第1話|午後三時の教室で、彼女はチョークを取り出した
午後三時は、時間のくしゃみみたいなものだと思う。
ちゃんと存在してるのに、いつのまにか飛ばされて、気づいたら夕方に置き換えられてる。
訪れる前の焦燥感。でも気づいたら過ぎ去っている。
今日の午後三時もそうだった。
教室には僕一人しかいなかった。時計はきっかり三時を指してた。
窓際のカーテンは風で揺れていて、深い海底の呼吸をしていた。
僕は眠くて、でも寝られなくて、なんとなく席を立って、黒板の前まで行って「おはようございます」と言った。
誰にでもなかった。誰かだったかもしれない。
そしたら、そのタイミングでドアが開いた。
すうっと、風の音すら連れてこないまま。
振り返ると、知らない女の子がいた。
セーラー服を着ていた。前髪がまっすぐすぎて、
その奥の瞳が、図書館の隅で埃をかぶった全集みたいに眠っていた。
そのくせ、体中が電気を帯びてパチパチと退屈を跳ねのけようとしていた。
「君、今日から私のことを好きになることになってるよ」
第一声がそれだった。
何かが壊れたというより、何かが最初から狂っていたんだと告げられるような声。
彼女は僕を見ずに、まっすぐ教室の床にしゃがみこんだ。そして、チョークを取り出した。白。折れて、短いやつ。どこから持ってきたのかはわからない。制服のポケットに入っていたのか、それとも、僕が気づかない間に、世界のルールごと書き換えたのかもしれない。
彼女は、床に丸を描いた。
ゆっくり、ゆっくり、半径30cmほどの、きれいな円。
なぜか僕は、それが完成するのを邪魔しちゃいけない気がして、黙って見ていた。
描き終えると、彼女はそこに立ち上がって入った。
自分で描いた白い円の中にすっぽり入って、そこでまた言った。
「はい、これで今日から円の中の私は、ちょっとだけ私じゃなくなります」
僕は、ようやく口を開いた。
「……転校生、だよね?」
彼女はうなずいた。首がなぜか、一秒遅れてついてきたように見えた。
「月見すず。今日からここの一年C組に編入してます」
「なんでチョークで円を描いたの?」
「円の中にいると、ちょっとだけ、世界のことを他人事みたいに思えるから」
「それ、ずるくない?」
「でも必要なんだよ」
彼女は、もう一度円の端に目を落として、指先でなぞった。その指に、なぜかチョークの粉はついていなかった。ついてたとしても、すぐ消えてしまったんだと思う。午後三時みたいに。
「君の教室って、わりと静かだね」
彼女が急に話題を変えた。
「私の前の学校、けっこう騒がしくて。特に午後三時」
「午後三時って、騒がしくなる時間なの?」
「うん。意味もなく騒ぎたい人が騒ぐ。泣きたい人が泣く。あと、秘密をばらす人も多かったよ。午後三時って、そういう時間」
僕は少し考えた。
たしかに、僕の午後三時は、たいてい黙っていた気がする。
でもそれは、なにも起こらないからじゃなくて、
なにかがずっと起こりそうで、起こらないままにしておきたかったからかもしれない。
「ねえ……」
僕がなにかを言おうとした瞬間に、チャイムが鳴った。
今さら。まるで誰かが、巻き戻された時間をいま正しく再生し始めたかのようなタイミングで。
「午後三時、終了だね」
彼女は言った。そして、くるりと回って黒板に向かった。
そこには、何も書かれていない。
だけど彼女は、そこに書かれている何かを読むみたいに、しばらく黙っていた。
そして、ふとこっちを見た。
「君の名前は?」
「高槻陽太」
「ふうん。高槻くんは、なにかを持ってるね」
「何を?」
「わからない。でも、午後三時にいる人は、だいたい何かを持ってる」
彼女はそう言い残して、ドアの向こうに消えた。
僕はひとりになった。
でも、教室にはまだ、あの白い円だけが残っていた。




