第10話 泥の戦場
朝から、空は重かった。
越後へ入ってから三日。
朔たち四十人の小隊は、長岡の西側へ向かう道を外れ、田畑の間を進んでいた。
道と呼べるものは、細い畦道だけだった。
左右には水を張った田が広がっている。
ところどころに用水路が走り、足を踏み外せば、脛まで泥に沈む。
「……歩きにくいな」
前を歩いていた若い兵が、ぼやいた。
「越後の道は、こんなものなのか?」
「雨が降れば、もっと酷くなる」
隣を歩く年嵩の兵が答えた。
「田んぼの中を、大勢で歩く場所じゃない」
朔は黙って周囲を見ていた。
山を歩くのとは違う。
京で見た戦場とも違う。
道があるように見えて、道がない。
進めそうに見えて、進めない。
田の向こうには、細い水路。
その先には低い土手。
さらにその向こうには、木々に隠れるようにして民家が数軒ある。
そして遠くには、信濃川。
川幅の大きな流れが、朝の曇天の下で鈍く光っていた。
朔は足を止めた。
「どうした?」
後ろから声が飛ぶ。
「……川が近い」
「ああ」
隊の先頭にいた男が振り返った。
「信濃川だ。あれを越えられれば、長岡城下は近い」
朔は川を見た。
近い。
そう思った。
だが、同時に遠いとも感じた。
あれだけの川を、兵が渡る。
馬が渡る。
銃や弾薬を運ぶ。
負傷者を運ぶ。
それだけで戦になる。
刀を抜いて斬り合う以前に、越えなければならないものがある。
「戦っていうのは……」
朔は小さく呟いた。
「刀だけじゃないんだな」
「今さら気づいたか」
男が笑った。
「お前は剣のことしか考えてなさそうだったからな」
朔は返事をしなかった。
否定できなかった。
これまでの朔にとって、戦とは敵を見つけ、刀を抜き、斬ることだった。
相手より速く。
相手より強く。
相手に斬られる前に斬る。
それだけだった。
だが、この土地では違う。
川がある。
沼がある。
田がある。
道がある。
そして、そのすべてが敵にも味方にもなる。
「止まれ」
先頭から声がした。
四十人の足が、一斉に止まった。
鳥が飛び立った。
その音だけが、やけに大きく聞こえた。
朔は腰を落とした。
右手は自然と刀の柄へ向かう。
「何かいる」
先頭の男が、前方の民家を指差した。
「煙だ」
確かに、煙が上がっていた。
炊事の煙ではない。
黒い。
しかも風に流されず、低い位置に漂っている。
朔は目を細めた。
「……火薬」
その瞬間だった。
乾いた音が響いた。
――パンッ!
一人の兵が、肩を押さえて倒れた。
「敵襲!」
叫び声。
同時に、田の向こうから何本もの銃声が響いた。
――パンッ!
――パンッ!
――パンッ!
土が跳ねた。
兵たちが一斉に伏せる。
「伏せろ!」
「どこだ!」
「右だ! 民家の裏!」
朔も身を低くした。
次の瞬間。
すぐ横を何かが通り抜けた。
空気を裂く音。
遅れて、後ろの木に弾が食い込んだ。
朔は木を見た。
銃弾。
刀では防げない。
そう理解した瞬間、身体の奥が冷えた。
「朔!」
呼ばれて振り返る。
隊長が叫んでいた。
「右から回る! 田を抜けるぞ!」
兵たちが動き出す。
だが、朔は動かなかった。
目の前に広がる田を見ていた。
水。
泥。
細い畦。
その向こうに敵がいる。
真っ直ぐ進めば撃たれる。
ならば――
「……水路」
朔は呟いた。
田と田の間にある細い用水路。
幅は人ひとりが何とか通れるほど。
その先は、敵が潜んでいる民家の裏手まで続いている。
「隊長!」
「なんだ!」
「正面から行く必要はありません」
「何?」
朔は水路を指差した。
「ここを使えます」
隊長が目を向ける。
「狭すぎるぞ」
「四十人では無理です」
「なら――」
「三人なら行けます」
朔は刀の柄に手を置いた。
「俺が先に行きます」
「待て」
隊長が腕を掴んだ。
「銃相手だぞ」
「分かっています」
「分かっているなら、一人で行くな」
朔は一瞬だけ黙った。
その言葉が、妙に胸に残った。
一人で行くな。
以前の自分なら、そんな言葉は必要なかった。
一人で十分だった。
敵が何人いようと。
刀を抜けばいい。
だが、今は違う。
後ろには三十九人いる。
自分が死ねば終わりではない。
仲間が死ぬ。
