第5話 刀を置いた夜
その日の夜。
朔は宿の布団に横になっていた。
眠れない。
目を閉じても、頭の中に浮かぶのは昼間のことだった。
団子。
千代の笑顔。
門の前で手を振る姿。
そして――
『お待ちしています』
「……」
朔は目を開けた。
天井を見つめる。
「何を考えているんだ、俺は」
自分でも呆れる。
戦場にいた頃は、こんなことを考えたことなど一度もなかった。
明日、生きているか。
次に誰を斬るか。
どこへ向かうか。
それだけだった。
女の笑顔を思い出して眠れなくなるなど、馬鹿げている。
そう思う。
だが――
翌朝になれば、また千代のところへ行こうと思っている自分がいた。
◇
翌日。
朔は昼前に町医者の家を訪れた。
「こんにちは」
「……朔さん?」
庭で洗濯物を干していた千代が振り返る。
「また来たんですね」
「ああ」
「今日は怪我してませんね」
「していない」
「熱も?」
「ない」
「お腹も?」
「痛くない」
「では、今日は何ですか?」
「……」
朔は黙った。
「団子?」
「違う」
「お茶?」
「それは欲しい」
「ふふっ」
千代が笑う。
「分かりました。入ってください」
朔は家の中へ入った。
いつの間にか、ここへ来ることに慣れ始めていた。
それが少し怖かった。
この家では、刀を抜く必要がない。
誰かを警戒する必要もない。
千代と話している間だけは、自分が何者なのかを忘れられる。
それが、心地よかった。
◇
昼過ぎ。
千代は薬の整理をしていた。
朔は縁側に座り、外を眺めていた。
風が吹く。
庭の木の葉が揺れる。
平和だった。
あまりにも平和で――
朔には、少し落ち着かなかった。
「朔さん」
「ん?」
「一つ聞いてもいいですか?」
「ああ」
「どうして、そんなに強いんですか?」
朔は黙った。
「……強いか?」
「強いですよ」
千代は即答した。
「前に傷を見たとき、普通の人ならあんな怪我をして歩けません」
「慣れているだけだ」
「それも強さじゃないですか?」
「……」
朔は刀を見た。
「俺には、これしかなかった」
千代の手が止まる。
「刀ですか?」
「ああ」
「昔から?」
「昔からだ」
「どうして?」
朔は答えなかった。
千代も、それ以上は聞かなかった。
聞いてはいけないことがある。
そのくらいは分かっている。
しばらくして、千代が小さく言った。
「話したくなったら、話してください」
「ああ」
「待っていますから」
その言葉が、なぜか胸に残った。
◇
夕方。
千代の父親が帰ってきた。
「ただいま」
「お父さん、おかえりなさい」
医者は朔を見ると、少し驚いた。
「おや」
「こんにちは」
「君か」
以前、傷を治したときにも顔を合わせている。
医者は朔の腹を見る。
「傷は?」
「治りました」
「そうか」
医者は頷いた。
「ならよかった」
それだけだった。
余計なことは聞かない。
朔には、それがありがたかった。
夕食の時間になった。
「朔さんも食べていきませんか?」
千代が言う。
「いいのか?」
「もちろん」
「……では」
朔は食卓についた。
食事は質素だった。
米。
味噌汁。
魚。
野菜。
戦場では、こんな食事をゆっくり食べることなどなかった。
箸を持つ。
味噌汁を飲む。
「……うまい」
思わず口から出た。
「本当ですか?」
「ああ」
千代が嬉しそうに笑う。
「よかった」
「千代が作ったのか?」
「はい」
「そうか」
「どうです?」
「うまい」
「さっきも聞きました」
「二度言っただけだ」
「ふふっ」
そのやり取りを、千代の父親が黙って見ていた。
そして一言。
「千代」
「はい?」
「楽しそうだな」
「……」
千代の顔が赤くなる。
「お父さん!」
「何だ?」
「変なこと言わないでください」
「変なことなど言っていない」
朔は黙々と飯を食べていた。
だが――
耳が少し赤くなっていた。
◇
食事を終えた頃には、外はすっかり暗くなっていた。
