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第7話 初めての約束



 翌朝。


 朔は目を覚ますと、しばらく天井を見つめていた。


 昨夜のことを思い出している。


『明日も来ますか?』


『行く』


 自分がそう答えたこと。


 そして――


『待っています』


 千代の笑顔。


「……」


 朔は布団から起き上がった。


 刀を手に取る。


 いつものように手入れをする。


 刃に曇りがないか確認する。


 鞘に収める。


 それから、立ち上がった。


「……行くか」


 まるで戦場へ向かうような言い方だった。


 だが、向かう先は戦場ではない。


 町医者の家だ。


     ◇


「おはようございます」


 門をくぐると、千代が庭にいた。


「あっ」


 千代が振り返る。


「朔さん」


「ああ」


「本当に来たんですね」


「約束した」


「……」


 千代が少し笑う。


「覚えていたんですね」


「約束を忘れるほど、馬鹿じゃない」


「昨日の今日ですよ」


「それでもだ」


 千代は嬉しそうに笑った。


「じゃあ、お茶にしますね」


「ああ」


 朔は縁側へ向かった。


 もう、この場所が自分の居場所のように感じ始めている。


 その感覚に、少し戸惑った。


     ◇


 昼。


 二人は庭に座っていた。


 千代が小さな籠を持っている。


「何だ、それは?」


「お弁当です」


「弁当?」


「はい」


 籠を開ける。


 中には握り飯と漬物、それから卵焼きが入っていた。


「食べてください」


「俺に?」


「はい」


 朔は握り飯を手に取った。


 一口食べる。


「……うまい」


「本当ですか?」


「ああ」


「昨日の味噌汁とどちらが?」


「……」


 朔は真剣に考えた。


「今日のほうがうまい」


「本当?」


「ああ」


「よかった」


 千代は嬉しそうに笑った。


 朔は、その笑顔を見ていた。


「何ですか?」


「いや」


「また見てます」


「……笑っているから」


「私、そんなに笑っていますか?」


「ああ」


「朔さんが来ると、なんだか楽しいんです」


 朔の手が止まった。


「……そうか」


「はい」


 千代は何気なく言っただけだった。


 けれど朔にとって、その言葉は重かった。


 誰かに必要とされた記憶など、ほとんどない。


 自分が誰かを喜ばせることもなかった。


 ただ命令され。


 刀を振るい。


 生き残ってきた。


 それだけだった。


「朔さん?」


「ああ」


「どうしました?」


「……いや」


 朔は握り飯を食べた。


 ゆっくりと。


 味を確かめるように。


     ◇


 午後。


 千代の父親が往診に出ている間、二人は庭の草むしりをしていた。


「朔さん」


「何だ?」


「そこ、違います」


「何が?」


「それは草じゃありません」


 朔の手が止まる。


「……そうなのか?」


「花です」


「……」


「せっかく咲いているのに、抜かないでください」


「分かった」


「本当に分かりました?」


「ああ」


「では、そこにある草をお願いします」


「どれだ?」


「その隣です」


「これか?」


「違います」


「これ?」


「それも違います」


 千代が笑い始める。


「朔さん、草むしり向いてませんね」


「刀のほうが得意だ」


「それは知っています」


「ならいい」


「よくないですよ」


 二人で笑う。


 朔も笑っていた。


 ふと気づく。


 自分がこんなふうに笑ったのは、いつ以来だろう。


 思い出せない。


     ◇


 夕方。


 日が傾き始めた。


 千代は縁側に座って、空を眺めていた。


「きれいですね」


「ああ」


「こういう時間、好きなんです」


「何もしていないのに?」


「何もしない時間だから好きなんです」


「……」


 朔はその言葉を聞いて、少し考えた。


 自分には、そんな時間がなかった。


 常に刀を握っていた。


 常に次の命令を待っていた。


 常に死ぬかもしれないと思っていた。


「朔さん」


