第6話 笑う女
町医者の家に、朝から慌ただしい声が響いていた。
「お父さん! 包帯、もうありませんよ!」
「納戸の上から二段目だ」
「ありません!」
「そんなはずはない」
「昨日、私が使い切りました!」
「……そうだったか?」
「そうです!」
朔は玄関先で立ち尽くしていた。
「……」
帰ったほうがいいかもしれない。
そう思った。
しかし、声をかける前に、千代が奥から走ってきた。
「朔さん!」
「おう」
「来てたんですか?」
「ああ」
「すみません。今ちょっと忙しくて」
「構わない」
千代は息を切らしながら笑った。
髪が少し乱れている。
頬も赤い。
それでも笑っている。
朔は、なぜか目を離せなかった。
「……どうしました?」
「いや」
「?」
「何でもない」
「そうですか?」
「ああ」
朔は視線を逸らした。
千代は不思議そうに首を傾げた。
「じゃあ、ちょっと待っていてください」
「分かった」
千代が奥へ戻っていく。
朔はその背中を見送った。
「……」
自分でも、少し変だと思う。
昨日までなら、誰かの表情など気にしなかった。
笑っている。
怒っている。
泣いている。
そんなものは、戦場では何の意味もない。
だが――
千代が笑っていると、なぜか安心する。
もう一度見たいと思う。
その理由が、朔には分からなかった。
◇
昼前。
ようやく町医者の家が落ち着いた。
千代が縁側に座る。
「疲れました……」
「そうか」
「はい」
朔が湯呑みを差し出す。
「飲め」
「ありがとうございます」
千代は受け取ると、一口飲んだ。
「……おいしい」
「茶くらい淹れられる」
「意外です」
「何がだ」
「朔さんって、何でもできそうで、実はできないことも多そうです」
「……」
「例えば料理」
「できる」
「本当ですか?」
「米なら炊ける」
「それだけ?」
「味噌汁も作れる」
「具は?」
「……ない」
千代が吹き出した。
「ふふっ」
「笑うな」
「だって……!」
千代は肩を震わせながら笑っている。
朔は黙ってその顔を見ていた。
やがて千代が気づく。
「……何ですか?」
「いや」
「さっきから私の顔、見てますよね?」
「そうか?」
「見てます」
「……」
朔は少し困った。
「笑っているなと思って」
「はい?」
「よく笑う」
「そうでしょうか?」
「ああ」
「朔さんが変なこと言うからですよ」
「俺は普通だ」
「それが面白いんです」
また笑う。
朔は、その笑顔を見ながら思った。
――きれいだ。
その言葉が頭に浮かんだ瞬間、朔は慌てて目を逸らした。
「……?」
千代は首を傾げる。
「どうしました?」
「何でもない」
「顔、赤いですよ?」
「暑いだけだ」
「今日は涼しいですよ」
「……」
朔は黙った。
千代がまた笑った。
「朔さん、面白いですね」
「俺は笑われるために来ているんじゃない」
「では、何をしに?」
「……」
答えられない。
千代がじっと見る。
「また、お茶ですか?」
「それもある」
「団子?」
「今日はない」
「では?」
朔はしばらく黙った。
「……お前に会いに来た」
千代の笑顔が止まった。
「……え?」
言ってしまった。
朔自身も驚いていた。
「いや」
「今、なんて?」
「忘れろ」
「忘れられません」
「……」
「私に会いに?」
「ああ」
千代の頬が赤くなる。
「どうして……?」
「分からない」
「分からないんですか?」
「ああ」
「そうですか……」
千代は俯いた。
その口元には、小さな笑みが浮かんでいた。
◇
その日の午後。
町に一人の男が入ってきた。
浪人風の男だった。
酒に酔っている。
通りを歩きながら、店先の商品を蹴飛ばしている。
「邪魔だ!」
「おい、やめてくれ」
「うるせえ!」
男が店主の胸ぐらを掴む。
周囲の人々は遠巻きに見ているだけだった。
その男の腰には刀がある。
誰も近づこうとはしない。
そこへ――
「やめなさい!」
千代の声が響いた。
