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2:振り返る過去の君は鮮明に

 続いた真夏日は雲一つない晴天だ。ここ最近ずっと雨なんて降りやしない。作物に与える影響は大きく、農家の人達は悲鳴を上げているとニュースで特集を組まれていたことを思い出す。

 寝起きの頭でぼんやりと大変そうだな、と見ていただけなのだが、こうも暑いと作物関係なく悲鳴を上げたくなるのは道理だろう。

 燦燦と降り注ぐ太陽の光を睨みつけ、ふと、あの日もこんな天気だったな、と過去の風景が目の前をよぎる。

 あの日、夏の暑さを前にして、二人で語り合った逃避行先での出来事だ。


 それは俺が今の中学校を父親の転勤が理由で離れなければならないと知った翌日のこと。前日の夜に大事な話があると切り出された転勤と転校の話にすぐに頷けるなどできなくて。

 沢山反論した。行くなら一人で行けばいいと。単身赴任なんて世の中に五万といるだろうと。

 感情のままに叫んだ言葉に母は申し訳なさそうに俯き、父は真っ直ぐ俺を見つめたままそれでも首を縦に振ることだけはしなかった。

「すまない。お前の気持ちも分かるが、置いて行くことだけはできない」

 自分の年齢がまだ未成年であること。生活能力を鑑みても一人暮らしをさせることが難しいこと。なにより父の転勤が決まった時に上司から期間限定ではなく長期間、それこそ定年まではそちらで仕事をしてもらうと断言されていた。

 この時点で母親が残るという選択が最初からない。決定が覆される要素は一つとして残っておらず、俺の苛立ちだけが無駄に生産されていくばかり。

 その夜の会話は俺の怒りが両親に八つ当たりするだけで終わった。朝になって少しは冷静になった頭でも素直に謝るなんて選択肢はなく、用意された弁当を引っ掴んで無言で家を飛び出した。

 学校に着いて前半の授業を全て受けた後、昼休憩の時間が来て早々に俺は弁当を入れた鞄を片手に、もう片方の手で隣の席に座っていた人物の腕を掴んで屋上へ向かう。

 背後から聞こえてくる声は無視。今口を開いてしまうと無関係の相手にまで八つ当たりしてしまいそうで怖かったから口を噤んだ。

 軽快な音を立てて動く足は最上階に到達するまで止まらない。それを追いかけるようにもう一つの足音が続く。立ち止まろうとする気配がないことに内心安堵しながら辿り着いた目的地。

 固く閉ざされた扉のドアノブを掴んで力任せに開ければ、その先に広がるコンクリートの床と落下防止の柵の群れが出迎えた。

 見上げた先に広がる青が俺の心を逆撫ですることなく雄大に泳ぎながら歓迎してくれている。

 先に俺が潜り、次いで入ってくるのは俺が手を無理矢理引っ張ってきたもう一つの足音の主――親友である啓輔だ。

 少しばかり息を切らしながら伸ばされた手が俺の背中をポンと叩いた。

「お腹空いているのは分かるけど、ちょっと早く行き過ぎ。もう少し僕のこと気遣ってよ」

 呆れたような声音で責められて、不貞腐れた子供が顔を出す。ごめんという一言をうまく吐き出せないまま顔を横にそむけた。

 掴んだままだった手を離していつもの定位置――と言っても真っ直ぐ前に進んでフェンスを背に座るだけ。

 胡坐をかいて乱雑に弁当の包みを解く俺にわざとらしい溜息が落ちてくるけど自業自得と分かっているので何も言えない。

 啓輔はそれ以上何も言わず、俺の隣に座り込むと同じように持ってきていた弁当を取り出し食べ始める。きちんと両手を合わせて「頂きます」と挨拶するのを忘れずに。

 両親の躾の賜物か、啓輔は食事の挨拶を欠かさず行う。俺の知るかぎりでは一緒に食事をするときに手を合わせないことはなかった。

 つられて俺も手を合わせて頂きますと言うことがある。別に悪いことをしているわけではないのだが、どうにも外でするには気恥ずかしくて進んでは行わない。啓輔が微笑ましそうに俺を見るのも原因の一つではあるが。