「ん?」


「昔の話、聞いてもいいですか?」


 朔は黙った。


 千代はすぐに付け加えた。


「嫌ならいいです」


「……」


 しばらくして、朔は口を開いた。


「俺には、昔……両親がいた」


 千代が黙って聞く。


「もういない」


「……そうなんですね」


「ああ」


 それ以上は言わなかった。


 千代も聞かなかった。


 だが、その沈黙が不思議と心地よかった。


 やがて千代が言う。


「私の父は、昔から医者でした」


「ああ」


「父はよく言います。どんな人でも、助けられる命なら助けたいって」


「……」


「私も、そうなりたいと思っています」


 朔は千代を見た。


「俺とは正反対だな」


「そうですね」


 千代は笑った。


「でも、だからいいんじゃないですか?」


「どういう意味だ?」


「違うから、一緒にいると分かることもあると思います」


 朔は何も言えなかった。


 その言葉が胸に残った。


     ◇


 空が暗くなってきた。


「今日は帰る」


 朔が立ち上がる。


「はい」


 千代も立ち上がった。


 門の前まで歩く。


 昨日と同じ場所だった。


「明日も来ますか?」


 千代が聞く。


「……ああ」


「明後日は?」


「ああ」


「その次も?」


「……」


 朔が千代を見る。


「何日続くんだ?」


「分かりません」


「なら、約束できない」


「そうですか」


 千代が少し残念そうにする。


 その顔を見て、朔は言った。


「だが――」


「はい?」


「帰る場所があるなら、帰ってくる」


 千代が目を見開く。


「……ここに?」


「ああ」


「それは……」


 千代の頬が赤くなる。


「約束ですか?」


 朔は少し考えた。


 約束。


 その言葉には、妙な重みがあった。


 戦場で交わした約束は、何度も守れなかった。


 帰ると言って、帰れなかった仲間もいる。


 必ず戻ると言って、戻らなかった者もいる。


 だから朔は、軽々しく約束という言葉を使うことが嫌いだった。


 それでも――


「……約束だ」


 千代が笑った。


「はい」


 その笑顔を見て、朔も頷く。


「必ず帰ってきます」


「待っています」


 二人の間に、静かな時間が流れた。


 やがて朔が歩き出す。


「朔さん」


 呼び止められる。


「何だ?」


「怪我、しないでくださいね」


「……分かった」


「絶対ですよ」


「ああ」


 朔は振り返る。


「千代」


「はい?」


「お前も」


「え?」


「無茶するな」


「私は戦いませんよ」


「そういう意味じゃない」


「じゃあ、どういう意味ですか?」


 朔は答えなかった。


 ただ――


「……また明日」


 そう言った。


「はい。また明日」


 千代が手を振る。


 朔も手を上げた。


     ◇


 その夜。


 朔は宿へ戻る途中、ふと空を見上げた。


 星が出ていた。


「帰る場所……か」


 その言葉を口にしてみる。


 不思議だった。


 これまで、自分には帰る場所などなかった。


 任務が終われば、次の場所へ行く。


 戦が終われば、また別の戦へ行く。


 それでよかった。


 だが今は違う。


 帰りたいと思う場所がある。


 待っている人がいる。


 だから――


 生きなければならない。


 朔は、そんなことを初めて思った。


     ◇


 同じ頃。


 千代は自分の部屋で、今日のことを思い返していた。


「……約束、しちゃった」


 小さく呟く。


 胸が少しだけ苦しい。


 でも、嫌ではない。


 むしろ――


 嬉しかった。


 千代は窓を開けた。


 夜空を見上げる。


 朔も、どこかで同じ月を見ているのだろうか。


「……明日も来るかな」


 その問いに答えるように、風が吹いた。


 まだ二人は知らない。


 明日が、二人にとって最後の穏やかな一日になるかもしれないことを。


 そして――


 この小さな約束が、やがて戦場と血にまみれた運命へと、二人を繋いでいくことを。

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