4:それは青く、碧く、沈んでいく
啓輔の言う通り、電車は二駅ほど過ぎて目的地へと着いたようだ。
「着いたよ。早く降りよう」
椅子から立ち上がった啓輔に促されるまま電車を降りる。
鼻先を擽る潮風の香り。耳元に届くさざめきは寄せては還る水の音をしている。
俺達を乗せてきてくれた電車はまだ終着点に辿り着いていないのだと足早に去っていく。遠ざかるその背を視線で追いかけ、そして、降り立った駅の向かい側――俺は眼を見開いてその光景を見つめていた。
「……――海?」
白い砂浜が横一面に広がり、大海原が俺の視界を全て埋め尽くす。言葉にするのが勿体ないと思うほどの、青がそこには存在していた。
「綺麗でしょ? 逃避行場所にはもってこいなんだよ」
啓輔はそう言って俺の背中をポン、と叩く。
「結構この場所は穴場でね。海の傍に駅がある有名処はあると言えばあるんだけど、此処は地元民にとっては有名処ってだけなんだよ」
この駅に関する解説を聞きながら俺は啓輔に導かれるまま改札口に切符を入れて駅から外へと出ていく。
線路を渡り、向かいの海側へと足を進めた。距離は然程遠くなく、歩いて数分で砂浜に降りることができるほどだ。
ざざん、ざざん、と波の音が俺達を迎え入れる。さくさくと踏みしめた足が砂に纏わりつかれて沈んでいくのを感じる。
波打ち際まで辿り着いて、ようやっと俺は息を吐き出すことを思い出した。
「海に見惚れすぎて、息をするの忘れてたの?」
「そう、かもしれない」
啓輔の揶揄いに否定の言葉を返せなかった。目の前の景色はそれほどまでに綺麗だったのだ。
言葉にすれば陳腐で、ありきたりな表現でしか伝えられないけれど、晴天の空をそのまま映したような青い絨毯が所狭しと広がっている。果てのない先まで、ずっとずっと続いているのだ。
雄大な海はいとも簡単に俺を呑み込んでしまった。俺の中の感情も、俺自身も、何もかも、全て。
「凄いな……」
何もかも捨てて逃げたかった。大人の都合に振り回されて望んでもいない場所へと引っ越さなければいけなくて。置いていくことになる大事な親友との繋がりを信じたくて、信じ切れなくて。
でも手離せないから、手離したくないから繋いだまま逃げたかった。
逃げた先に何も無いと分かっていて、それでも逃げたかったから逃げた。啓輔に連れられて辿り着いた果てが此処だと言うのなら、俺にはもう、これ以上の逃げ場所は無いと思えた。
「啓輔」
「何?」
「連れてきてくれて、ありがとう」
心からの感謝を込めて、一言。啓輔は何も言わなかったけど、隣に居てくれる。それだけで十分だと思った。
暫くの間、二人して海を眺め続けていた。時折高くなる波を避けるため、後ろに下がったりまた近づいたりを繰り返しながら、海の奥、地平線の向こう側が見えたりしないかな、なんて心躍らせてみたり。
どれだけの時間を此処で過ごしただろうか。気付けば太陽は落ちて夕焼けに変わり、沈んでいく陽光が夜のヴェールを引っ張り出す。
一つ、二つ、と星が瞬きだす頃、そろそろ帰らなければ、なんて――逃げたいと言った人間が考えないだろうことを思い浮かべた。
結局俺は、逃げることすら最後まで出来ないんだと、唐突に思い知らされる。
中途半端過ぎて嫌になる。あれは嫌だ、これは嫌だと駄々を捏ねるだけの子供でしかない。それも小さい子供のイヤイヤ期みたいなものだ。
そんなことに大事な親友を巻き込むとは、なんとも情けなくて溜息が零れた。
「啓輔、ごめん」
「何が?」
「いや、その……変なことに巻き込んだなぁ、って……」
「別に僕は気にしてないよ」
「けどさ、」
「亮が逃げたいって言った時、僕は嬉しかったから」
「……え?」
「僕もね、丁度逃げたかったんだよ」
啓輔の言葉に驚いて、俺は声を詰まらせた。逃げたかったのが俺だけじゃなかったことへの安堵なんて浮かばず、どうしてという疑問だけが頭の中を占める。
「今の家族も、学校も、友人も、何もかも全部、全部捨ててしまいたかった」
「……」
「でも一人になりたいわけじゃないから、結局は諦めてたんだ」
「啓輔……」
「そんな時に亮が逃げたいって言うんだもん。渡りに船だったよね、あれは」
心底可笑しそうに笑う啓輔の横顔を直視しても、宵闇が訪れるこの場所では上手く見ることができなかった。
「ねぇ、亮はどうして逃げたかったの?」
「俺は……」
「今までの亮を見てても僕みたいに逃げたいなんて思うような事があるとは思えないんだけど」
「……――」
淡々と、静かに問い詰められる。啓輔を見つめているのは俺だけで、啓輔は俺を見つめることなく海だけを見ている。その視線がこちらへと向くことがないことに覚えた安堵は、俺の心のしこりとして居座った。
「――昨日の夜、父さんから転勤の話を聞かされたんだよ」
「うん」
「短期じゃなくて、長期。下手すりゃ定年までそこで勤めてくれ、って言われたって」
「うん」
「だから、俺もそれについてかなきゃ行けなくて」
「……転校、するの?」
