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異世界喫茶で再出発ライフ  作者: 鳥助


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25.閉店

「ありがとうございました」


 笑顔で出ていく最後のお客さんを見送る。扉の鈴が小さく鳴り、店内がふっと静かになった。時計に目をやると、針は六時三十四分を指していた。


「……すごい」

「ん? どうした?」

「いや……閉店前なのに、お客さんがみんな帰ってるから」

「そりゃあ、常連ばかりだしな。閉店時間を知ってるから、その前に切り上げるのが普通だろう?」


 ハイドは肩を竦めて、まるで当たり前のことだと言わんばかりに答える。


 でも、私にとってはそれが衝撃だった。


 以前いた世界では、終業時間なんて形だけ。定時に近づけば近づくほど「ちょっとこれ、今日中に仕上げておいて」と追加の仕事を渡され、帰るどころかさらに机に縛りつけられるのが日常だった。


 帰宅時間が伸びるのは当たり前。終電に間に合うかどうかでハラハラする夜も珍しくなかった。だから、閉店時間が来る前に仕事が終わるなんて、私にとっては「ありえない奇跡」だったのだ。


「……こんなこと、現実にあるんだ」


 思わず、ぽつりと呟いていた。胸の奥から込み上げてくるのは、不思議な安堵感。まるで体中に積もっていた重たい荷物を、ひとつずつ降ろしていくような感覚だった。


 ここでは、ちゃんと時間が区切られる。働く人も、訪れる人も、誰もが無理をしないで過ごしている。


 こんなにも当たり前のことが、こんなにも尊くて嬉しいなんて。込み上げる感動に、私は両手を胸に当てて、静かに深呼吸をした。


「まったく、大げさだなぁ。日本ではどんな生活をしていたんだか」


 ハイドの呆れたような声が耳に届く。けれど、これは私にとって本当にすごいことだった。予定通りに仕事が終わるなんて、前の世界ではありえなかったのだから。


 最後のお客さんの食器を片づけ、テーブルを丁寧に拭き上げる。魔法で食器をきらりと輝くほど綺麗にして棚に戻したら――ほら、もうやることが何も残っていない。


「……すごい。ほんとに、仕事が全部終わっちゃった」


 ぽつりと呟いた瞬間、胸がじんわりと熱くなった。肩の力が抜くだけで体が軽くなる。解放感に包まれて、心がふわりと浮かぶようだった。


 今日の仕事はここまで。ただそれだけのことが、こんなにも幸せで、心を震わせるなんて。


 カウンターの上に飛び乗ったハイドが、鋭いその瞳でじっと私を見つめている。その目は「この程度で感動するなんて」と呆れた色を含みつつ、ほんの少しの憂いも浮かんでいた。


「……お前、本当に日本でどんな生活してたんだ?」


 小さく吐き出したハイドの声には、からかうような響きと同時に、わずかな戦慄も混じっていた。


 時間通りに帰れないのが当たり前。仕事が終わらないのが日常。そんな環境に置かれていた私を思うと、ハイドは想像するだけで恐ろしくなるのだろう。


 私はそんなハイドの心配を知らぬまま、ただ胸いっぱいに広がる自由の空気を味わっていた。


 だけど、その時――扉がカランと鳴った。


「えっ!? あ、い、いらっしゃいませ!」


 慌てて姿勢を正して声を上げる。振り向くと、そこにいたのはチャルカだった。


「アカネさん! もう仕事は終わったかニャ?」

「……なぁんだ、チャルカかぁ。あっ、もしかしてコーヒーを飲みに来たの?」

「もう閉店の時間ニャ。アカネさんに追加の仕事を押しつける気はないニャ。今日はお誘いに来たんだニャ」

「お誘い?」


 小首を傾げる私に、チャルカはニカッと笑う。


「アカネさん、夕食はもう済ませたかニャ?」

「ううん、まだ。ずっと仕事してたから」

「だったらちょうどいいニャ! 一緒に夕食を食べに行くんだニャ。もちろん、外で!」

「えっ……外で?」


 なるほど、チャルカはわざわざ私を夕食に誘いに来てくれたらしい。星見亭の準備に追われて、まだこの町のことはほとんど知らない。でも、チャルカが案内してくれるなら、美味しいお店を教えてもらえそうだ。


 異世界のお店か……すっごい興味ある。


「うん、一緒に行きたい」

「なら、決まりニャ! 早速行くんだニャ!」

「ちょ、ちょっと待って。まだ七時になってないよ?」


 星見亭の閉店時間は七時。だから、それまでは店に残っていなきゃいけない。そう思い込んでいた。


「おいおい、そこまできっちりしなくてもいいぞ」


横からハイドが呆れたように口を挟む。


「チコはこの時間になったら、気分で早めに閉めていたぞ」

「えっ!? ま、まだ閉店時間じゃないのに……勝手に閉めてもいいの?」

「全然構わない。早く終われるなら、早く終わった方がいい」

「えっ……ほんとに? 本当にいいの? 怒られない?」

「怒る奴なんていないニャ」

「で、でも……決まった時間って……守らなくちゃ……」

「アカネさん、顔が真剣すぎるニャ……」


 私は目をぱちぱちと瞬かせながら、戸惑いで頭の中がぐるぐるする。早く閉めてもいいだなんて……そんな常識、今までの私にはなかった。


「し、信じられない……そんなことが……」

「お前、本当にどんな環境で働いてきたんだ……?」


 ハイドが心底恐ろしげな目で私を見守る。私はまだ、信じ切れずに閉店札に手を伸ばすのをためらっていた。

 

「仕方がない、俺が閉めてやろう」


 ハイドが立ち上がり、片手を軽く振る。すると魔法が発動し、扉の札がくるりと裏返って閉店の文字に変わる。同時に、店内の灯りが一つだけを残して順番に消えていった。


「ほら、これで閉店だ」


 胸を張るハイドの姿は、どこか得意げで、まるで大仕事を終えたかのようだった。暗くなった店内を見渡すと、じわりと肩の力が抜けていく。本当に……閉店時間より前に閉めてしまっていいんだ。


「さぁ、外へ行くぞ! 俺も付き合ってやる」

「アカネさん、行こうニャ!」

「う、うん……!」


 二人の勢いに背中を押されるように、私は慌ててエプロンを外した。胸の奥にまだ小さな戸惑いが残っていたけれど、それ以上に、今まで味わったことのない自由の感覚が広がっていくのを感じていた。

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