22.夕方の営業(1)
時計を見れば、時刻は五時十二分。窓の外から差し込む橙色の光が店内を柔らかく包み込み、なんとも温かな空気を作り出していた。
そろそろ夜が訪れる頃だ。暗くなる前に明かりを灯すと、ランプの光がぱっと広がり、室内は一気に賑やかさを取り戻した。
「昼のお客さんも帰ったし、残るは夕方のお客さんだね」
「中々の込み具合だったな。夕方ぐらいはのんびりしたいが……そうもいかんだろう」
エプロンの紐を結び直した私の横で、ハイドがやる気のない声を漏らす。気が抜けたようにカウンターに寝そべり、へそ天になったまましっぽをゆらゆら。
「ちょっと、そんな格好しないでよ。お客さんに見られたら恥ずかしいでしょ」
「どうせ誰も見てないんだから構わん」
「そんなこと言ってると……こう!」
私はだらしなく転がるハイドの体に手を伸ばし、わしゃわしゃと容赦なく撫で回す。
「ギャハハッ! やめっ、やめろって!」
ハイドはジタバタ暴れた後、ふっと霧のように姿を消した。そして次の瞬間、カウンターの端に現れて私を睨む。
「俺の体で遊ぶな!」
「遊んでないってば。ちょっと整理整頓してただけ」
「俺は放置されてたおもちゃか!」
じとっとした目で睨まれるけど、そんなものに負ける私じゃない。
「でもさ、今日も結構忙しかったし、これで少しは休めたでしょ?」
「いつもよりも客が多すぎて、俺の体力が持たん。……いっそ新しい従業員を雇ったらどうだ?」
「うーん……それもありかも。確かにハイドだけじゃ回らなかったしね。猫の手が足りないよ」
「俺はケットシーだ!」
からかうように笑うと、ハイドは耳と毛を逆立てて全力で否定する。その様子はどう見ても、猫なのに。
その時、扉が開いて、小さな鈴の音が転がった。
「いらっしゃいませ。星見亭へようこそ」
すぐに笑顔を作って振り向くと――そこに立っていたのは、小さな少年がひとり。
「あれ? 親御さんは後で来るのかな?」
「いや、その子は――」
不思議に思って声をかけると、子供はキリッと表情を引き締め、ぺこりと丁寧に頭を下げた。
「初めまして。チコさんには大変お世話になっていました。星見亭が再開したと聞いて……来たんです」
小さな体に似合わぬしっかりとした口調に、私は思わず目を丸くした。どうやら、この子も常連だったらしい。
すると、横でハイドが事情を補足する。
「その子の家は父親だけでな。仕事が遅くなる日は、こうして一人で飯を食べに来るんだ」
「……そうだったんだ」
胸の奥がじんわり温かくなる。小さな常連さんを迎えられることが、なんだかとても嬉しかった。
「新しいマスターのアカネさんでいいですか?」
「はい、そうですよ」
「よろしければ、今後もここで食事をとっても大丈夫ですか?」
「もちろんです。いつでも好きな時に来てくださいね」
凛とした表情を崩さずに言う少年。私が笑顔で頷くと、その顔が少しだけ柔らいだ気がした。
「では、失礼します」
そう言って、少年はカウンター席に腰を下ろす。すぐに、ハイドがトコトコと近寄った。
「よぉ、久しぶりだな」
「ハイドさん、お久しぶりです。元気そうで何よりです」
「ちゃんと食べてたか?」
「はい。お父さんが色々作ってくれますし、いない時は別のお店で食べたりしてました」
普段はだらけてばかりのハイドが、珍しく心配そうにしている。やっぱり小さな子には、つい気を配ってしまうんだろう。
私は氷水を用意して、少年の前に置いた。
「何を食べますか?」
「うーん……悩みますね。久しぶりに来たので、食べたいものがいっぱいです」
「どれどれ、俺が聞いてやろうか?」
そう言ったハイドは、ぴょんと少年の膝に飛び乗り、お腹に耳をぺたりと当てる。
「ふむ……今日はぜんぶ食べたいって言ってるな。全部注文するか?」
「もう、お腹がそんなこと言うわけないです」
「いやいや、確かに言ったぞ。ほら、試しに俺の腹に聞いてみろ」
「えー、ハイドのお腹ですか?」
ハイドは得意げにカウンターへ戻ると、ゴロンとへそ天になってお腹を差し出した。少年は目を輝かせ、楽しそうに耳を当てる。
「……ぜんぶ食べたーい」
ハイドがなるべく口を動かさずに喋ると、少年はぱっと顔を上げて笑った。
「あっ! 今のはハイドが言ったんですよ!」
「いいや、これはお腹の声だ」
「だから、お腹がそんなこと言うわけないですー!」
「なんだと? じゃあもう一回だ!」
そう言うなり、ハイドが少年に飛びかかり、お腹を顔に押しつける。
「どうだ、今度は分かったか!」
「全然聞こえません!」
「……ぜんぶ食べたーい。ほら、言った!」
「だから、それはハイドが言ってるんです!」
二人はすっかり打ち解けて、じゃれ合いながら笑い声を響かせていた。その光景を眺めていると、私までつい頬が緩んでしまう。
ハイドって面倒見がいいね。いつまでも見ていたい光景を夕日が優しく包んでくれていた。