男が振り返る。
「何だ、女」
「その人を離してください」
「医者の娘か?」
「そうです」
「だったら怪我でも診てろ」
男が笑う。
「俺が怪我させてやろうか?」
千代の顔が強張る。
その瞬間だった。
男の腕を、誰かが掴んだ。
「……離せ」
朔だった。
男が睨みつける。
「何だ、てめえ」
「その人を離せ」
「お前には関係ねえ」
「ある」
「何がだ」
「千代が嫌がっている」
男の顔が歪む。
「女に言われたから守ってやってるのか?」
「そうだ」
「ふざけやがって!」
男が刀に手を伸ばした。
瞬間。
朔の目が変わった。
さっきまでの穏やかな男とは別人だった。
相手の肩。
肘。
腰。
視線。
呼吸。
すべてを見る。
「……抜くな」
「何?」
「抜けば、お前は怪我をする」
「脅してんのか!」
男が刀を抜いた。
――速い。
そう思った者は、誰もいなかった。
なぜなら。
次の瞬間には、男の刀が地面に落ちていたからだ。
朔の刀は、鞘から半分も抜かれていない。
それでも男の手から刀を弾き飛ばしていた。
「な……」
男が後ずさる。
朔は一歩も動いていない。
「帰れ」
「てめえ……」
「次は、斬る」
低い声だった。
男の顔から血の気が引いた。
逃げるように去っていく。
町に静寂が戻った。
◇
「朔さん……」
千代が近づいてくる。
「大丈夫か?」
「はい」
「怪我は?」
「ありません」
朔は刀を鞘に戻した。
その瞬間――
千代が朔の手を掴んだ。
「……!」
「手が震えています」
「……」
朔は気づいていなかった。
刀を握った手が、わずかに震えている。
「怖かったですか?」
「……いや」
「嘘です」
「……」
千代は朔の手を両手で包んだ。
「ありがとうございました」
「礼はいらない」
「でも、怖かったでしょう?」
朔は答えなかった。
怖かった。
違う。
怖かったのは、男ではない。
自分自身だった。
刀を握った瞬間。
身体が勝手に動いた。
人を斬るための身体。
人を殺すために磨いてきた技。
それは、まだ自分の中にある。
千代の前では忘れていた。
だが――
刀を握れば、すぐに戻ってくる。
「朔さん」
「なんだ」
「私は……」
千代が言葉を探す。
「あなたが人を斬るところは、見たくありません」
朔は黙った。
「でも」
千代は手を離さなかった。
「あなたが誰かを守るために刀を抜くのなら……」
少しだけ笑う。
「私は、あなたの味方です」
朔は千代を見た。
胸の奥が熱くなる。
戦場では、刀を握る自分しか必要とされなかった。
人を斬れること。
強いこと。
死なないこと。
それだけだった。
けれど――
この女は違う。
刀を持っていない自分を見てくれる。
刀を持ってしまった自分も、見捨てない。
「……千代」
「はい」
「俺は――」
言葉が出なかった。
好きだ。
そう言えばいい。
簡単な言葉だ。
だが、その一言がどうしても言えない。
人を斬ることより、ずっと難しかった。
「……いや」
「何ですか?」
「何でもない」
千代が笑う。
「またですか?」
「ああ」
「朔さんは、本当に不器用ですね」
「……そうかもしれない」
朔も、ほんの少しだけ笑った。
◇
夕暮れ。
朔が帰ろうとすると、千代が門までついてきた。
「明日も来ますか?」
「……」
「どうです?」
「行く」
今度は迷わなかった。
「待っています」
千代が笑う。
朔は、その笑顔を見つめた。
そして思った。
――この笑顔を守りたい。
その瞬間。
胸の奥に、今まで感じたことのない感情が生まれた。
戦場で敵を倒す理由ではない。
復讐でもない。
命令でもない。
ただ一人の人間に、生きていてほしいと思う気持ち。
そして同時に――
自分も、この笑顔のそばで生きていたいと思った。
朔はまだ知らない。
その願いが、やがて彼を何度も死の淵へ追い込むことを。
そして最後には――
人を斬るために握った刀を、自ら手放すことになることを。




