
ハイドはキリッと得意げな顔でこちらを見やる。だがどう見ても、それは褒めているというより、ただメルの可愛さに負けて甘えているだけにしか見えなかった。
「ふふふ……俺の褒め方が上手すぎて、言葉も出ないか!」
「……はいはい」
「なんだその生返事は!」
そんなことより、まずは注文に応えるのが先決だ。
私は道具を調理台に並べ、コーヒー豆を丁寧に挽き、お湯を沸かす。香ばしい香りがふわりと漂い、心まで温めてくれる。慎重にドリップしてカップへ均等に注ぎ、最後にソーサーへ砂糖とミルクを添えると、熱々のホットコーヒーが出来上がった。
カウンター越しに差し出そうとした瞬間、四人がそろって切なげな顔をする。
「できれば、メルちゃんから受け取りたいニャ」
「健気に頑張る姿が見たいのぅ」
「我もそう思う」
「メルちゃん、おねがーい!」
子供のようにせがむ声に、私は思わず笑ってしまった。
「ふふっ、分かりました。メル、お客さんにホットコーヒーをお出しして」
「はいっ!」
頷いて答えると、私はトレーにコーヒーを一つ乗せ、メルへと手渡す。メルはこぼさないように両手でしっかりと持ち、慎重に一歩ずつ客席へ歩いていく。その横顔は真剣そのもので、小さな背中がとても頼もしく見えた。
やがて一番最初の客の前に立ち、そっとソーサーごとカップを差し出す。
「お待たせしました、ホットコーヒーです!」
「ありがとニャ!」
受け取ったチャルカは嬉しそうに顔をほころばせ、そのままメルの頭を優しく撫でた。撫でられたメルは恥ずかしそうに目を伏せ、小さな声で「ありがとうございます」と返す。
「あっ、チャルカだけずるーい! 私もー!」
「次は我の番だ!」
「わしにも早く届けてくれんかのー」
「お、お待ちください!」
すぐさま他の三人から声が飛び、店内は笑いに包まれる。メルは慌てて私のところへ戻ってきて、次のカップを受け取った。
それから一つずつ丁寧に運び、渡すたびに頭を撫でてもらって――その度に、メルは嬉しそうに花が咲いたような笑顔を浮かべる。
そんな姿を見る私たちの胸も、自然と温かくほどけていく。星見亭の空気は、今まで以上に柔らかく、優しいものへと満ちていった。




