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第9話 言えなかった言葉



 越後へ入ってから、三日目の朝。


 朔は、濡れた草を踏みながら歩いていた。


 前日の雨で道はぬかるんでいる。


 草履が泥に沈むたび、足が重くなる。


 隊列の先には、山が見えていた。


 越後の山々。


 その間を縫うように街道が続いている。


 江戸から続いてきた道とは、空気が違っていた。


 田畑が広がっている。


 水が多い。


 川が幾筋も流れている。


 そして、その向こうに長岡がある。


 長岡藩。


 城下町。


 信濃川。


 戦が始まれば、そのすべてが戦場になる。


「榊原」


 前方から声がした。


「はい」


「少し先に信濃川がある」


 隊の責任者が地図を広げた。


 紙の上に一本の太い線が引かれている。


「この川を渡れば長岡へ近づく」


 朔は地図を覗き込んだ。


「橋は?」


「少ない」


「渡しは?」


「いくつかある。だが、敵も当然知っている」


「……川を挟んで戦うことになる?」


「そうなる可能性はある」


 男は地図を畳んだ。


「だから、お前に見てもらいたい」


「俺に?」


「ああ」


「何を見る?」


「川だ」


 朔は眉を寄せた。


「川?」


「敵がどこから渡ってくるか。こちらがどこから渡れるか。地形を覚えろ」


 朔は頷いた。


「分かった」


     ◇


 しばらく歩くと、木々の向こうから水音が聞こえてきた。


 やがて視界が開ける。


 大きな川が、目の前に現れた。


 信濃川。


 水量は多く、流れも速い。


 向こう岸までは、思っていたより遠かった。


 朔は川岸まで歩いた。


「……広いな」


「そうだろう」


 隣にいた兵が答えた。


「この川を敵が渡ると思うか?」


「分からない」


「だが、渡らなければ長岡へは進みにくい」


 朔は川の流れを見つめた。


 戦場というと、刀を振り回す場所を想像していた。


 だが実際には違う。


 川がある。


 山がある。


 田がある。


 道がある。


 橋がある。


 それぞれが、敵味方の生死を左右する。


「……戦は地形から始まるのか」


 朔が呟いた。


 兵は笑った。


「今頃気づいたか」


     ◇


 昼過ぎ。


 隊は川沿いを進んだ。


 遠くに長岡の城下が見え始めた。


 煙が上がっている。


 風に乗って、かすかに火薬の匂いがする。


「砲撃か?」


 誰かが言った。


 その直後。


 ――ドンッ。


 遠くで腹に響く音がした。


 兵たちの足が止まる。


 もう一発。


 ――ドンッ。


 鳥が一斉に飛び立った。


 朔は長岡の方角を見る。


「始まっている……」


 誰かが呟いた。


 長岡城をめぐる戦いが、すでに始まっている。


 町を守る者。


 町を攻める者。


 その間にいる民。


 そのすべてが、戦に巻き込まれていく。


 朔は黙っていた。


 今まで戦場へ向かうとき、こんなことを考えたことはなかった。


 敵を探す。


 斬る。


 生き残る。


 それだけだった。


 しかし今回は違う。


 ここには町がある。


 家がある。


 人が暮らしている。


 千代と同じように、誰かを待っている人間がいる。


「……」


 朔は無意識に懐へ手を入れた。


 そこには、千代が持たせてくれた握り飯があった。


     ◇


 その夜。


 隊は長岡から少し離れた村で宿営した。


 民家を借りることはできなかった。


 住民の多くが逃げていたからだ。


 空き家の縁側に座り、朔は外を見ていた。


 夜空が赤い。


 長岡の方角だ。


 火が見える。


 時折、砲声も響く。


 昼間より、夜のほうが戦争を近くに感じた。


「眠らないのか?」


 後ろから声がした。


「……眠れない」


「珍しいな」


「そうか?」


「ああ。お前はいつも、どこでも寝る」


 朔は答えなかった。


 男が隣に座る。


「家族はいるか?」


 突然の質問だった。


