57. 不浄の覇王と聖域の断絶
「何が出てきても、ここで終了だからな」
「そう何度も言わんでもわかっとるわい! さっさと扉を開けるのだ!」
「分かってんならいいんだけどよ……行くぞ」
深層も半ばまで来ただろうか、いつもより重厚な扉が、ギィィ――と音を立てて開かれる。
石畳調の床が定番の主の間であるが、ここでは様相が変わっていた。
「なんですか、ここ。 まるで荒野みたいです」
アリスはキョロキョロと周囲を見渡す。
とこまでも続く地面と、大きな岩群……そして何より異様なのは空だった。
「暗雲立ち込める、といった所でしょうか」
ノーラが空を見つめ呟く。
空を埋め尽くした鈍色の雲が、今にも地上を圧し潰さんばかりの低さで垂れ込めている。
その不自然なほどに静まり返った空は、これから起こる事象の全てを、隠そうとしているようでもあった。
「全員、気を抜くな……。 ドレイヴンさん、家訓は一度忘れてくれ。 ここは全員で行くぞ」
悠馬の緊張した言葉に、全員が武器を構える。
その時、悠馬の視界に『赤い矢印』が明滅し始める。
「来るぞ! 全員後方へ飛べっ!」
悠馬の叫びは、悲鳴に近かった。
その異様な切迫感に、アリスとノーラが反射的に身を翻す。
ドレイヴンさえも、その一瞬、悠馬の『正解』を信じて大剣を担ぎ直した。
全員が後方へ飛び退いた、その直後。
――世界が、死の色に染まった。
見上げた天には、汚れた灰汁をぶちまけたような、淀んだ鈍色の雲が渦を巻いている。
陽光は完全に遮断され、陽を失った世界は、まるで巨大な怪物の胃袋に飲み込まれたかのように、じわじわと光を失っていく。
その暗雲の中心から、『音』が降ってきた。
声帯が腐り落ち、肺に穴が空いているような、生理的な不快感を伴う異音。
咆哮と呼ぶにはあまりに無機質で、錆びた鉄板を爪で引き裂くような高音と、粘り気のある粘液が沸騰するような『……ギ、ガガ……ギギィィ……』という湿った音が、鼓膜をゴリゴリと削り取る。
ドサリ、と。
暗雲から、山のような『死』が地上に落ちた。
――ドラゴンゾンビ。
山のような『死』が地上に落ちたというのに、その衝撃は音もなく砂地に吸い込まれた。
立ち上がる土煙さえ腐臭を帯び、世界から一切の色彩が奪われていく――。
肉の大半は削げ落ち、剥き出しになった骨格は、汚濁した魔力によって青黒く変色している。
辛うじて残った皮膚は腐敗し、そこから這い出る蛆虫さえもが魔獣化している。
顎を大きく割って、虚無と怨念が渦巻く空気を漏らしながら、その『不浄の覇王』は、目の前の生ある者たちを、冷徹な殺意で捉えた。
「(……なるほど。これが『特級深層』の、本当の姿ってわけか。)」
悠馬の頬を、死の冷気が撫でていく。
視界の端では、なおも【赤い矢印】が、生存確率の低さを突きつけるように、激しく明滅を続けていた。
突然――空間そのものが爆発した。
不浄の覇王が、腐り落ちた巨翼を真横に振り抜いたのだ。
それは羽ばたきなどではない。質量と魔力を叩きつける『強襲』だった。
荒野の岩群を礫に変えるほどの暴風が吹き荒れる。
アリスとノーラがその風圧に顔を覆う中、ただ1人、暴風に逆らって突き進む影があった。
「やってくれるではないかっ!」
――ドレイヴンだ。
彼は重力など無視したかのような踏み込みで、大剣を上段に構え直す。
だが、その一撃が放たれる直前、ドラゴンゾンビは巨体に似合わぬ速度で垂直に舞い上がった。
腐敗した翼から汚濁した魔力を噴射し、重力から解き放たれる。
