第4話 また来た男
三日が経った。
朝から空はよく晴れていた。
朔は宿の部屋で刀を抜いた。
刃を眺める。
欠けはない。
血も付いていない。
手入れを終えると、鞘に収めた。
腹に手を当てる。
痛みは、ほとんど消えていた。
歩いても問題ない。
身体をひねっても痛まない。
これなら戦場に戻っても問題ない。
朔は立ち上がった。
「……帰るか」
誰に言うでもなく呟く。
自分には、帰る場所などない。
任務があればそこへ行く。
終われば別の場所へ行く。
それが今までの生き方だった。
だが――
宿を出た朔の足は、なぜか町の外ではなく、別の方向へ向かっていた。
◇
町の通りには朝から人が多かった。
魚を売る声。
野菜を並べる声。
子供たちの笑い声。
戦場とはまるで違う。
朔は人混みの中を歩きながら、ふと足を止めた。
団子屋の前だった。
店先に並んだ団子を眺める。
「……」
甘いものを食べる習慣などない。
買う理由もない。
それなのに、なぜか気になった。
「旦那、団子でもどうだい?」
店の主人が声をかけてくる。
「……いや」
「そうかい」
朔はそのまま通り過ぎた。
数歩進んでから、振り返る。
「……」
そして戻った。
「三本」
「へい!」
団子を受け取る。
一本を手に取った。
食べる。
「……甘い」
当たり前の感想だった。
だが、悪くない。
残りを持ったまま、朔は歩き出した。
なぜ団子を買ったのか。
自分でも分からない。
ただ――
ふと、千代が喜びそうだと思った。
そこまで考えて、朔は眉をひそめた。
「……何を考えている」
独り言が漏れた。
◇
町医者の家が見えてきた。
朔は立ち止まった。
門の前まで来ている。
ここまで来てしまった。
「……」
帰るなら、今だ。
だが、足が動かなかった。
やがて、朔は門をくぐった。
「こんにちは」
声をかける。
返事がない。
「……」
もう一度。
「こんにちは」
「はーい!」
奥から千代の声が聞こえた。
その声を聞いた瞬間、なぜか胸の奥が少し軽くなる。
「……」
朔は自分の感覚に戸惑った。
ほどなくして、千代が姿を現した。
「……朔さん?」
「……ああ」
「どうしたんですか?」
「……」
言葉が出てこない。
千代が首を傾げる。
「怪我が悪くなりました?」
「いや」
「熱?」
「ない」
「お腹が痛い?」
「痛くない」
「では……」
千代がじっと朔を見る。
「何しに来たんですか?」
「……」
答えられない。
朔は手にしていた団子を見た。
「これを」
「団子?」
「ああ」
「どうしたんですか?」
「買った」
「見れば分かります」
「……」
千代が吹き出した。
「ふふっ」
「何がおかしい」
「だって、朔さんが団子を持って立っているのが、なんだか面白くて」
「俺だって団子くらい食べる」
「そうなんですね」
千代は笑った。
「どうぞ。入ってください」
◇
縁側に座る。
千代はお茶を淹れてきた。
朔は団子を一つ千代に渡した。
「どうぞ」
「私に?」
「ああ」
「ありがとうございます」
千代は嬉しそうに受け取った。
「じゃあ、いただきます」
千代が一口食べる。
「おいしい」
「そうか」
「朔さんは?」
「食べた」
「三本とも?」
「ああ」
「全部?」
「ああ」
「……」
千代が笑いをこらえている。
「なんだ」
「いえ」
「言え」
「意外だなと思って」
「何が」
「もっと食事にも無頓着な人かと思ってました」
「食べなければ死ぬ」
「ずいぶん現実的ですね」
「死にたくないからな」
千代の笑顔が少し消えた。
「……死にたくないんですね」
「ああ」
朔は答えた。
昔なら、そんなことを考えたことはなかった。
死ぬことなど怖くなかった。
いや――
怖くないと思い込んでいた。
けれど最近は違う。
戦場で傷を負ったとき。
千代の顔が浮かんだ。
もう一度、あの声を聞きたいと思った。
それが自分にとって何を意味するのか、まだ分からない。
「朔さん?」
「なんだ」
「ぼーっとしていましたよ」
「少し考え事をしていた」
「珍しいですね」
「俺だって考える」
「そういう意味じゃありません」
千代が笑う。
朔も、ほんの少しだけ笑った。
◇
そのとき、表から声が聞こえた。
「千代ちゃん!」
「はい!」
近所の老婆だった。
「父さんはいるかい?」
「父なら今、往診に出ています」
「そうかい。じゃあ、薬だけ置いておくよ」
老婆が千代に包みを渡す。
そして、朔を見る。
「……あら?」
老婆の目が細くなる。
「この人は?」
「知り合いです」
「ほう」
老婆は朔を上から下まで眺めた。
「ずいぶん怖い顔だねえ」
「……」
「刀まで持ってるじゃないか」
朔は何も言わなかった。
「千代ちゃん、気をつけなよ」
「はいはい」
「こういう顔の男は――」
「大丈夫ですよ」
千代が遮る。
「朔さんは怖い人じゃありません」
朔は千代を見る。
老婆は、
「そうかい?」
と首を傾げながら帰っていった。
静かになった。
「……」
「……」
朔は千代に聞いた。
「なぜ、あんなことを言った」
「何がですか?」
「俺が怖くないと」
「怖いですけど」
「……」
「でも、悪い人には見えません」
「なぜ分かる」
「分かりません」
千代は正直に答えた。
「ただ……」
「ただ?」
「私には、昨日のあなたが、人を斬った人には見えなかったから」
朔の表情が固まる。
「昨日?」
「傷を治しているときです」
千代は静かに言った。
「ずっと刀のことを気にしていたでしょう?」
「ああ」
「でも、私が触ったときには、一度も手を払わなかった」
「……」
「本当に人を斬ることしか考えていない人なら、もっと違う顔をしている気がします」
朔は何も答えなかった。
千代は少し笑う。
「だから、私には分かりません」
「……」
「朔さんが、どんな人なのか」
その言葉は、朔の胸に残った。
自分でも分からない。
何者なのか。
なぜ剣を握っているのか。
なぜ戦場にいるのか。
なぜ今、この町にいるのか。
考えたことすらなかった。
◇
夕方。
朔は帰ることにした。
「今日はありがとうございました」
千代が門まで見送る。
「ああ」
「団子もありがとうございました」
「また買ってくる」
言ってから、朔は止まった。
千代も止まる。
「……また?」
「ああ」
「また来るんですか?」
「……」
朔は少し考えた。
「迷惑か?」
「いいえ」
千代は笑った。
「お待ちしています」
朔は一瞬だけ目を見開いた。
そして、
「ああ」
と答えた。
歩き出す。
しばらくして、朔は振り返った。
千代はまだ門の前に立っていた。
手を振っている。
朔も、小さく手を上げた。
町を出る。
夕暮れの道を一人で歩く。
「……また来る、か」
自分で言った言葉を思い返す。
理由などない。
ただ、もう一度あの場所へ行きたい。
それだけだった。
朔はまだ知らない。
人を斬るために生きてきた自分が――
いつか、一人の女に会うためだけに帰る男になることを。
そして、その小さな変化こそが、
彼の人生を大きく変える最初の一歩だった。