朔が立ち上がる。
「今日は帰る」
「もうですか?」
「ああ」
「夜道、気をつけてくださいね」
「問題ない」
玄関へ向かう。
そのときだった。
千代が朔の腰を見る。
「……朔さん」
「ん?」
「その刀」
「これか?」
「はい」
千代は少し迷ってから言った。
「そこに置いていきませんか?」
「……」
朔の表情が変わった。
「なぜ?」
「夜ご飯を食べている間も、ずっと握っているように見えました」
「癖だ」
「分かっています」
千代は困ったように笑う。
「でも……」
少し間を置いて。
「ここにいる間くらい、置いておいてもいいんじゃないですか?」
朔は刀を見た。
腰にある。
何年も握ってきた刀。
何人もの人間を斬った刀。
自分を守ってくれた刀。
そして――
自分を、人から遠ざけてきた刀。
「……」
「嫌ならいいんです」
千代が言った。
「無理にとは言いません」
朔はしばらく黙っていた。
そして――
ゆっくりと刀を外した。
鞘ごと、玄関脇に置く。
カタン。
小さな音がした。
それだけだった。
それなのに。
朔には、ひどく大きな音に聞こえた。
「……これでいいか?」
千代は微笑んだ。
「はい」
「何も変わらないな」
「そうですね」
「刀を置いただけだ」
「はい」
「……」
朔は玄関に座った。
腰が軽い。
いつもなら、そこに刀の重みがある。
今はない。
不思議な感覚だった。
「朔さん」
「なんだ?」
「少しだけ、普通の人みたいです」
「……俺は普通じゃないのか?」
「そういう意味じゃありません」
千代は笑った。
「刀がないと、少し優しそうに見えます」
「刀があると怖いか?」
「少し」
「そうか」
「でも……」
「?」
「私は、刀がなくても朔さんは朔さんだと思います」
朔は千代を見た。
胸の奥が、妙に熱くなる。
戦場でどれだけ人を斬っても、誰もそんなことは言わなかった。
強い。
怖い。
使える。
役に立つ。
そんな言葉ばかりだった。
自分自身を見てくれる人間など、いなかった。
だが、この女は違う。
刀を持っている自分ではなく――
刀を置いた自分を見ている。
「……千代」
「はい?」
「ありがとう」
「何がですか?」
「分からない」
「ふふっ」
千代が笑った。
「変な人ですね」
「ああ」
朔も笑った。
ほんのわずかに。
◇
その夜。
朔は刀を持たずに帰った。
腰が軽い。
何度も無意識に手を伸ばしてしまう。
そこに刀がないことを確認する。
「……」
怖い。
正直に言えば、少し怖かった。
刀がないことが。
これまでの自分にとって、刀は命そのものだった。
それを置いてきた。
たった一晩。
それだけなのに。
何かが変わったような気がした。
宿に戻る。
布団に入る。
目を閉じる。
いつもなら眠る前に刀の手入れをする。
今日は、それがない。
代わりに思い浮かんだのは――
千代の顔だった。
「……」
朔は目を閉じた。
そして初めて。
刀を握らないまま、眠りについた。
◇
翌朝。
町医者の家。
千代は玄関を掃いていた。
ふと、昨日のことを思い出す。
刀を置いた朔。
少し戸惑った顔。
そして、最後の「ありがとう」。
「……」
千代は小さく笑った。
「また来るかな」
その瞬間。
「こんにちは」
門の向こうから声がした。
千代が顔を上げる。
「……朔さん?」
そこには――
刀を腰に差した朔が立っていた。
千代は思わず笑った。
「今日は刀、持ってるんですね」
「ああ」
「どうして?」
朔は少し考えてから答えた。
「……落ち着く」
「昨日は置いていったのに?」
「昨日は……」
朔は言葉を探した。
「お前がいたから」
「……え?」
「いや」
朔は視線を逸らした。
「何でもない」
千代の顔が、少し赤くなった。
二人とも気づいていなかった。
昨日、玄関に置かれた一振りの刀が――
二人の距離を、ほんの少しだけ近づけたことを。