「……いない」


「そうか」


 男はそれ以上聞かなかった。


 しばらく沈黙が続く。


「俺にはいる」


 男が言った。


「妻と子が二人だ」


「そうか」


「帰りたいと思うよ」


 朔が男を見る。


「戦場にいると、家のことばかり考える」


「……」


「朝飯を食べたかとか。子供が熱を出してないかとか。くだらないことばかりだ」


 男は笑った。


「でも、そういうくだらないことが、帰る理由になる」


 朔は何も言わなかった。


 ただ、千代の顔が浮かんだ。


     ◇


 翌朝。


 朔たちは長岡城の西側へ向かう命令を受けた。


 道の両側には田畑が広がっている。


 ところどころに用水路が走っていた。


 足場は悪い。


 大人数で動けば、隊列が崩れる。


 馬も思うように進めない。


「ここでは大軍が動きにくい」


 朔が言った。


「そうだ」


 隊長が答える。


「だから敵も道を選ぶ」


 朔は周囲を見た。


 田。


 水路。


 低い土地。


 その向こうに山。


 地図で見るより、ずっと複雑だった。


「この辺りは?」


「八丁沖と呼ばれる一帯だ」


「八丁沖……」


「ああ」


 隊長は足元を見た。


「昔から水の多い土地だ。道を外せば、足を取られる」


 朔は地面を踏んだ。


 ぬかるんでいる。


「ここを夜に通るのは難しいな」


「普通ならな」


「普通なら?」


 隊長は答えなかった。


 ただ、長岡城の方角を見た。


「戦になれば、普通では考えないことをする者が出てくる」


 朔はその意味を考えながら歩いた。


     ◇


 その日の夕方。


 隊の本陣に緊張が走った。


 伝令が駆け込んできた。


「敵の動きが変わった!」


「どこだ?」


「長岡城周辺です!」


「兵数は?」


「まだ分かりません!」


 怒号が飛び交う。


 地図が広げられる。


 信濃川。


 長岡城。


 街道。


 田畑。


 八丁沖。


 そのすべてが一本の線で繋がっていく。


 朔は地図を見つめた。


 戦場が、初めて一枚の絵として見えた。


 敵も、この地形を見ている。


 味方も、この地形を見ている。


 どこを通るか。


 どこで待つか。


 どこを守るか。


 そして――


 どこを捨てるか。


 朔は刀に手を置いた。


 今までの戦では、敵の目だけを見ていればよかった。


 だが、ここでは違う。


 敵の目。


 兵の数。


 地形。


 川。


 泥。


 銃。


 砲。


 すべてを見なければ、生き残れない。


     ◇


 その夜。


 朔は一人で川岸へ向かった。


 月明かりが水面を照らしている。


 川は何事もなかったように流れている。


 戦争が起きても。


 人が死んでも。


 川は流れ続ける。


 朔は懐から、千代の握り飯を取り出した。


 最後の一つだった。


 包みを開く。


 少し固くなっている。


 それでも食べた。


「……うまい」


 誰もいない川岸で呟く。


 そして、ふと気づいた。


 自分は今まで、戦場から帰りたいと思ったことがなかった。


 生き残れば、それでよかった。


 どこへ帰るかなんて、考えたこともない。


 でも今は違う。


「……千代」


 名前が口からこぼれた。


 言いたいことがあった。


 帰ったら、何を話そう。


 また茶を飲みたい。


 またくだらない話をしたい。


 薬草の仕分けを手伝って。


 また怒られて。


 また笑われて。


 そんな日々に戻りたい。


 それを伝えたかった。


 だが。


 伝える言葉は見つからなかった。


「……帰ったら言うか」


 朔は立ち上がった。


 明日は戦になる。


 その前に。


 まだ一つだけ、言えない言葉が残っている。


 それが何なのか。


 朔自身にも、まだ分からなかった。


 ただ――


 長岡の空が、遠く赤く染まっていた。


 戦は、すぐそこまで来ていた。

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