隊長が死ぬ。
そして――
千代の顔が浮かんだ。
「……分かりました」
朔は手を離した。
「二人、借ります」
「俺も行く」
さっきの若い兵が手を上げた。
もう一人、年嵩の兵も続いた。
「三人なら、何とかなる」
隊長は少し迷ってから頷いた。
「無理はするな」
「はい」
朔は水路へ入った。
冷たい水が足袋を濡らす。
膝まで上がる場所もあった。
泥が足を取る。
一歩。
また一歩。
後ろの二人がついてくる。
銃声は続いていた。
正面では味方が敵を引きつけている。
その音を聞きながら、朔は水路を進んだ。
やがて民家の裏手が見えた。
敵兵が三人。
銃を構えている。
まだ、こちらには気づいていない。
朔は刀を抜いた。
だが――
「待て」
後ろの兵が小声で言った。
朔が振り返る。
兵は震えていた。
手も震えている。
当然だった。
目の前には、人を殺す場所がある。
朔はその手を見た。
自分も昔は震えていたのだろうか。
もう覚えていない。
「俺が先に行く」
朔は低く言った。
「二人は後ろを頼む」
「分かった」
朔は水路から上がった。
一歩。
砂利を踏んだ。
敵兵の一人が振り返った。
「誰だ!」
叫び声。
銃口が向いた。
朔は走った。
――パンッ!
銃声。
身体を横へ流す。
弾丸が肩の横を抜けた。
一人目との距離が一気に縮まる。
刀を振る。
だが、斬らない。
柄で銃身を叩き上げる。
男の身体がよろめく。
そのまま懐へ入り、足を払った。
男が倒れる。
二人目が銃を向ける。
朔は身体を沈めた。
引き金に指がかかる。
間に合わない。
そう思った瞬間――
後ろから石が飛んだ。
男の腕に当たった。
「今だ!」
若い兵が叫ぶ。
朔は踏み込んだ。
刀の峰で男の手を打つ。
銃が落ちる。
三人目が逃げようとした。
朔は追った。
だが、足元が泥に取られた。
身体が沈む。
「くっ……!」
一瞬、動けない。
その背後で、男が振り返った。
刀を抜いた。
朔も刀を構える。
互いの目が合った。
敵の顔が歪む。
「死ね!」
男が斬り込んできた。
朔は受けた。
刀と刀がぶつかる。
火花が散る。
一撃。
二撃。
三撃。
男の動きは速かった。
だが、朔には見えていた。
肩。
腰。
足。
次にどこへ動くのか。
それは、長い修練の中で身体に染みついたものだった。
朔は半歩だけ下がった。
相手が踏み込む。
その瞬間、身体を捻った。
刀が男の腕をかすめる。
男がよろめいた。
朔の刀が、その喉元で止まった。
あと数寸。
振り切れば終わる。
男の目が恐怖に変わった。
朔は刀を見た。
自分の手を見た。
そして――
刀を下ろした。
「……行け」
男は呆然とした。
「何?」
「次は、止められない」
男は後ずさった。
そして走り去った。
朔はその背中を見送った。
自分でも分からなかった。
なぜ殺さなかったのか。
昔なら迷わなかった。
殺していた。
なのに。
今は、刃を振り切れなかった。
「朔!」
隊長たちが駆けてきた。
「無事か!」
「はい」
「敵は?」
「二人は倒しました。一人は逃げました」
隊長が倒れている敵兵を見た。
「殺してないのか?」
朔は答えなかった。
その代わり、遠くを見た。
煙が上がっている。
信濃川の向こう。
長岡の町。
戦は、まだ始まったばかりだった。
そして朔は初めて知った。
剣が強ければ、生き残れる。
それは確かだ。
だが――
銃は遠くから人を殺す。
川は進軍を止める。
泥は足を奪う。
地形は味方にも敵にもなる。
そして戦場では、
自分が強いだけでは、
誰も守れない。
「戻るぞ」
隊長の声がした。
朔は刀を納めた。
歩き出す。
泥に沈んだ足を、一歩ずつ引き抜く。
そのたびに、千代からもらった巾着が胸元で揺れた。
中には、もう何も入っていない。
けれど朔は、それを捨てられなかった。
――帰らなければ。
なぜそう思ったのか。
まだ、名前をつけられない。
ただ。
あの町医者の家で飲んだ茶が、
妙に恋しくなっていた。
そして同時に、
そこへ帰るためには、
この戦場を生きて抜けなければならない。
朔は振り返った。
遠くで、また銃声が響いた。
越後の空に、
戦の音が広がっていった。