「…………あぁ」
「……」
「俺はしたくないって言った。此処に一人でもいいから残りたいって。でも、」
「許されなかったんだね」
昨日の出来事を震える声で吐き出していく。脳裏に浮かぶ苦しそうな顔をした父親と、泣きそうな顔をした母親が二人して俺に謝ってくる。
謝るくらいなら俺を残してくれ、なんて、叫んだところで叶いはしない。
年齢が許さない。未成年という身分が許さない。親という立場が許さない。
全てが許さない。否応なく現実は残酷なまま、覆されない決定事項だけがそこには在った。
「なんで俺、子供なんだろうな」
「……」
「もっと大人だったら……せめて、高校生くらいの年齢なら許されたのかな?」
「……さぁ、どうだろう?」
「俺――俺さ、」
「うん」
「お前と離れるの、嫌だよ」
「……――うん」
「ずっと一緒にいるもんだと思ってたんだ」
「……」
「高校も、大学も、その後の人生でもお前とだけはずっと一緒だって、そう、思ってた」
「……」
「でもさ「ずっと」って無理なんだな」
小さな頃から隣にいて、何をするにも気が合って、いつも一緒にいて。当たり前のように息をするのと同じくらい、啓輔が傍にいることが当然だった。
ずっと、変わらずに、これからも――なんて、永遠なんてないってこと、俺は知らなかった。
知ってしまった今を壊そうとして、大きな壁が立ちはだかってもどうにかできるなんて無謀にも思えるほど子供であれば良かったのに。
俺は、逃げ出したかった。手離せない啓輔の手を引き摺って、後ろ向きに逃げて、逃げて、逃げて――
「啓輔、此処まで一緒に来たのに――ごめん。俺、帰らなきゃ」
逃げるフリをすることで、啓輔の手を離す瞬間を遅らせようとしていた。ただ、それだけだった。
結局のところ俺は、独りにはなれなかったんだろう。全部捨てて逃げ出して、生きていく勇気すら持てなくて。突発的な感情のままに動いただけ。
そして最終的な責任という重圧を背負いきれないと早々に諦めた。あんなにも手離したくないと思っていた啓輔の手を、俺は、今この瞬間、手離してしまったんだ。
「そう……――なら、仕方ないね」
啓輔は変わらず淡々と、淡々と事実を受け入れる。
くるりと海へと背を向けて、駅へ向かって歩き出す。俺はそれを追いかけることがすぐにはできなかった。
これでよかったのだろうか。啓輔は本当に逃げたがっていたのかもしれないのに。
俺一人の勝手な都合に巻き込んで、自分勝手な無責任の片棒を担がせて、挙句の果てにはこれでさようなら、なんて。
「亮」
啓輔が俺の名を呼ぶ。
「僕は一人にはなりたくないんだ。だから、逃げるのは此処まで」
ついてこない俺を振り返る啓輔は、微笑んで。
「だけどね、独りになれると思ったら、僕はとことん逃げることにするよ」
美しく弧を描いた口角が、ゆっくりと象る言の葉は。
「僕は生きることそのものからも、逃げたいと思っているからね」
優しく響く啓輔の声は、寄る辺ない子供のような、そんな、か細さを感じさせた。
その後のことは正直うろ覚えだ。二人して最終電車にどうにか乗り込み、無事に家に帰ることができたのは辛うじて覚えている。
帰宅後、両親には当然怒られた。というか、泣かれた。滅多に涙を見せない父親にもだ。
心配を掛けさせた自覚はあるので、説教は黙って最後まで聞き素直に謝罪はした。そして転校に関しても受け入れることを告げると、両親は言葉を無くしたように喉を詰まらせ、ありがとう、と絞り出すように言ったのが印象的だった。
そこからはあれよあれよと言う間に転校と引っ越し先が決まり、学校側からクラスメイトに告げられ、挨拶をして、そして――最終日。
俺は啓輔と最後の言葉を交わした。
「向こうでも元気でね」
「あぁ。お前もな」
車に乗り込む前、両親が気を利かせて作ってくれた最後の時間。どんなことを言えばいいのか、伝えようと思っていたことはなんだったのか、頭の中がぐるぐると回る。
手離してしまった手を、再度繋ぐことはもうできない。それでもこれを最後にだけはしたくなくて。
「向こうに着いたら連絡する」
「大丈夫だよ。無理はしないで」
「無理じゃない。絶対にする。で、いつか、いつか必ずまたお前に会いに行く」
「……」
「絶対だ。絶対に、俺はまたお前に会う。だから、」
「……――うん。分かった」
差し出された右手――の小指。俺はそれが何を意味するか一瞬分からなくて固まってしまったが、すぐに察して慌てて同じように小指を出した。
「約束、だよ。必ず会いに来て」
「あぁ、約束だ。必ず会いに行く。だからそれまで――逃げるなよ」
絡めた小指が熱くて。少しだけじわりと眼尻に雫が溜まる。
啓輔は応えず、ただ、微笑んだ。
「さようなら、亮。また会える日まで」
そうして離れた指先が、俺達の最後の繋がりをゆっくりと解いていく。
必ずまた会いに行く。そう誓ったこの瞬間を、俺は忘れることはなかった。
忘れることだけは、無かったのに――




