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第8話 北越への命令



 慶応四年。


 春が終わり、初夏へ向かおうとしていた。


 だが、世の中に春らしい穏やかさはなかった。


 京で始まった戦は、江戸を越え、越後へと広がっていた。


 新政府軍が各地へ兵を進める一方、旧幕府側についた諸藩も次々と兵を集めている。


 人々は、それをただ「戦」と呼んだ。


 だが、その一言の中に、何人もの人間の命が入っていることを、町の者たちはまだ実感していなかった。


 朔を除いて。


     ◇


「北越へ行け」


 宿の一室。


 朔の前に、一人の男が立っていた。


 年は四十ほど。


 腰には刀。


 だが、その顔に武士らしい緊張はなかった。


 何度も戦場を見てきた者の顔だった。


「越後?」


「ああ。長岡周辺だ」


 男は地図を広げた。


 越後の山々と川。


 街道。


 そして長岡。


「新政府軍が越後へ入った。長岡藩も中立を続けることが難しくなっている」


「……戦になるのか」


「もうなっている」


 男は淡々と言った。


「長岡藩は戦の準備に入った。会津や米沢など、周辺の藩とも動きがある。新政府側も兵を集めている」


 朔は地図を見つめた。


「何人だ?」


「正確な数は分からん」


 男は指を地図の上に置いた。


「だが、千や二千という話ではない」


 朔の目が細くなる。


 今まで相手にしてきた浪士や盗賊とは違う。


 これは一人の腕ではどうにもならない戦だった。


 鉄砲。


 大砲。


 槍。


 そして数百、数千の兵。


 刀だけで勝てる戦ではない。


「俺は何をする?」


「先発の小隊に加わってもらう」


「小隊?」


「ああ」


「何人だ?」


「四十ほど」


 朔は黙った。


 四十。


 たったそれだけとも思える。


 だが、戦場では四十人が一度に死ぬこともある。


「役目は?」


「斥候と前衛だ」


「……剣か」


「お前の剣は、そういう場所で使うためにあるんだろう?」


 朔は答えなかった。


 男は書状を差し出した。


「明朝出立だ」


 朔は書状を受け取った。


「分かった」


「怖くないのか?」


「怖がる必要がない」


「そうか」


 男は立ち上がった。


「では、死ぬな」


「……」


 その言葉に、朔は少しだけ顔を上げた。


 男はそのまま部屋を出ていった。


     ◇


 宿を出た朔は、町医者の家へ向かった。


 いつもなら迷わない道だった。


 だが、その日は足が重かった。


 千代に、何と言えばいい。


 戦へ行く。


 ただそれだけだ。


 今までなら、誰かに告げる必要すらなかった。


 戦場へ行き、敵を斬り、生きて帰る。


 それが自分の生き方だった。


 なのに。


 今日は違った。


「……変だな」


 自分でも分からない。


 ただ、足だけは町医者の家へ向かっていた。


     ◇


「朔さん?」


 門をくぐると、千代が庭にいた。


 薬草を並べている。


「こんにちは」


「ああ」


「今日は早いですね」


「……そうだな」


 千代が朔の顔を見る。


「どうしました?」


「何が?」


「少し怖い顔をしています」


「いつもだ」


「そうでしたっけ?」


 千代が笑った。


 朔も、わずかに口元を緩めた。


「茶を飲んでもいいか」


「もちろんです」


 二人は縁側に座った。


 千代が茶を淹れる。


 湯気がゆっくりと上がった。


「どうぞ」


「ありがとう」


 朔は湯飲みを手に取った。


 いつもの味だった。


 なのに今日は、妙に心に残った。


「……千代」


「はい?」


「明日から、少し遠くへ行く」


 千代の手が止まった。


「どこへ?」


「越後だ」


「越後……?」


「ああ」


「戦ですか?」


 朔は黙って頷いた。


 千代の表情から笑みが消えた。


「いつまで?」


「分からない」


「何日くらい?」


「分からない」


「……帰ってきますか?」