 気まずさ拭えぬ空気を感じながら、いつも通りのお昼の始まりにようやっと口を開くことができた。

「……なぁ、啓輔」

「何?」

「これ食べ終えたらさ、逃げ出さない?」

「サボりのお誘い?」

「いや、サボりってより、逃走」

「逃走……何処へ?」

「何処でもいい。遠くへ行きたい」

 本当に言わなければいけない言葉はこれじゃなかった。まずはちゃんと謝って、引っ越すことになったと変えられない事実を告げなければいけなかった。

 啓輔とはこれからもずっと一緒にいるだろうと思っていた。

 それが当然だと信じていた未来が突如消えて、別の道へと進まなければならないと勝手に舗装される。子供である俺に選ぶ権利はないと大人の都合が嘲笑う。

 その先にどんな光景が待っていようとも、簡単に受け入れることだけはどうしてもできなかった。


 俺の隣に啓輔がいない。


 それはきっと、寂しいなんて言葉で語れない程の苦痛と絶望があると知っている。識っているんだ。

 これで永遠の別れになるわけではない。冷静に考えればいつかまた会おうと誓うことは出来て、それを叶える為の努力を怠らなければいい。

『離れがたいと思えるほど大切な人の為なら、どんな困難すら乗り越えていける』

 そんな熱血漢なヒーローが言いそうな台詞が頭を過れば良かったのだろうが、この時の俺の中にはなかった。

 この先の道は別れ道だと唐突に突きつけられた。突きつけてきた相手は大人であり両親だ。まだまだ子供で親の庇護下から離れるには幼いと言える年齢の俺に逆らう術はない――筈なのに。

 子供と言うには幼さを忘れて、大人と言うにはまだまだ経験不足否めない、そんな中途半端な立ち位置にいる中学三年生の俺は逃げることにした。一人ではなく、二人で。

 逃げたい理由の大半が隣にいる親友だ。なら巻き込んでしまっても許されるだろう。

 傲慢と言われてしまえばその通りと頷ける。だが当時の俺が逃げる時はいつだって啓輔と一緒だ。

 だから今回も一緒に逃げたかった。逃げて、それで、どうなるわけでもないと分かっていて、眼を逸らしていたかった。今は、まだ。

 暫しの沈黙。お互いに動く口は運び込んだ食べ物を噛む音だけが静寂を切り裂くように落ちていく。

 啓輔の反応を真正面から見ることができず、黙々と食べるだけ食べて、中身が綺麗になくなったらそのまま空っぽの弁当箱を見つめていた。

 少し遅れて啓輔も食べ終わったのか、いつものように「ご馳走でした」と挨拶をして、ゆるりと立ち上がる。

「亮」

 俺の名前を呼んで、差し出された真っ白な掌。

「逃避行先は僕が選んでいい?」

 柔らかく弧を描いた口角は笑っていた。反面、瞳はドロリとした感情を滲ませている。羨望のような、絶望のような――選択を誤ればぷつりと途切れてしまう蜘蛛の糸を垂らした啓輔がそこに居た。

 こんな啓輔を見るのは初めてで、知らず知らずのうちに息を殺してしまう。とある文豪が書いた作品に出てくるお釈迦様のように救いを差し出してくれているはずなのに、どうして彼の方が罪人のように思えてしまうのだろう。


 今からそれに縋りつこうとする俺の方が、よっぽど罪人に相応しいはずだろうに。


 けれど。あぁ、けれど。ともに罪人として、逃亡者として落ちるのならそれでいいのかもしれない。

 俺はゆっくりと喉奥から絞り出した息を吐き出し、頷きながら啓輔の手を掴む。

「遠くなら何処でもいい。啓輔の行きたい場所まで行こうぜ」

 逃げられることに安堵して、俺はようやっと本日初笑いできたような気がする。詰まるような空気もなく、見上げた空のように心は晴れやかで。

 何処へ行くのだろうなんて遠足前の子供のようにはしゃいでは啓輔に窘められたりして。

 そうやって自分の事しか見れていなかった俺は逃げようと言った俺の言葉を素直に受け入れた啓輔の表情かおを、見逃した。

 歓喜よりも仄暗い、絶望というには底がない。垂らした糸の先を掴んだ俺を通して見つけた何かに、啓輔が感じた寂寞を。

 

 その一瞬をいつか必ず後悔することになると知らないままに。

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