ドレイヴンが全力で振り下ろした大剣は、ただ虚空を断ち、地面に巨大なクレーターを穿つに留まった。
「降りてこい、この腐れトカゲがッ! ワシの剣が届かぬ場所で、いつまで羽虫の真似をしておる!」
憤怒の声を上げるドレイヴンが、間髪入れずに指示を飛ばす。
「ノーラ、氷柱で羽を止めろ! アリス、聖光斬で叩き落とせ!」
「「はいッ!」」
ノーラが魔力を練り上げる、魔素の濃い深層ならではの巨大な氷の槍を射出する。
同時に、アリスが白い魔力を大剣に宿し、以前より鋭く、高速の白い斬撃を放った。
地上から放たれる『氷』と『聖光』の交差。
並の魔物なら逃げ場を失う同時攻撃だが、ドラゴンゾンビは空中で身を捩り、物理法則を嘲笑うような機動でそれらすべてを回避した。
「チッ、埒が明かんな……」
ドレイヴンが舌打ちし、大剣を青眼の構えに据える。
彼は深く沈み込み、全身の筋肉をバネのように凝縮させた。
彼が纏う魔力が、これまでの戦いとは比較にならないほど鋭利に、そして神聖なまでに純化していく。
「逃げるなら、その足を置いていけ――『聖域断絶』!」
ドレイヴンが放ったのは、剣風ですらない。
一筋の純白の閃光が、上空のドラゴンゾンビを一直線に貫いた。
アリスの聖光斬が「光の刃」なら、これは「光の断裂」そのもの。
ドレイヴン独自の解釈による、全てを断ち切るガードルド閃技における遠距離攻撃の頂点。
――グシャリ、と嫌な音が響く。
閃光がドラゴンゾンビの左後脚を捉え、腐った肉ごと骨を粉砕して吹き飛ばした。
千切れた脚が荒野に落ち、土煙を上げる。
だが、それでもドラゴンゾンビは堕ちない。
欠損した部位から汚泥のような血を流しながら、なおも不気味に空に佇んでいる。
痛みを感じている様子はない。
しかし、その虚ろな眼窩に宿る殺意が、より一層濃く、禍々しく変質したのを全員が感じ取った。
『……ギ、ガガガ……アァアアァァァッ!!』
覇王の咆哮。
それは鼓膜を突き破るような衝撃波となり、一直線に後方のノーラへと向けられた。
ドラゴンゾンビが弾丸のような速度で降下を開始する。
弱者から仕留めるのは戦場の定石、それは魔物とて同じであった。
「させんと言っておろうがッ!」
ノーラの目前。
ドレイヴンが雷鳴のような速度で割って入った。
衝突の瞬間、ドレイヴンは大剣の腹を使い、ドラゴンゾンビの巨大な爪を最小限の動きで弾き飛ばす。
ガギィィィンッ! と空間が震えるような金属音が鳴り響き、ドラゴンゾンビの巨体が大きく逸らされた。
ドレイヴンが踏みとどまり、背後のノーラを完璧に守り抜く。
「……助かりました、御屋形様」
「礼は後だ。こ奴、先ほどより速くなっておるぞ」
再び対峙する両者。
その光景を見ながら、悠馬の背筋を冷たい汗が伝った。
「どうしたもんかね……こいつは」
悠馬の声が、かすかに震える。
ドレイヴンの武勇に安堵したわけではない。その逆だ。
悠馬の視界には、現在、『矢印』が何1つ映っていなかった。
最初の『赤』の警告以降、ぷっつりと途絶えてしまったのだ。
生存へのルートを示す『青』も。
死を告げる絶望の『赤』も。
まるで、世界から「正解」も「不正解」も消えてしまったかのように、悠馬の瞳にはただ、荒野で暴れる死体竜の姿しか映らない。
「(この土壇場で沈黙とはね……。 それとも特級っていうのは、正解すら用意してくれないってことかよ……!)」
案内人の指針が沈黙する。
それは、悠馬にとって死を宣告されるよりも恐ろしい、「無」の恐怖だった。