 その質問に、朔はすぐ答えられなかった。


 戦場へ行く者が、必ず帰るとは限らない。


 それは千代も分かっている。


 だからこそ、朔は嘘をつきたくなかった。


「分からない」


「……そうですか」


 千代は湯飲みに視線を落とした。


「ごめんなさい」


「何が?」


「変なことを聞きました」


「変じゃない」


「でも……」


「聞いてくれていい」


 千代が顔を上げた。


 朔は少し考えてから言った。


「なるべく早く戻る」


「……」


「戦が終わったら」


「本当に?」


「ああ」


「約束できますか?」


 朔は答えに詰まった。


 昨日までなら、簡単に約束したかもしれない。


 だが今はできない。


 戦場では、何が起きるか分からない。


「……無事に帰るとは約束できない」


 千代の目が揺れた。


「でも」


 朔は続けた。


「戻るために戦う」


「戻るために?」


「ああ」


「どこへ?」


 朔は千代を見る。


 その答えは、すぐには出てこなかった。


 けれど――


「……ここへ」


 千代が目を見開いた。


「この家に?」


「ああ」


「お茶を飲みに?」


「それもある」


「それも?」


「……」


 朔は困ったように目を逸らした。


「他にもある」


「何ですか?」


「分からない」


 千代は少しだけ笑った。


「朔さんらしいですね」


「そうか?」


「はい」


     ◇


 その夜。


 千代は、朔のために握り飯を作った。


「戦場へ持っていってください」


「こんなに?」


「食べるでしょう?」


「食べる」


「足りなかったら?」


「足りる」


「本当に?」


「……多いくらいだ」


「じゃあ安心ですね」


 千代は包みを渡した。


 朔はそれを受け取る。


 軽い。


 たった数個の握り飯。


 それなのに、妙に重く感じた。


「ありがとう」


「どういたしまして」


「……千代」


「はい?」


「俺は」


 言葉が止まる。


 何を言おうとしたのか、自分でも分からなかった。


「……いや」


「何ですか?」


「何でもない」


「そうですか」


 千代は、それ以上聞かなかった。


     ◇


 翌朝。


 まだ町が眠っている時間。


 朔は刀を腰に差した。


 荷物を背負う。


 そして、町医者の家の前に立った。


 千代は外まで出てきた。


「早いですね」


「出発だからな」


「気をつけて」


「ああ」


「怪我をしたら?」


「帰ってくる」


「怪我をしなくても?」


「……帰ってくる」


 千代が微笑んだ。


「待っています」


 朔はその言葉を聞いて、少しだけ目を伏せた。


 待っている。


 その言葉が、こんなにも重いものだとは知らなかった。


「じゃあ、行く」


「はい」


 数歩歩く。


 そして朔は振り返った。


 千代はまだそこにいた。


 手を振っている。


 朔も手を上げる。


 やがて、その姿が見えなくなる。


     ◇


 町を出たところで、朔は一度立ち止まった。


 腰の刀に手を添える。


 これまで何百回もそうしてきた。


 刀を握れば、迷いは消えた。


 人を斬る。


 生き残る。


 それだけだった。


 だが今は違う。


 朔の懐には、千代が作った握り飯がある。


 そして胸の中には――


 帰る場所がある。


「……死ねないな」


 小さく呟いた。


 その頃、越後では戦火が広がり始めていた。


 長岡をめぐり、新政府軍と長岡藩を中心とする同盟軍が激突する。


 やがて長岡城は戦場となり、城下も戦火に包まれていく。


 その戦場へ。


 榊原朔は向かっていた。


 まだ知らない。


 自分がこれから見るものが、これまでの戦とはまったく違うことを。


 そして――


 刀で人を斬ることが、自分自身の生き方を変えることになるとは。


 この時の朔には、知る由もなかった。

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